神官は怪我人を放っておけない
タイトルがちょっと変わりました。こっちの方が合ってるかなって。
「ネリネ」
翌朝、街道を歩き出してすぐ、ユリスくんが低い声で私を呼んだ。
怒っている声だった。
昨日の夜、宿についてから何度も聞いた声でもある。ユリスくんは、昔から私が少し変なことをすると、こういう声を出す。木の柵に登った時も、屋根の上に干してあった布を取りに行った時も、川辺の石を渡って向こう岸へ行った時も、同じ声で私を呼んでいた。
どの時も、私は落ちなかった。
今回も、落ちていない。
だから、たぶん大丈夫だと思う。
「昨日、旅に出たんだ。初日だよ」
「うん」
「初日に、橋から落ちかけて、落石を背中に受けて、最後は頭から魔物にかじられたんだよ」
「頭じゃないよ。上半身」
「そこは訂正しなくていいんだよ!」
ユリスくんの声が跳ねた。
かなり怒っている。
私は少し考えてから、手を伸ばした。ユリスくんの頭を、そっと撫でる。
「よしよし。いい子だね」
ユリスくんは固まった。
昔は、これでだいたい何とかなった。ユリスくんが木の棒をなくして泣きそうになった時も、頭を撫でると少しだけ大人しくなった。
ユリスくんは、私の手をそっと掴んだ。
そして、ゆっくり下ろした。
「それで流そうとしてるでしょ」
突破できなかった。
ユリスくんは掴んだ手を離さないまま、まっすぐ私を見る。
「セインベルに着いたら、神殿に行く」
「神託?」
「それも聞く。でも先にネリネを診てもらう。絶対に」
「私は大丈夫だよ」
「その言葉が一番大丈夫じゃないんだよ」
なかなか厳しい。
ユリスくんはまだ私の手を掴んでいた。怒っているのに、手の離し方を少し迷っているようだったので、私はもう一度よしよししようかと思ったけれど、手を掴まれているのでできなかった。
対策されている。
やがて街道の向こうに、高い石の門が見えてきた。
地方街道都市セインベル。
始まりの街から伸びる道の先にある、このあたりで一番大きな都市だ。門の前には荷馬車が並び、白い巡礼服の人たちや、剣を提げた旅人、籠いっぱいの果物を抱えた商人たちが順番を待っている。風に乗って、焼いた肉の匂い、馬の匂い、石畳の匂い、それから薬草を煮詰めたような苦い匂いが混ざって届いた。
「ネリネ、こっち」
ユリスくんが少し前に出て、荷馬車の通る側と私の位置を入れ替えた。車輪の音がすぐ横を抜け、私は自然と道の内側を歩く形になる。
「危ないよ?」
「だから替わったんだよ」
「ユリスくんが危ないよ」
「俺はいいの」
街の中は、外から見たよりもさらに賑やかだった。道の両側に店が並び、布を売る店の前では色とりどりの反物が風に揺れ、革靴の店では職人が小さな槌を鳴らしている。香辛料の店の前を通ると、鼻の奥が少し痛くなるくらい強い匂いがした。始まりの街で一日にすれ違う人数より、今この通りだけで見える人数の方が多いかもしれない。
神殿は、街の中央にあった。
白い石で造られた大きな建物で、入口には水盤があり、その周りに怪我人らしい人たちが座っている。地方で一番大きな街だから、怪我人もこの神殿に集まってくるのだろう。
ユリスくんが受付の神官に事情を話すと、私たちは中へ通された。
神殿の奥では、薄い金色の髪を肩のあたりで結んだ神官さんが、小さな男の子の膝に手をかざしていた。白い神官服の袖を肘までまくり、薬草の匂いがする布を膝に当てている。
「大丈夫ですよ。痛かったですね。でも、ちゃんとここまで来られました。いい子です」
声は柔らかかったけれど、手つきに迷いはなかった。男の子が泣きすぎてしゃくり上げている間も、彼女は膝についた砂を丁寧に落とし、傷の深さを確かめ、治癒の光を必要な場所だけに重ねていく。
