第二話 天使墜落
【 『天使』が地上へ堕ちる、数時間前 】
地上から遥か上空、静止軌道上に浮かぶ宇宙コロニー『アヴァロン』
そこは、ナノマシンと人工知能によって完全に管理された、人類最後の楽園だ。
分厚い隔壁の向こうには致死的な宇宙線と真空が広がっているが、ドームの内側では、今日も人工太陽がのどかな春の陽射しを降り注いでいる。
気温、湿度、風のそよぎに至るまで、すべてが計算尽くされた完璧な世界。
その最深部にある『環境再生局』の特別研究室に、一人の男が出勤してきた。
「ふわぁ……。今日のコーヒーは少し酸味を強くしてくれ」
だぶついた白衣に、無精ひげ。寝癖のついた髪をかきむしりながらあくびをする男の名は、クラーク。
アヴァロンにおいて「天才」の名をほしいままにする主席研究員であり、同時に極度の生活能力欠如者としても知られている。
椅子に座るタイミングを見計らったかのように、給仕ロボットのアームが湯気の立つマグカップをデスクに置いた。
クラークは礼も言わずにそれをすすり、慣れた手つきで空中のホログラム・コンソールを操作する。
膨大なデータウィンドウを脇に追いやり、彼が真っ先に開いたのは、ある一つのモニターだった。
「おはよう。今日のご機嫌はいかがかな? 天使」
クラークの声色が、研究者のそれから、孫を愛でる好々爺のものへと変わる。
モニターに映し出されたのは、無菌室に置かれたベビーベッド。その中で、一人の赤ん坊がスヤスヤと眠っていた。
透き通るような白い肌に、黄金の産毛。
一見すればただの愛らしい乳児だが、その存在こそが、このコロニーの、いや人類の悲願そのものだった。
プロジェクト・エデン。
地上を覆う暴走ナノマシン汚染に適応し、さらにそれらを制御・浄化する抗体ナノマシンを生まれながらに宿した、唯一無二の「適合体」。
コードネーム『天使』。
彼女は、閉ざされた空を開き、コロニーの人類が再び地上との繋がるための鍵なのだ。
「おはようございます、クラーク局長。天使はいつもどおり、バイタルも安定して良い子にしていますよ」
背後から鈴を転がすような声がかかった。
振り返ると、腰まである美しい金髪を揺らした女性が立っていた。
彼女の名はアロウェイ。若くしてクラークの補佐を務める優秀な研究員であり、局内の男性職員たちのマドンナ的存在だ。
「おはよう、アロウェイ。今日は夜勤明けだったかな?」
「はい、私はもうじき上がりです。局長は相変わらず出勤が早いですね」
「天使と会うのが楽しみなのさ。彼女の成長データを見ている時だけが、あの古狸どもの予算会議を忘れられる」
クラークは苦笑しながらコーヒーを口に運んだ。
古狸――コロニー評議会のことだ。現在、コロニー内では二つの派閥が冷戦状態にある。
一つはクラークたちが属する『救済の手』
ナノマシンを失い、地獄と化しているであろう地上の人類を救済すべく活動しているグループ。
定期的に救援物資の投下活動も行っている。
そして、もう一つが『コロニスト』
地上など見捨てて切り離し、永遠に宇宙だけで生きるべきだと主張するグループだ。
「最近、コロニストの連中がうるさくてね。『愚かな地上に関わるな』『予算の無駄だ』と連日抗議文が届いている」
「困った人たちですね……地上にだって、罪のない人達は沢山いるはずなのに」
アロウェイが悲しげに眉を寄せる。
クラークは肩をすくめ、再び愛おしそうにモニターの中の希望を見つめた。
赤ん坊が、小さく寝返りを打ち、右手をふわりと掲げる。
「……ん?」
クラークの手が止まった。
違和感。
科学者特有の直感が、背筋に冷たいものを走らせた。
「……この仕草、さっきも見たような?」
「え? 赤ちゃんなんですから、同じような動きもするでしょう?」
「いや、違う。タイミング、角度、指の曲がり方……完全に一致していた」
クラークはマグカップをデスクに叩きつけるように置くと、キーボードを叩いてログを遡った。
1分前。3分前。5分前。
再生された映像の中で、赤ん坊は全く同じタイミングで、1ミクロンの誤差もなく同じ寝返りを繰り返していた。
