第1話 帳面では魔王は倒せないと言われました
「ミラ・ノートン。お前を勇者パーティーから外す」
王都中央ギルドの大広間で、勇者レオンはそう告げた。
声はよく通った。
だから、広間にいた冒険者たちの何人かがこちらを振り返った。受付の女性も、壁際で酒を飲んでいた傭兵も、依頼票を眺めていた若い魔法使いも、一瞬だけ手を止めた。
その視線は、すぐに好奇心へ変わる。
勇者パーティーから外される者。
それは、酒場の噂話としては格好の題材だった。
「理由を聞いてもよろしいですか」
私は、できるだけ平静に尋ねた。
レオンは金色の髪をかき上げる。彼の背後には、聖女セリア、剣聖ガルド、宮廷魔導師ヴィクトルが並んでいた。
誰も驚いていない。
つまり、この話は私だけが今日聞かされたのだ。
「理由なら、わかっているだろう」
レオンは疲れたように息を吐いた。
「お前は戦えない。回復もできない。攻撃魔法も使えない。勇者パーティーにいながら、やっていることは荷物の横で帳面を広げることだけだ」
「私は王国軍務局から派遣された遠征書記官です。勇者パーティーが王国の補給線と戦費を使う以上、遠征経路、補給、戦費、負傷者、街道状態、現地契約を記録し、軍務局へ提出する義務があります」
「だから、それがいらないと言っている」
レオンの声が強くなった。
「俺たちはこれから魔王領へ入る。必要なのは、勇気と信仰と剣と魔法だ。帳面では魔王は倒せない」
「帳面がなければ、魔王城に着く前に食糧が尽きます」
「そういうところだ、ミラ」
横から聖女セリアが、困ったような顔を作って口を挟んだ。
「あなたが真面目なのは、みんな知っています。でも、あなたはいつも不安なことばかり言うでしょう? 橋が危ない、雨が降る、馬が疲れている、補給が足りない、ガルド様の膝を休ませるべきだ、と」
剣聖ガルドは、腕を組んだまま視線を逸らした。
私は彼の右膝を見た。
昨日の時点で、腫れは引いていなかった。
「必要な報告です」
「士気が下がる報告でも?」
セリアは微笑んでいた。けれど、その目は冷たかった。
「魔王討伐は、王国中の希望です。みんな勇者様を信じています。そこに、失敗するかもしれない、足りないかもしれない、危険かもしれない、と言い続ける人がいたら、どうなります?」
「失敗する原因を先に潰せます」
「違います。みんなが不安になります」
大広間の端で、誰かが小さく笑った。
私は胸元に下げた黒い石板を、外套の上から押さえた。
手のひらより少し大きい、薄い板だ。表面は夜の水面のように黒く、光をほとんど反射しない。縁には、今の王国では使われていない古代文字が刻まれている。
王城の地下倉庫で見つかったものだった。
誰にも起動できなかった。けれど、軍務局の資料整理をしていた私が触れたときだけ、私の意識の奥に、冷たい思考のようなものが流れ込んできた。
それ以来、私はこれを《記録板》として扱っている。
ただ、私の中ではいつしか、別の名で呼ぶようになっていた。
アーカイヴ。
古代語で、蓄積するもの、保存するもの、という意味らしい。
胸元の石板に親指を当て、縁に刻まれた古代文字をなぞる。すると、冷たい水が指先から意識へ染み込むような感覚があり、こちらの問いが石板へ届く。
自分の思考ではないものが、思考の奥にすっと置かれる。
周囲の人間には、私が黙って石板に触れているようにしか見えない。
たとえば、これまで私はこのように使っていた。
私は野営地の端で、寝ている仲間たちを起こさないように石板に触れた。
(明日の天候は?)
『降水確率七十二パーセント。午後より風向き変化。革袋への防水処理を推奨』
(北の森を抜ける場合と、南の街道を回る場合は?)
『南回りを推奨。所要時間は三時間増加。魔物遭遇率は二十一パーセント低下。橋梁老朽化に注意』
(ガルドの右膝は?)