淡い光が消える頃には、男の子の泣き声も少し落ち着いていた。
「いたくない」
「よかったです。でも、今日はあまり走りすぎないでくださいね。傷は閉じていますけれど、体はびっくりした後ですから」
「うん!」
男の子は元気よくうなずき、それから神官さんを見上げた。
「俺、大きくなったらエルミナさんみたいになる!」
エルミナと呼ばれた神官さんは、嬉しそうに笑った。
けれど、その笑顔は、ほんの少しだけ途中で止まった。男の子に気づかれないくらい短い間だったけれど、目元の光が一瞬だけ弱くなったように見えた。
「……ありがとうございます。きっと、なれますよ」
優しい声だった。
「エルミナ」
受付の神官が声をかける。
「勇者様がお見えだ。こちらの方を診て差し上げてくれ」
「勇者様……?」
エルミナさんは男の子を見送ってから、こちらへ向き直った。
そして、ユリスくんを見て、私を見て、モルを見た。モルは礼儀正しそうな顔をしていた。少なくとも、毛の中に鍋が入っている顔には見えない。
エルミナさんは何か言いたそうな顔をしたが、ぺこりと礼儀正しく頭を下げてくれた。
「エルミナです。治療を担当しています」
「ユリスです。こちらはネリネと、モルです」
「よろしくお願いします」
私が頭を下げると、エルミナさんももう1度、丁寧に頭を下げた。
「それで、怪我をされたのはネリネさんですね?」
「はい」
「違うよ」
ユリスくんと私の声が重なった。
エルミナさんの表情が、すぐに治療者のものへ変わる。笑ったり困ったりする前に、まず状況を把握しようとする顔だった。私の「違う」はなかったことにされていた。
「どういう怪我ですか」
「昨日、橋から落ちかけて、落石を背中に受けて、最後は魔物に頭からかじられました」
「上半身ね」
「訂正しなくていいって言ったよね」
ユリスくんがこちらを見る。
エルミナさんは笑わなかった。
むしろ、眉を寄せて、私の立ち方と服の破れた場所を順番に見た。
「背中を打ったのですね。頭も魔物に。呼吸は苦しくありませんか。手足のしびれは。噛まれた場所は熱を持っていますか。痛みは?」
「痛むところは、ありません」
「本当に?」
ユリスくんがすぐに聞いた。
エルミナさんの手から、淡い光が広がった。
じんわりと温かい。
春の日なたみたいな光が、肩から背中へ、腕へ、胸元へ、ゆっくり流れていく。人間なら、たぶん痛みのある場所や傷ついた場所に染み込むのだと思う。
でも、私には何も起こらなかった。
光はどこにも引っかからず、ただ表面を撫でるように流れて消えた。
「……え?」
エルミナさんが、小さく声を漏らした。
「どうしたんです?」
ユリスくんがすぐに聞く。
エルミナさんは答えず、もう一度、今度は少し慎重に治癒の光を流した。額、肩、腕、胸元。最後に、背中へ回ろうとして、私が少しだけ身を引いたので、そこで止めてくれる。
結果は同じだった。
「……手ごたえが、ありません」
「手ごたえ?」
「傷がない時の反応です。けれど、落石を受けて、魔物に噛まれて、何もないというのは……」
エルミナさんは、不安そうに私を見る。
それから、ユリスくんを見る。
「大丈夫……なんでしょうか……? どういうことなの……?」
「奇跡だね」
私は言った。
エルミナさんが、ぱちりと瞬きをした。
「奇跡……」
「神殿だし」
「神殿だから……?」
エルミナさんは、ますます不安そうな顔になった。
治癒魔法は難しい。
治療が終わると、私たちは神殿の奥へ案内された。
勇者が神託を受けるための間だという。
白い石の床に、丸い紋章が刻まれている。天井は高く、上の方に細い窓があり、光が斜めに差し込んでいた。神官長らしい年配の人が祈りの言葉を唱えると、床の紋章が淡く光る。
