第25話 失礼な蜘蛛
車で外出しようとした時のこと。運転席側のドアミラーの上に、一匹の蜘蛛がいた。これから巣を張ろうとしているのだろう。脚が長細く体調1cm余りの小さな蜘蛛だ。
普段の私ならばちょっかいを出して相手をしてあげるところだが、今回はちょうど出掛けようとした時の発見だったので時間的に余裕がない。そのまま車を走らせることにした。
「今から目的地に向かうが振り落とされないようにしっかり掴まっているんだぞ!」
走りだした車の速度は時速40km。秒速でいうならば約11m。蜘蛛にとってはなかなかの強風だ。蜘蛛は風に振り落とされないようにと、ずっと必死にドアミラーにしがみついていた。
目的地の駐車場についた。
車を駐車してエンジンを止めても、蜘蛛はまだ身を固めたままドアミラーにしがみついていた。
私は窓を開けて「もう大丈夫だぞ」と蜘蛛に声をかけた。
10秒ほど経過すると蜘蛛はもぞもぞと動き出した。何やら何かを確認しているようだ。
何を確認しているのだ?
次の瞬間、蜘蛛はドアミラーから5cmほど横に離れた宙に浮かんだ。
どうなっている? いや、極細の糸の上に乗ってかっているのだ。
巣を作ってる最中に私が車を走りださせたので、おそらく作りかけの巣の糸が車から風に靡いていたのだろう。
そして、その靡いた糸の端が駐車場の、隣に駐車している車に張り付いたらしい。私の車と隣の車との間に蜘蛛の糸の架け橋ができていたのだ。その架け橋の長さは2mほどだ。
蜘蛛は見えないほどの細い糸の上を器用に隣の車に向かって走りだした。だが、慌てていたのか何なのか、半分くらい進んだ所で糸から地面に落っこちた。
通常、蜘蛛はいつも命綱を付けながら移動をするものだ。転落しても命綱を手繰ればまた落下前の地点まで戻ることができる。
しかしこの蜘蛛はおっちょこちょいだったのか、命綱を張っていなかったようだ。地面に落っこちたまま、その場に固まった。
蜘蛛はしばらく何かを考えているようだった。
蜘蛛というものは虫の中ではかなり賢い。私はこの蜘蛛が次にどんな行動をとるのか見守った。
蜘蛛が私の車に戻ってくるのであれば私は歓迎するつもりだった。
しかし蜘蛛の考えは違ったようだ。
あっ! どこに行く! どこに行くつもりだ!?
蜘蛛は隣の車に向かって走りだした。そしてその車の後輪にしがみつき、タイヤをよじよじと登り始めた。推測するに、隣の車を新しい住み処に決めたようだ。
裏切り者め!
私はほんの10分前にこの蜘蛛と出会ったばかりだったが、何故かその時はそう思ってしまった。
なんと失礼な蜘蛛だ! 私の車に住み着こうと思って巣を張りかけたなら私の車に住めばいいのに!
やはり私が以前、律儀な蜘蛛を蚊取り線香の煙で燻して追っかけ回したことが蜘蛛の世界に悪い噂話となって広まっているのか!?
だが、本当に隣のその車でいいのか? 通常、一般的な人間は自分の車に蜘蛛を発見したら追っ払って巣は取り壊されてしまうぞ。
私の車ならば、お尻を指で突かれたりとか、時々の私のちょっかいには遭うだろう。だがそれは私からのコミュニケーションなのだ。私はただ、戸惑って慌てる蜘蛛のその姿を少し楽しんでいるだけなのだ。
そんなことを思いながら蜘蛛の動向を目で追っていたら、蜘蛛はタイヤの内側に入り込んで隠れた。
なんて失礼な蜘蛛だ!!
私が悪者みたいじゃないか!?
いや、私は悪者なのか?
「やべぇ、やべぇ。危うく知らずにうっかりあの性悪人間の車に巣を張るところだった……」
私の〝なんちゃってテレパシー〟への蜘蛛からのメッセージだ。
マイカーを持つ人間ならば自分の車に蜘蛛の巣を発見することは少なくはないだろう。
車というのものは蜘蛛にとっては意外と快適な住み処なのだ。獲物が捕れるかどうかはともかくとして、入り組んだ隙間にいつでも隠れることができる、外敵の危険から身を守るには絶好の住まいなのだ。
私の車は基本的に蜘蛛の巣だらけだ。それは、巣の主がそこを立ち退かない限り私がその巣を取り壊さないからだ。
私の車に住み着けばいいのに。
だが、私のいたずら心に勘づいてその場をすぐに立ち去ったというなら、やはり蜘蛛という生物は賢いのだろう。
立ち退き際に自らの巣を片付けてくれるような律儀な蜘蛛はそうはいない。
私の車に巣を作る蜘蛛は大概2日もすればどこかに立ち去ってしまう。ボロボロに破れかけた巣はそのままに。
まぁ、それはいいだろう。
だが、私との遭遇でたった10分で逃げ出した今回の蜘蛛。
私の個人的で勝手な結論。
『あの蜘蛛だけは、とってもとっても失礼な蜘蛛なのだ』
◆◇◆
巣の上での蜘蛛の居場所は、彼らに何の基準があるのかは知りませんが常に頭が下向きで、必ず同じ面の真ん中に陣を取ります。つまり蜘蛛にとっては巣には表裏があるということです。以前、ドアミラーに巣を作った蜘蛛がいたのですが、この蜘蛛はなぜか3日目には居場所が巣の裏側になっていました。何故だろうと思っていたら、蜘蛛はその姿を最後に、すぐに巣を立ち退いてしまいました。
いったい何だったのでしょう?




