魔法使いは正しい道を譲らない
地脈の流れが乱れている。
その違和感に最初に気づいたのは、彼女だった。
クラリッサ・ヴァローネ。魔法都市からセインベルへ派遣されている、探知と結界の専門家。
セインベルは、この地方で一番大きな街である。巡礼者、商人、傭兵、訳ありの旅人。昼前の大通りは人で埋まり、馬車の車輪と露店の声と神殿の鐘が、石畳の上で重なっている。
調査を終えて、神殿へ戻る途中。
人混みの中で、クラリッサは、その男を見つけた。
深い帽子。口元を覆う布。旅人風の外套。
それだけなら珍しくもない。
けれど、その男は店を見ていなかった。
人も見ていない。
神殿の塔も、広場の噴水も、巡礼者の列も見ていない。
見ていたのは、道だった。
荷馬車が詰まる角。
衛兵の巡回が途切れる場所。
神殿へ続く裏道。
人混みが崩れた時、自然に流れ込む路地。
それから……決まって、地脈が細くなっている場所。
クラリッサは足を止めた。
濃紫の髪が、肩の上で小さく揺れる。
彼女は袖の内側から、短い杖を抜いた。
白木の細い杖だった。先端には、爪ほどの紫水晶が埋め込まれている。探知と結界の焦点具だ。
クラリッサが杖先で空中をなぞる。
目に見えないほど細い結界糸が、人混みの足元を走った。荷馬車の位置が少しずれ、巡礼者の列が横へ膨らみ、男の進む先が細い路地へ誘導される。
男は、すぐに気づいた。
気づいたうえで、路地へ入った。
嫌な相手だ。
クラリッサは杖を握り直し、後を追った。
路地に入ると、表通りの喧騒が少し遠くなった。
左右には古い石壁。上には狭い空。干された布が、風に揺れている。
男が振り返った。
「観光なら、神殿は反対側よ」
「ご親切に」
「親切ではないわ」
クラリッサは杖先を男へ向けた。
「あなたが見ていたのは神殿じゃない。神殿へ続く道と、そこを塞げる場所。衛兵の巡回。地脈の薄い角。……何者?」
男は少しだけ首を傾けた。
「通行人です」
「通行人は、街の弱点を歩幅で測らない」
「測ってはいません。確認していました」
「同じよ」
「違います。測定には記録が伴います。記録すれば、提出が必要なのですがね」
腹が立つくらい、落ち着いた声だった。
クラリッサは杖を振った。
路地の入口と出口に結界が立つ。
同時に、足元へ三重の円。壁際へ二枚。上空へ一枚。
閉じ込めるためではない。
街へ被害を出さないための形だった。
昔、魔法都市の教師から「過剰防御」と評されたことがある。
けれどクラリッサは、それを直さなかった。
怪我人が出てからでは遅い。
男はそれを見て、目を細める。
「隔離、防御、退路制限。順番がいい」
「採点しないで」
「失礼。減点箇所から申し上げるべきでした」
次の瞬間、入口側の結界が裂けた。
割られたのではない。
継ぎ目だけをほどかれた。
クラリッサはすぐに修復を捨てた。
直すより、次を防ぐ。
壁の結界を斜めへずらす。
男の伸ばした魔力の黒い糸が、そこへ当たった。
黒い糸は結界の面を滑り、横へ流れた。
反射陣の端を撫で、クラリッサの背後の壁に、小さな印を打つ。
逃げ道が一つ消える。
「あなたは、表通り側へ避けない」
男は静かに言った。そしてくすくすと笑う。
「それは、人を巻き込むから」
クラリッサは返事をしなかった。
返事をする余裕が、少しずつなくなっていた。
彼女は杖を両手で持ち直し、結界を狭める。相手と自分だけを閉じ込める。街を守るための形。
男は、それを見て、ほんの少しだけ楽しそうに目を細めた。
「今この時点で会えてよかった」
「どういう意味?」
「数年後であれば、私でも処理に手間取ったかもしれません」
褒めている。
だからこそ、腹が立った。
「今なら、まだ処理できる」。
そう言われたのと同じだった。
「……ずいぶん上から言うのね」
「実際、今は上です」
クラリッサは杖を握る指に力を込めた。
「なら、引きずり下ろすわ」
クラリッサは杖を振り抜いた。
足元の三重円が一つに重なり、路地全体の魔力が跳ねる。
男の足元だけを沈める結界。
動けば膝から崩れる。
跳べば上の結界に引っかかる。
後ろへ退けば壁の印が噛む。
逃げ道は、三つとも塞いだ。
……はずだった。
男は、半歩だけ横へずれた。
沈める結界の縁。
上の結界の影。
壁の印が届く、ほんの手前。
全部の境目が合わさる場所を、正確に踏んでいる。
「いい組み方です。ですが、境目が素直すぎる」
クラリッサの奥歯がぎり、と鳴った。
足元の結界が、また一枚、音もなくほどけた。
男は指先をわずかに下ろした。
「確認は終わりました」
「確認……?」
「あなたの反応速度、防御傾向、市街地被害を避ける判断基準。おおむね把握しました」
今までの攻防が、確認。