ユリスくんは、その光の中央に立った。
さっきまで私の「大丈夫」を信用しないと言っていた時とは違う顔だった。背筋が伸び、手は剣の柄に触れず、ただ静かに前を見ている。こういう時のユリスくんは、私の知っているユリスくんより、少し遠くに見える。
光が強くなった。
そして、声が響いた。
『勇者ユリス。東の聖都セフィラへ向かい、光の標を受けよ』
『魔王城は黒き結界の奥にある。標なき者は、門へ辿り着くことすら叶わない』
『汝の歩む道は、すでに星の下に記されている』
それだけ言うと、光はゆっくり消えていった。
「聖都セフィラ……光の標……」
ユリスくんが小さく繰り返した。
私は、魔王城の結界を思い出していた。
あれは、たしかに面倒だ。
近づこうとすると道がずれる。飛ぼうとすると空が折れる。地面を掘ろうとすると、なぜか掘り始めた場所に戻される。
私は前に一度、通行証を忘れて外へ出たことがある。戻る時に門で止められて、手続きが面倒だったので横から無理やり抜けた。
あとで魔王様に言われた。
『お前は無理やり通れる側だが、無理やり通っていいという意味ではない』
手続きは大事である。
神託が終わったあと、神官長は聖都セフィラへ向かう巡礼路について話してくれた。
霧の濃い谷。
魔物が出る林道。
古い巡礼路。
地脈の乱れ。
話を聞くほど、ユリスくん一人で進む道ではないことが分かる。
ユリスくんはしばらく黙っていた。
そして、エルミナさんを見た。
「エルミナさん。さっきの子を治していましたよね」
「はい」
「怪我人は、これからも出ると思います」
エルミナさんは、胸元の聖印に手を添えた。
「……そうですね」
「俺は、誰かを助けたいと思って旅に出たんです。でも俺一人では、助けたあとに守りきれないかもしれない。怪我をした人に手を伸ばせる人が、一緒にいてくれたら心強いんです」
エルミナさんの指が、聖印を強く握った。
白い指先に、ほんの少し力が入る。
「でも、わたしは戦えません」
その声は静かだった。
言い慣れている言葉なのだと思った。
何度も自分に言ってきた言葉。誰かに言われる前に、自分で先に置いてしまう言葉。
ユリスくんは、すぐに答えた。
「戦えないことを、足りないことみたいに言わないでください」
エルミナさんが顔を上げる。
ユリスくんは、まっすぐ彼女を見ていた。
「怪我をした人のそばに残れる人は、逃げていない人です」
神殿の中が、少し静かになった。
エルミナさんは何も言わなかった。
ただ、聖印を握っていた指が、ゆっくりほどける。
さっき男の子に「エルミナさんみたいになる」と言われた時、途中で止まった笑顔。まるでその止まったところに、今の言葉が届いたみたいだった。
「……逃げていない」
エルミナさんが、小さく繰り返した。
声が少し震えていた。
「はい」
「わたし、戦えません」
「うん」
「剣も振れません。魔物が出たら、きっと怖いです。足がすくむかもしれません。泣いてしまうかもしれません」
「うん」
「でも」
エルミナさんは、胸元の聖印から手を離した。
少しだけ、息を吸う。
そして、エルミナさんは、自分の指を見た。
さっき、男の子の膝に当てていた指だった。
「倒れた方のそばに残ることならできます。怖くても、手を離さないことなら」
そう言ってから、エルミナさんは笑った。
今度は、途中で止まらなかった。
「それでよければ、ご一緒させてください」
「お願いします」
ユリスくんは、頭を下げた。
外ではこうなのだ。
ユリスくんは、ちゃんと相手を見て、ちゃんと必要な言葉を選べる。エルミナさんが自分で小さくしていたところを、まっすぐ見つけて、そこは小さくないと言える。
