見えない雷の暗殺者と涙する窓
「……あ、痛!」
ある冷え込む朝のこと。
私がサロンの金属製のドアノブに手を伸ばした瞬間、指先から「バチッ!」という鋭い音とともに青い火花が散り、強烈な痛みが走った。
「王太后様! 大丈夫でございますか!?」
侍女長のガブリエラさんが血相を変えて駆け寄ってくる。
「平気よ。空気が乾燥してきたから、嫌な季節になったわねえ」
私が赤くなった指先をこすっていると、ガブリエラさんは怯えたように周囲を見回した。
「……やはり、王宮に【見えない雷の魔獣】が棲みついているという噂は本当だったのですね。最近、王宮の至る所でこの『見えない雷撃』の被害が相次いでおりまして……」
そこへ、バンッ!と勢いよく扉が開かれた。
「ははうえぇっ!! お助けを!!」
「痛あっ!? 陛下、私に触れないでくだされ!」
息子のライナルト王とハルバート財務大臣が、お互いに一定の距離を取り、恐る恐るカニ歩きで入ってきた。
その後ろからは、近衛騎士団長のゴードンさんと、宮廷魔術師のエリファスも続く。
「王太后様! 緊急事態です! 王宮内に【見えない雷の暗殺者】が侵入しております!」
ゴードン団長が、分厚い手袋をはめた手で剣の柄を握りしめながら叫んだ。
「金属製の扉を開けようとするたびに、指先を鋭い雷魔法で焼かれるのです! それだけではありません。すれ違いざまに兵士同士の肩がぶつかっただけで、火花が散ってダメージを受ける始末! もはや誰も、他人に触れることができませぬ!」
「私の魔力探知にも、一切引っかからないのです……」
エリファスが、青ざめた顔で震えている。彼の長く美しい銀髪は、まるで巨大なタンポポの綿毛のように、バチバチと音を立てて四方八方に逆立っていた。
「探知不能の高度な雷属性魔法……。私自身も、己の魔力が暴走したかのように髪が逆立ち、治まる気配がありません……!」
(見えない雷の暗殺者って……。ただの『静電気』じゃないの!)
私は呆れてため息をつき、腰に手を当てた。
「いい? 雷の魔獣でも暗殺者でもないわ。空気が乾燥して、着ている服が擦れ合うことで、あなたたちの体の中に『小さな電気』が溜まってしまっているだけよ。それが、金属や他人に触れた瞬間に一気に流れ出ているの!」
「た、体の中に電気が溜まる……!? 我々は歩く魔力爆弾になっているというのですか!」
ライナルトが自らの体を抱きしめて悲鳴を上げる。
「大丈夫よ、溜まった電気を逃がしてあげればいいだけだから」
私は壁際に歩み寄った。
「金属のドアノブや、人に触る前に、まずはこういう『木や石の壁』を、手のひら全体でペタッと触るのよ」
「壁を、ですか?」
ゴードン団長が不思議そうにしながらも、手袋を外し、石造りの壁に手のひらをペタッと押し当てた。
そして、恐る恐る金属のドアノブに指を近づける。
「……っ!! い、痛くない! バチッと言いませんぞ!」
ゴードン団長が目を丸くして歓喜の声を上げた。
「これを『放電』って言うの。木や石はゆっくりと電気を通すから、手のひら全体で触ることで、体に溜まった電気を『大地』へと穏やかに逃がしてあげることができるのよ。指先だけで触っちゃダメよ、広い面積で触るのがコツね」
「な、なるほど! 大地の力を借りて、体内に巣食う雷の呪いを浄化するのですね!」
ライナルトたちも、こぞって壁をペタペタと触り始めた。
「それからエリファス、あなたのその爆発した髪の毛は、乾燥のせいよ」
私は、大掃除の時に作った「特製・天然蜜蝋ハンドクリーム」を取り出し、自分の手のひらに薄く伸ばした。そして、タンポポの綿毛のようになっているエリファスの髪の表面を、上から下へと優しく撫でつけた。
スーッ……。
蜜蝋の油分でコーティングされた瞬間、バチバチと逆立っていたエリファスの髪が、嘘のようにしっとりとまとまり、元の美しい銀髪に戻った。
「おおお……! 私の暴走した魔力が、瞬時に鎮められた……! 適度な油分を与えることで、空気中の摩擦を完全に無効化するとは!」
「髪の毛も肌も、しっかり保湿していれば静電気は起きにくくなるのよ。これも主婦の基本ね」
私がドヤ顔で頷いていると、今度は若い侍女が、半泣きでサロンに駆け込んできた。
「ガブリエラ様、王太后様! お助けください!」
侍女の手には、真っ黒に汚れた雑巾が握られている。
