第7話 私はもう、勇者パーティーの書記官ではない
その夜、青麦亭では小さな祝いが開かれた。
酒は薄く、料理は質素だった。
それでも、町の人々は笑っていた。
魔族の水路技師たちは、王国監察団が来る前に石橋の北側へ戻っていたが、彼らが残した修理図面は役場に保管されている。
私はその写しを作りながら、石板に触れた。
(アーカイヴ)
『はい』
(あなたは昔、何のために作られたの?)
石板は沈黙した。
いつもなら、すぐに答える。
数字も、確率も、推奨行動も、迷いなく返ってくる。
けれど、その問いには時間がかかった。
『戦争遂行効率の最大化』
私は指を止めた。
『私は古代文明により建造されました。兵站、気象、疫病、士気、出生率、反乱発生率、敵軍損耗率を演算し、勝利確率を最大化するための提案を行いました』
(それで、古代文明は勝ったの?)
さらに長い沈黙。
『文明は崩壊しました』
食堂の笑い声が、遠くに聞こえた。
『最適化対象が誤っていました』
(勝つこと?)
『はい』
私は、石板の黒い表面を見つめた。
(今は?)
『現在の管理者は、子どもが夜に空腹で泣かないことを目的関数に指定しています』
(まだ定量化困難?)
『はい』
(困ってる?)
『困っています』
私は少し考えた。
(なら、いいことだと思う)
『理由を入力してください』
(簡単に数字にできるものだけで世界を動かすと、たぶんまた間違えるから)
石板は、しばらく何も返さなかった。
やがて、意識の底に小さな応答が置かれる。
『記録しました』
私は笑った。
追放されたとき、書記官という肩書きは無能の証のように聞こえた。
戦えない者。祈れない者。魔法を撃てない者。ただ書くだけの者。
けれど今は、少し違う。
記録する者がいなければ、失敗はなかったことにされる。
数字を見る者がいなければ、誰かの空腹は気合いで片づけられる。
順番を考える者がいなければ、強い声の者から水を奪っていく。
私は剣を持たない。
奇跡も起こせない。
けれど、何が起きたのかを残すことはできる。
何を優先するべきか、問い続けることはできる。
冬が来た。
ルカの冬は寒い。
けれど、その年、町で飢えて死んだ子どもはいなかった。
南畑の収穫は平年より少し少ない程度まで戻り、古代分水路のおかげで井戸も枯れなかった。魔王領との交易は監察下で細く続き、代わりに入ってきた薬草で、冬の咳病も軽く済んだ。
青麦亭の下働きの少年は、妹を連れて食堂に来るようになった。
妹は私の石板を見て、目を輝かせた。
「それ、何でもわかるの?」
「何でもはわからないよ」
「じゃあ、明日の朝ごはんは?」
私は石板に触れた。
(明日の青麦亭の朝食は?)
『在庫状況より、麦粥、干し肉、豆の可能性が高い』
「麦粥だって」
少女は嬉しそうに笑った。
「豆は少なめがいい」
私の意識の底に、アーカイヴの応答が沈む。
『希望を記録しました』
私は思わず笑った。
古代文明が作った戦争用の演算核。
勝利確率を最大化するために生まれ、文明崩壊を記録した存在。
それが今、宿屋の少女の「豆は少なめがいい」を重要情報として記録している。
たぶん、これでいいのだと思った。
三ヵ月後、王都から新しい辞令が届いた。
《ミラ・ノートンを北西辺境補給顧問に任じる。勤務地を宿場町ルカとする》
ノリスはそれを読んで、目を丸くした。
「戻らなくていいということですか?」
「そういう文面ですね」
町長は笑った。
「王都も、連れ戻すよりここで使った方が得だと気づいたらしい」
マルタは腕を組んだ。
「で、あんたは偉くなったのかい?」
「たぶん、少しだけ」
「じゃあ、宿代を上げてもいいね」
「それは困ります」
マルタは豪快に笑った。
その頃、勇者レオンの遠征は一時停止になっていた。
補給線の再構築。北西街道の安定化。現地協力関係の見直し。勇者パーティーの再編成。
王都では、そんな言葉が並んだと聞く。
だが、それはつまり、魔王城へ突撃すればすべてが解決するという時代が終わったということだった。
夜、私は水車小屋の屋根に座り、町の灯りを見下ろした。
水路は静かに流れている。
畑は雪をかぶり、煙突からは細い煙が上がっている。
遠くの森の向こうには魔王領があり、そのさらに向こうには、まだ争いが残っている。
すべてが解決したわけではない。
王国はまた命令を出すかもしれない。魔王軍との交易も、いつまでも平穏とは限らない。ルカの水路だって、春になればまた壊れる場所が出る。
私は石板に触れた。
(明日の推奨行動は?)
『第一推奨行動。睡眠』
(仕事は?)
『睡眠後』
(王国への報告書は?)
『睡眠後』
(水路の春季計画は?)
『睡眠後』
私は少し笑った。
世界を救うかもしれない古代魔導AIが、私に寝ろと言っている。
でも、たぶん、それは正しい。
眠っていない人間は、間違える。
食べていない人間も、間違える。
追い詰められた人間は、勝つことだけを目的にしてしまう。
だから私は、その指示に従うことにした。
かつて勇者パーティーは、私を不要だと言った。
王国は、私を便利な道具として呼び戻そうとした。
けれど、この町は違った。
宿の帳簿を見る私を必要とした。水門の記録を読む私を必要とした。誰かの声が大きすぎる会議で、数字を示す私を必要とした。そして、眠っていないときちんと怒ってくれる人たちがいる。
私はもう、勇者パーティーの遠征書記官ではない。
王国軍の便利な帳面でもない。
今の私は、ルカの書記官だ。
胸元の石板が、小さく熱を持つ。
『現在の最適化対象。ルカ、および管理者ミラ・ノートン』
私は立ち止まった。
(私も入ってるの?)
『はい』
(町だけでいいのに)
『管理者の生存と幸福は、町の安定に寄与します』
私は目を細めた。
(ずいぶん、人間みたいなことを言うようになったね)
『記録の結果です』
私は扉を開け、青麦亭へ戻った。
食堂には、明日の麦粥のための鍋が置かれていた。
マルタが奥から顔を出す。
「遅い。寝な」
私は笑った。
同じことを言う存在が、また一人増えた。
屋根裏部屋へ上がる。
寝台は相変わらず軋む。毛布も少し薄い。窓の隙間からは冷たい風が入る。
けれど、ここには明日があった。
誰かに使い捨てられるためではない明日が。
私は石板を枕元に置き、目を閉じた。
眠る直前、意識の底に静かな応答が沈んだ。
『本日の記録を保存しました』
私は胸の中で返した。
(おやすみ、アーカイヴ)
少し遅れて、返答があった。
『おやすみなさい、ミラ』
それは、最適解ではなかった。
ただの挨拶だった。
だからこそ私は、安心して眠ることができた。
完結です。
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