私の時は、少し違う。
すぐに怒る。すぐに「信用しない」と言う。そして、昔みたいに私の手を掴んで、なかなか離さない。
ユリスくんは、大きくなった。
でも、私の前では、時々まだユリスくんだった。
「エルミナ」
神官長が、静かに名前を呼んだ。
エルミナさんの肩が少しだけ揺れる。
「聖都へ向かう巡礼路には、治療者が必要になる。勇者様に同行しなさい」
エルミナさんは、驚いたように目を見開いた。
「……よろしいのですか」
「怪我人のそばに残る者が必要だと、今、勇者様が仰った。それで十分だ」
エルミナさんは嬉しそうに微笑み、こちらに向き直って、今日一番の綺麗なお辞儀をした。
「よろしくお願いします!」
エルミナさんが仲間になったあと、聖都までの道について、もう少し話すことになった。
セフィラへ向かうには、巡礼路を越える必要がある。けれど、その道は霧が濃く、魔物も多く、さらに地脈の乱れがあるという。
エルミナさんは地図を見ながら、少し考え込んだ。
「セフィラへ向かうなら、もう1人、相談した方がいい方がいます」
「もう1人?」
ユリスくんが聞く。
「はい。とても。ただ……」
エルミナさんは、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「お話は、少し鋭いです」
「鋭い……?」
一言なのに、明らかに怖そうだった。
「魔法都市から来ている、クラリッサさんという魔法使いです。探知と結界に詳しくて、巡礼路の地脈も調べていらっしゃいます」
「いい人ですか?」
私が聞くと、エルミナさんは少しだけ目をそらした。
「……正しい方です」
正しい。
いい人とは言ってくれなかった。
その時、モルが、もぞ、と動いた。
神殿の床に座っていたモルの毛の奥から、白い封筒がゆっくり押し出されてくる。ふわふわの毛をかき分けるようにして、封筒の端が見えた。
黒い封蝋。
私は、少しだけ固まった。
魔王城からだ。
「ネリネ?」
「なんでもないよ」
私は封筒を受け取って、できるだけ自然に袖の中へ隠した。モルは、もう自分は関係ありません、という顔で神殿の外に生えた草を見ている。
封筒は、角まできっちり揃えて折られていた。
封蝋の位置も、紙の中心から少しもずれていない。こういう封筒を送ってくる人を、私は一人しか知らない。
ノルクである。
ノルクの字は細い。余白は均等で、行はまっすぐで、句点の位置まで決まっている。昔、私が提出した報告書の余白が日によって違うと指摘してきた時も、同じ字だった。
私は袖の中で、封筒を少しだけ開いた。
『報告書が三日分、未着です。
勇者ユリスの観察記録を至急提出してください。
神託発生後、勇者一行がセインベル周辺を経由する可能性を確認しました。
同地域において、近日中に魔王軍の現地行動が実施されます。
当該行動の現地指揮は、私が担当します。
ネリネ様におかれましては、監視対象との接触距離を適切に保ち、不用意な介入を避けてください。
ノルク』
最後の名前まで、まっすぐだった。
怒っている時ほど、ノルクの字はきれいになる。
当該行動の現地指揮は、私が担当します。
その一文を読んで、私は少しだけ目を閉じた。
ノルクが来る。
それはつまり、ノルクが正しいと思ったことを、セインベルのどこかで、きちんと正しく実行するということだった。
クラリッサさんも正しい人らしい。正しい人が2人いたら友達になる? それとも喧嘩になる?
でもノルクは正しいので、きっと無茶なことはしないだろう。
少なくとも、セインベルの街中で、誰が見ても分かるような騒ぎを起こすようなことはない。
たぶん。
……たぶん。