その言葉の意味を理解した瞬間、クラリッサの手の中で杖がきしんだ。
「ここからは、強度を上げます」
男の指先に、黒い文字が並び始めた。
それを見た瞬間、クラリッサの背筋が冷えた。
知らない術式だった。
けれど、似た記録なら読んだことがある。
魔法都市の禁書庫には、魔物の危険度を記した古い分類表がある。
下級魔物。
中級魔物。
上級魔物。
そこまでは、まだ討伐対象として記録される。
けれど、その先がある。
討伐ではなく、遭遇回避を前提に記される魔物。
個体名ではなく、被害の形式で分類される魔物。
倒した者の名ではなく、滅びかけた街の名でしか残らない魔物。
災厄指定。
魔法都市では、そう呼ばれている。
黒い文字を使う魔物は、その欄にあった。
その魔物の名は、誰も知らない。
姿も残っていない。
ただ、黒い文字列と、都市が静かに負けた記録だけが残っている。
クラリッサは杖を握る指に力を込めた。
まさか。
そう思った。
目の前の男が、その記録そのものだとは限らない。
けれど、指先に並ぶ黒い文字は、禁書庫で見た挿絵とあまりにも似ていた。
男が静かに告げる。
「黒律、第一節――」
その時、路地の入口から、足音が一つ近づいてきた。
軽い足音だった。
急いでもいない。
警戒もしていない。
散歩のような足音。
「いたいた。おーい、ノルクー!」
* * *
「報告書。三日分だよ」
私はモルの背中に手を置いて、小さな声で言った。
エルミナさんの案内で、私たちはクラリッサさんがいるという場所へ向かっていた。
セインベルは人が多い。
馬車の車輪の音。商人の声。巡礼者の鈴。革靴の店から聞こえる小さな槌の音。焼いた肉の匂い。香辛料の匂い。薬草の苦い匂い。
始まりの街なら、広場の端で誰かがくしゃみをしただけで、反対側の人が振り向く。
でも、この街では、何もかもが重なっている。
その中で、私はたいへん深刻な問題を抱えていた。
報告書である。
「三日分も、書けないよね」
モルは返事をしなかった。
黒い目で、じっとこちらを見ている。
厳しい目だった。
「一日目だけでも、橋と落石と魔物でいっぱいだったんだよ」
モルが、私の靴を軽く踏んだ。
たぶん、難しくても書け、という意味だった。
でも、未提出はよくない。
よくないことをした時は、早めに謝る。
先に謝ったら、許してくれるかもしれない。
よし。
ノルクを探そう。
私は目を閉じた。
セインベルの上には、たくさんの気配が重なっている。人間の体温。馬の息。神殿の光。街を守る古い結界。巡礼路へ流れる地脈。
その中から、魔王城の気配を探す。
黒くて、細くて、まっすぐな魔力。
余白まで揃っていそうな魔力。
あった。
おお。近い。
「いた」
「ネリネ?」
ユリスくんがこちらを見る。
私はモルの毛にそっと手を入れた。指が白い毛の奥へ沈む。
「ちょっとモルの毛を整えてくるね」
「今?」
「うん。内側が絡まってて痛そうだから」
「内側?」
ユリスくんはモルを見た。
モルは、何も知らない羊の顔をした。
エルミナさんが、少し先の通りを指さす。
「クラリッサさんが使っている調査室は、もうすぐそこです。人通りもありますし、すぐなら……」
ユリスくんは何やら迷っていた。
最近のユリスくんは、私がひとりで少し離れようとすると、すぐ難しい顔をする。昨日、橋と落石と魔物があったからだと思う。
でも、ここは街の中だ。
「すぐ戻るよ」
「……本当に?」
「うん」
本当に、すぐ戻るつもりだった。
私はモルを連れて、細い路地へ入った。
表通りの音が、少し遠くなる。
石壁の間はひんやりしていて、昼間なのに影が濃い。濡れた石の匂いがした。
奥へ進むと、ノルクの気配がはっきりした。
やっぱり近い。
思った通り、路地の奥には、ノルクがいた。
人間の服を着て、顔を隠している。けれど、立ち方で分かる。あと、指先に並んでいる黒い文字が、ものすごくノルクっぽい。文字の形まで、報告書みたいだった。
その向こうには、濃紫の髪の女の人がいた。
ノルクの黒い文字は、その人へ向いていた。
さて。
私はちょっと深呼吸する。
先に謝るのは大事だ。報告書が三日分遅れている時は、特に大事だ。
私は、両手をぶんぶん振った。
「おーい、ノルクー!」
ノルクが振り向いた。
びっくりしたのか、思ってたより勢いよく振り向いた。
肩が跳ねる。
腕がつられる。
女性に向いていた指先がこちらを向く。
ぱちん。
ちょうどその指先で、文字列の最後が閉じた。
「あ」
ノルクが、めずらしく間の抜けた声を出した。
放たれた黒い文字列は、そこにいた女性ではなく、私めがけて勢いよく飛んできた。
次の瞬間、黒い文字が私の胸元に吸い込まれた。
