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第1話:麓の魔女と、価値の分からぬ迷い子


前書き

本作をお読みいただきありがとうございます。

本作は、すべてを諦めて山に引きこもった最強の魔女と、異世界で「コロッケの値段」に一喜一憂する少女が出会う物語です。

一見、静かなファンタジーに見えるかもしれませんが、最後の一行まで、どうぞ目を離さずにお付き合いください。





1. 終わった感情

イルビアスは、山の麓に棲んでいる。

正確には――棲むと決めた。

理由は単純だ。人が、来ない。

かつて、彼女は「聖域の魔女」と呼ばれた。彼女の指先一つで枯れた大地は芽吹き、彼女の詠唱一つで軍勢は灰に帰した。人々は彼女を神のごとく崇め、同時に化け物のように恐れた。

救えば感謝され、救えなければ憎まれ、救い続ければ――当然のように扱われる。

「なぜ、昨日のようには救ってくれないのか」

そう問われたとき、イルビアスの中で何かが音を立てて消えた。それは怒りですらなく、ただの「終止符」だった。


ゆえに、彼女はここを選んだ。

街道から外れ、魔物も寄らず、わざわざ来る理由がない場所。

ここでは名は呼ばれない。期待されない。それで十分だった。 




2. 異物

静寂を愛するイルビアスの夜を、かすかな「音」が乱した。


パサリ、パサリ。

重い足音ではない。かといって獣の気配でもない。

霧の向こう、立ち並ぶ針葉樹の間から、小さな影が這い出してきた。


「……あ」


その影――少女は、イルビアスと目が合うなり、情けない声を漏らした。


身なりは奇妙だった。質の良い、だがひどく汚れた服。そして背中には、この世界の職人なら首を傾げるであろう、赤くて四角い、艶のある「箱」を背負っている。

イルビアスは溜息をついた。


「迷い子か。道ならあっちだ。それとも、私に何か頼みでもあるのか?」

冷淡に突き放す。かつての彼女なら、ここで優しく微笑んで手を差し伸べただろう。だが今の彼女は、この子供が飢えていようが、死にかけていようが、関わるつもりはなかった。

しかし、少女の反応は予想に反していた。

少女はイルビアスを、伝説の魔女としてではなく、「ただの不機嫌そうな住人」として見たのだ。

「あ、すみません。……あの、ここ、キャンプ禁止でしたか?」


「キャンプ……?」

「いえ、なんでもないです。ただ、その……お腹が空きすぎて、つい火の匂いに釣られて」

少女はランドセルの肩紐をぎゅっと握りしめた。

その目は、助けを求める「縋り」の色ではなく、どちらかといえば「不審者に声をかけてしまった気まずさ」に満ちていた。




3. 取引

イルビアスは無言で、焚き火で温めていたスープを指差した。

追い返す手間より、毒消し程度に飲ませて追い出す方が早いと判断したのだ。


だが、少女は一歩も動かない。

「……毒など入っていない」

「あ、いえ。そうじゃなくて……。タダで貰うわけにはいかないので。ええと、今の残高は……」

少女は虚空を指でなぞるような不思議な動きをした後、眉を下げた。


「す、少し高いです。このスープ、たぶん具材が良すぎます。今の私だと……あ、これなら買えます」

少女は背負った赤い箱――ランドセルに手を突っ込み、何かを取り出した。

それは、油の匂いを放つ、茶色の小さな塊だった。

「これ、交換でどうですか? 揚げたてのコロッケ。ソースもかかってます」 


イルビアスは眉を寄せた。魔女の五感が、それがこの世界のどこにも存在しない製法で作られた食べ物であることを告げていた。


一口、それを口に運ぶ。

サクッ、という軽快な音。じゃがいもの甘みと、少し酸味のある濃厚な黒い液体の味。

「……悪くない」

「ですよね! これ、三十円……じゃなくて、銅貨数枚分の価値はあると思うんです」


少女はフィアネと名乗った。

彼女はイルビアスが誰であるかなど一向に興味を示さず、ただ「このスープは美味しいが、原価が高そうだ」だの、「山奥の不動産価値はどうなのか」だの、奇妙な話ばかりを続けた。




4. どんでん返しの予兆

夜が明ける頃、フィアネは満足げに立ち上がった。

「お世話になりました。代金分の働きはできませんが、このコロッケの包み紙は捨てておいてください。……あ、あと」

フィアネは去り際、森の奥を振り返って言った。


「あそこに隠れてる二人、私の『お守り』なんですけど。……魔女さんのこと、凄く怖がってるみたいなので、何もしないであげてくださいね」


イルビアスは目を細めた。

フィアネの背後。霧の奥に、気配が二つ。

それは、かつてイルビアスが軍勢を滅ぼした時に相対した「魔族の将軍」クラスの、極めて巨大な魔力だった。それが二体、恐怖に震えながら、主であるはずの少女を遠巻きに護衛している。


だが、違和感はそこではない。

フィアネが去った後、イルビアスは彼女が「代金」として置いていったコロッケの包み紙を拾い上げた。

そこには、見たこともない文字でこう書かれていた。


『精肉のサトウ 特製コロッケ 100円』


イルビアスは、その紙を凝視する。

彼女はかつて、あらゆる叡智を極めた。全言語を解し、世界の真理に触れた。


だからこそ、理解してしまった。

この「100円」という概念が、この世界の金貨数千枚、あるいは一国の予算をも凌駕する「何か」に直結しているということに。




5. 結末と逆転

数日後、イルビアスは久しぶりに山を降りた。

フィアネが「安いから」と置いていった、あのランドセルから出された不思議な道具――「十円チョコ」と呼ばれる黒い菓子を、街の鑑定士に見せるためだ。

老いた鑑定士は、その菓子を一目見るなり、椅子から転げ落ちた。


「こ、これは……! 構成物質が完全に安定している……! 劣化しない魔力触媒、それも極小の単位で規格化されている! 魔女様、これをどこで!? 一つあれば、王宮の結界を百年維持できる国宝ですよ!」


イルビアスは立ち尽くした。

フィアネは言っていた。


『バブルスライムの液を売って、やっとこれが買えるんです』と。

フィアネが「価値がない」と信じて疑わなかったものは、この世界における「究極のアーティファクト」だった。


そして同時に、イルビアスは気づく。

フィアネが「高価すぎて自分には不釣り合いだ」と怯えていた、イルビアスのスープ。

その具材に使っていたのは、ただの野草だ。

この出会いは、孤独な魔女と可哀想な迷い子の邂逅ではない。


「世界最強の価値観」と「現代の経済概念」が、互いに致命的な勘違いを起こしたまま始まった、破滅的な取引の幕開けだった。


山を降りた魔女は、震える手で十円チョコを握りしめ、空を仰いだ。


「あの子……あんなものを、駄菓子感覚でバラ撒いているのか……?」

静寂は、完全に壊れた。



後書き

第1話をお読みいただきありがとうございました。

「価値観のズレ」が、最強の魔女を物理的な攻撃以上に動揺させる……という展開にしてみました。

フィアネにとっては「安物」でも、魔力に満ちたこの世界では「オーバーテクノロジー」になってしまう。このすれ違いが今後どう加速していくのか。

気に入っていただけましたら、ぜひ次話もお待ちください!

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