『炎症継続。推奨、二日休養。無視した場合、七日以内に歩行機能低下の可能性』
私はその結果を、翌朝の作戦会議でできるだけ穏やかに伝える。
「午後から雨の可能性があります。革袋に油を塗ってください」
「南回りの方が安全です。少し遠回りですが、魔物の出現記録が少ないです」
「ガルドさん、今日だけでも膝を冷やしてください」
最初は反論された。
次に、笑われた。
その次に、黙殺された。
最後には、私は必要最低限のことしか言わなくなった。
「魔王領への最終遠征は、少数精鋭で向かう」
レオンは言った。
「俺、セリア、ガルド、ヴィクトル。それに王国軍から選抜された騎士十名。記録は後方の本隊に任せる」
「現地契約と補給線の記録は、前線でなければ取れません」
「補給計画は軍務局が立てる」
「私は、その軍務局から派遣されています」
「軍務局も、お前の配置変更を検討している」
レオンは一枚の書類を出した。
軍務局の印がある。
だが、正式な召還状ではなかった。
勇者レオンの要請により、ミラ・ノートンの配置変更を検討する。
そう書かれた、内示に近いものだ。
私はそれを見て、少しだけ理解した。
彼らは、前から私を外す準備をしていたのだ。
宮廷魔導師ヴィクトルが、私の胸元の石板に視線を落とした。
「その古代遺物はどうする」
「私の管理物です」
「王城地下倉庫から出たものなら、本来は王国の管理物だ」
私は石板を握った。
ヴィクトルの目は笑っていなかった。
彼は、私よりも早く気づいていたのかもしれない。
この石板が、ただの帳面ではないことに。
レオンが面倒そうに手を振った。
「その板は持っていけ。今は議論している時間が惜しい」
「レオン様」
ヴィクトルが不満げに声を上げる。
「最終遠征前に、古代遺物の権限確認を――」
「そんなものより魔王だ」
レオンは私を見た。
「ミラ。これはお前のためでもある。後方に戻れば、戦場で足手まといにならずに済む」
足手まとい。
その言葉で、大広間の空気が少し軽くなった。
誰かがまた笑った。
私は頭を下げた。
「承知しました。勇者パーティーから外れます」
「わかればいい」
「ただし、私は正式な召還状を受け取っていません。軍務局への帰任期限も明記されていません。したがって、王都へ戻るかどうかは、確認後に判断します」
レオンの眉が動いた。
「最後まで面倒な言い方をする」
「書記官ですので」
私はそれだけ言って、荷物袋を持った。
誰も止めなかった。
王都中央ギルドを出ると、空は灰色だった。
石畳に雨粒が落ち始めている。
予測通りだった。
私は外套のフードをかぶり、胸元の石板を濡らさないように抱えた。
大通りには人が多かった。
焼き菓子を売る屋台。荷車を押す商人。騎士団の巡回。魔王討伐成功を祈る旗。
どれも昨日と同じだった。
私だけが、昨日と違っていた。
勇者パーティー付きの遠征書記官ではない。軍務局からの正式な帰任命令もない。
荷物袋一つと黒い石板だけを持った、戦えない女。
それが今の私だった。
私は軒下に入り、石板の縁に親指を当てた。
(現在状態)
意識の奥に、冷たい応答が返ってくる。
『管理者ミラ・ノートンの所属変更を検出。勇者パーティー最適化対象から除外されました』
(最適化対象?)
『行動提案、危険予測、資源配分、経路選択、体調管理の優先対象です』
私は雨の糸を見つめた。
(今まで、それを勇者パーティーに対してやっていたの?)
『はい。管理者の入力に応じ、指定集団の生存率および任務達成率を最大化していました』
雨を避け、道を選び、食糧を数え、膝を休ませ、橋を確認する。
その地味な積み重ねが、勇者パーティーを支えていた。
だが、支えられている側には見えなかった。
『新規最適化対象を指定してください』
私はしばらく黙った。
王国のため。勇者のため。魔王討伐のため。
そういう問いばかりを、この石板に投げてきた。
自分のために使ったことは、一度もなかった。
(私が、誰かに使い捨てられずに生きるには、どうすればいい?)
少しだけ間があった。
『第一推奨行動。温かい食事を取ってください』
私は瞬きをした。
(そこ?)
『空腹により判断精度が三十六パーセント低下しています』
私は小さく笑った。
追放された日の夕食は、王都の外れにある安宿の豆スープだった。
具は少ない。塩も薄い。器の端は欠けている。
けれど、作戦会議の途中で立ったまま食べる冷えた携帯食よりは、ずっと食事らしかった。
私はスープを飲みながら、石板に触れた。
(次は?)
『短期目標を推奨。一、今夜の安全な宿泊。二、三日以内の収入確保。三、七日以内の所属先獲得』
(ずいぶん現実的ね)
『現実以外は処理対象外です』
(夢がない)
『夢の定義を入力してください』
私は硬いパンをスープに浸した。
(今はいい)
『推奨地点。北西の宿場町ルカ』
ルカ。
王都から三日ほど離れた街道沿いの町だ。
魔王領に向かう北西街道の中継地で、かつては商隊や冒険者で栄えた。だが近年は街道の一部が荒れ、通行量が減っている。遠征資料で読んだことがある。
(理由は?)
『現在、ルカ行き商隊が臨時の記録補助員を募集しています。報酬は低いですが食事付き。管理者の技能と一致』
私は苦笑した。
勇者パーティー付きの遠征書記官から、商隊の記録補助員へ。
落ちたのか、戻ったのか、自分でもわからない。
(生存確率は上がる?)
『上昇します』
なら、十分だった。