ぱちん、とまた軽い音がする。
痛くはなかった。
胸の奥を冷たい指で軽く押されたような感じがする。
ノルクの目が、見たことのない形になった。
『やってしまった』。
そういう目だった。
ノルクが弁解するように両手を広げ、こちらへ焦ったように踏み出しかける。
私は小さく首を振った。
そういうの、今はいいから。
ノルクの足が止まった。
えらい。
でも、目が止まってなかった。
目だけで謝っている。
ものすごく謝っている。
あんなに目だけで謝ることってできるんだ。
たぶん今、あの目だけで報告書が一枚書ける。
題名はきっと、
『黒律誤射に関する経緯と謝罪』。
ノルクらしい。
それから、ノルクは一歩だけ後ろへ下がった。
路地の奥、石壁の影に体を寄せる。
黒い外套の輪郭が、暗がりに沈む。
次に瞬きをした時には、そこに人が立っているとは分かりにくくなっていた。
逃げたわけではない。でも「任せます」と言ってくれたのだと思う。
さて。
私は、自分の胸元を見た。
服は破れていない。血も出ていない。
今からでも、当たっていないことにできないだろうか。
濃紫の若い女性が、こちらを見ていた。
目を見開いて、息を止めている。
顔から血の気が引いている。
無理そうだった。
ここで平気な顔をしていたら村娘ではないので、倒れることにした。
「……あっ」
声も一緒に出しておく。
ちょっと遅かったかもしれない。
次に、痛そうな顔。
痛くないので、資料が足りない。
ユリスくんが昔、自分の足に木の棒をぶつけた時の顔を思い出す。
次に、膝から力を抜く。
どさり、と横向きに倒れる。
たぶん自然。
かなり自然。
「――あなた!」
悲鳴みたいな声がした。
女性が駆け寄ってくる。
杖を持つ手がぶれて、石畳に先端が鳴る。
一度、膝をつきそこねて、それでも私のそばに来た。
私のそばに膝をつき、手を伸ばす。
けれど、触れる直前で止まった。
女性は、なぜか私の手を見つめた。
さっき、ノルクに向かって大きくぶんぶんと振った手だ。
それから、ノルクを見た。
もう一度、私を見た。
「まさか……」
クラリッサさんの声が、震えた。
「私を、庇って……囮に……?」
違う。
でも、今は倒れているところなので、訂正できない。
女性は、私の胸元を見た。
顔を見た。
そして、震える手をこちらに伸ばしてくる。
女性の指が、私の首元へ近づいた。
触れる直前で、一度止まった。
冷たい指先が、首に触れる。
一秒。
二秒。
女性の目が、ゆっくり見開かれた。
「……脈が」
声が、ほとんど息だった。
「脈が、ないわ……!」
まずい。
そういえば、人間はここで生きているかどうかを見るのだった。
そこには、最初からない。
私は倒れたふりをしたつもりだったけれど、どうやら死体のふりになっている。
その時だった。
女性の両目から、涙がぶわっと出た。
本当に、ぶわっと出た。
私は少しびっくりした。
目は、謝ったり、水を出したり、忙しい。
今日は、目の可能性が広がる日だった。
その時、路地の入口から足音がした。
ユリスくんの足音に、とても似ていた。
私は目を閉じたまま、考えた。
いや。
来ないはず。
ちゃんと理由は言った。
モルの毛を整えてくる、と言った。
すぐ戻る、とも言った。
だから、来ないはず……!
「ネリネ!」
来た。
どうして。
ユリスくんは、私が少し変なところへ行く時だけ、見つけるのが早すぎる。
女性の涙が、さらに増えた。
増えるんだ。
足音が近づいて、止まる。
短い沈黙。
状況を見ている沈黙だった。
でも、その沈黙はすぐに崩れた。
「……ネリネ姉ちゃん?」
これは、起きるタイミングを完全に逃した。
「エルミナ! ネリネを診て!」
「はい!」
ユリスくんは私の名前を呼んでいる。
エルミナさんは治療しようとしている。
路地にいた女性は泣いている。
なんかどんどん騒がしくなってる……。
とりあえず私は、倒れたまま、隠れているノルクへ細い魔力を伸ばした。
声に出すと全部ばれるので、ノルクにだけ届く細い連絡。
『ノルク』
『ネリネ様。このたびは、私の術式管理不備により――』
『謝罪は後でいいから』
『後で済む事案ではありません』
『いいから。私、この状態をどうにかできる案がある』
『……そんな案があるのですか』
『あるよ』
『即時起床以外で?』
『それはもう無理』
『でしょうね』
『その案には、ノルクの協力が必要なの』
ノルクが黙った。
短い沈黙だった。
たぶん、撤退経路と口裏合わせと証拠隠滅の順番を、ものすごい速さで並べている。
『必要な処理を指示してください』
ノルクの返事は硬かった。
『ノルク』
『はい』
『手術をしよう』
『は?』