「どうしたの?」
「毎朝、王宮の窓ガラスが、寒さのあまりビッショリと【悲しみの涙】を流すのです……! 拭いても拭いても翌朝にはまた涙で濡れ、ついにはその涙が落ちた窓の木枠に、【黒い呪いの染み】がビッシリと発生してしまいました!」
「ああ……冬の風物詩のダブルパンチね。『結露』と『黒カビ』よ」
私は腕をまくり上げた。静電気の次は窓掃除である。五十代主婦の血が騒ぐ。
「ガブリエラさん! 厨房から『食器を洗う用の石鹸水』を持ってきてちょうだい! それとバルトさんには、一番度数の高い『火酒(ウォッカのような強い蒸留酒)』を用意させて!」
私たちは、問題の窓がある廊下へと移動した。
確かに、外の寒さと室内の暖炉の熱の温度差により、窓ガラスには水滴がびっしりと付き、木枠の下の方には点々と黒いカビが生えてしまっている。
「まずは、この【黒い呪い(カビ)】を退治するわよ」
私は、バルト料理長が持ってきた度数の高い強いお酒を、乾いた布にたっぷりと染み込ませた。
「カビっていうのはね、生きている『菌』の塊なの。だから、水で拭き取るだけじゃダメ。この強いアルコールで、根こそぎ『消毒・殺菌』して息の根を止めるのよ!」
キュッ、キュッ、とアルコールを含ませた布で木枠を拭き上げると、黒い染みが面白いように消え、後にはお酒のツンとした清潔な香りが残った。
「おおお! 呪いの染みが、火酒の浄化の力で消滅した!」
「水で拭いては、また菌に水分を与えて育ててしまうだけだったのですね……!」
「そして、次は結露(涙)を防ぐバリアよ」
私は、薄めた石鹸水を含ませた布で、窓ガラス全体をまんべんなく拭いた。そして、すぐに別の乾いた布で、窓をピカピカに乾拭きする。
「王太后様……。石鹸で拭いた後、水で洗い流さなくてよろしいのですか?」
ガブリエラさんが不思議そうに尋ねる。
「洗い流さないのがポイントなの。石鹸の成分(界面活性剤)がガラスの表面に薄ーい膜を作ってくれるのよ。そうすると、空気中の水分がガラスにぶつかっても、水滴(玉)にならずに、薄い水のベールとしてペタッと平らに広がるの。結果的に、あの厄介なダラダラ流れる水滴を防げるってわけ」
曇り止めスプレーなどない異世界における、主婦の最強の結露防止コーティングである。
「す、素晴らしい……!」
一部始終を見ていたハルバート大臣が、震える手で眼鏡を押し上げた。
「【火酒の聖水】を用いて呪いの根源(菌)を焼き尽くし、さらに【石鹸の絶対防壁】を張ることで、悲しみの涙(冷気と水気)の侵入を完全にシャットアウトする! これならば、王宮の建材が腐るのを防ぎ、修繕費を大幅に削減できますぞ!」
「おおお! さすがは母上だ!」
ライナルト王が、ドン!と自身の胸を叩いて叫んだ。
「雷の暗殺者を無効化する【大地の放電陣】に、窓辺を守る【石鹸の結界】! ハルバート! 直ちに全軍に通達せよ! 今後、金属の扉を開ける前には必ず【壁触りの儀】を執り行うことを義務付ける! そして、全兵舎の窓に石鹸防壁を張るのだ!」
「ははっ! それと、魔術師団の者には、乾燥による魔力暴走を防ぐため、常に【蜜蝋の兜】を装備させましょう!」
(だから、ただの静電気逃がしと、結露対策だってば……!)
私のツッコミを置き去りにして、国王と大臣は、火酒と石鹸水が入ったバケツを高々と掲げながら、嵐のように執務室へと駆け出していった。
相変わらず、私の主婦の知恵は、国家の軍事防衛システムとして厳格に採用されていくらしい。
数日後。
ソルディス王宮では、屈強な騎士たちや厳格な文官たちが、扉を開ける前に必ず「スッ……」と真顔で壁をペタペタ撫でるという、非常に奇妙でシュールな光景が日常茶飯事となった。
「王太后様。おかげで、誰ともバチッとせずに、安心してお裁縫の道具の受け渡しができますわ。窓も、もう泣いておりませんし」
ガブリエラさんが、蜜蝋クリームでしっとりとまとまった髪を揺らしながら、嬉しそうに微笑んだ。
「そうね。冬には冬の厄介事があるけれど、少しの工夫で快適に過ごせるものよ」
私は、ピカピカに磨き上げられ、一切結露していないクリアな窓ガラス越しに、冬晴れの澄んだ青空を見上げた。
見えない雷の暗殺者も、窓の呪いも、五十代主婦の知恵袋の前では、ただの「日常のちょっとしたお掃除案件」に過ぎないのである。