「ループ映像だ……!」
「えっ!?」
クラークは椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「緊急事態だ! ホワイトルームへ急ぐぞ!」
血相を変えて走り出した局長の後を、アロウェイも青ざめた顔で追う。
ホワイトルームの前には、厳重なセキュリティゲートがある。
網膜認証、静脈認証、音声パスワード。どれも異常を示すものはないが、嫌な予感は消えない。
分厚い扉を開ける。
プシュウ、という気圧調整の音と共に、無菌室の空気が流れ出てくる。
二人は部屋の中央にあるベビーベッドへと駆け寄った。
「いない!」
クラークの絶叫が響いた。
そこには、誰の姿もなかった。
温かい体温も、ミルクの匂いも、未来への希望も。
あるのは、皺ひとつなく整えられた冷たいシーツだけ。
「そんな?! 昨夜は確かに居ました! 私が最後に見回った時は……!」
アロウェイが崩れ落ちそうになるのを支え、クラークは壁の非常ボタンを力任せに叩きつけた。
『緊急警報。緊急警報。特別重要管理オブジェクトの消失を確認。全セクターを閉鎖します』
無機質なアナウンスと共に、真紅の回転灯が廊下を染め上げる。
警備員、警備ロボットが一斉に起動し、館内を封鎖していく。
「内部犯だ。それも相当な権限を持った奴の手引きがある」 クラークは歯ぎしりをした。
コロニストの仕業に違いない。だが、まさかここまでやるなんて。
議論や予算凍結ではなく、物理的な手段でプロジェクトそのものを消し去ろうとするとは。
「局長……天使は……殺されてしまったのでしょうか……」
震える声で問うアロウェイに、クラークは首を振った。
「いや、あの子の体内にあるナノマシンが彼女を守るはず。そう簡単に手を下すことは出来ない」
まだ館内のどこかに隠されているはずだ。
クラーク自身、ここを飛び出して探しに行きたい衝動に駆られたが、理性がそれを止めた。
今は司令塔が必要だ。
彼は震える手でデスクのコンソールを握りしめた。
「全エリアのカメラを確認しろ! 館内を封鎖して1人も出すな!」
永遠とも思える苦痛の時間。
だが実際には、警報が鳴ってから十分もしないうちに、報告が入った。
研究所から出ようとした男が偽造IDを所持しているのが発覚し、警備ロボットによって拘束されたのだ。
数分後。 クラークの前に引っ立てられたのは、作業着姿の小柄な男だった。
顔は見知らぬ中年だが、その目は異様な光を宿している。
「天使をどこへ隠した? 今ならまだ間に合う。場所を言え」
怒りを押し殺し、クラークが低い声で問いかける。
「どうせ指一本触れられていないだろう。時間の無駄だし、すぐに白状した方が痛い目を見ずに済む」
だが、男はクラークの威圧にも怯むどころか、不敵な笑みを浮かべた。
「へっ、もう遅い」
男はそう言って、胸についているIDカードを指し示した。
「フランツ・ソール。……清掃局員?」
クラークが眉をひそめた瞬間、アロウェイが悲鳴のような声を上げた。
「局長! 清掃システム、第4ゲートが稼働しています!」
「なんだと!? 清掃局員……まさか!」
クラークの顔から血の気が引いた。
このコロニーにおいて、確実に「物」を外へ出せる場所。
それはドックではない。ゴミ捨て場だ。
「いかん! 清掃システムをダウンさせろ! 射出を止めろ!」
「だめです! システム停止が弾かれます!」
アロウェイの指が鍵盤の上を走るが、モニターのカウントダウンは無慈悲に進んでいく。
「物理的強制停止に向かい……ああっ!」
ガコンッ、という重い振動が、遠く床下から伝わってきた。
続いて、プシュウゥゥ……という、何かを真空へ吐き出す音。
モニター上の表示が『射出完了』へと切り替わる。
「廃棄物ポッド射出……中から天使のパターンを指し示すナノマシンのサインが……出ています……」
アロウェイの声が絶望に掠れる。
画面には、無情なステータスが表示されていた。
『廃棄分類:未分別』 『リサイクル不可・地上投棄』
地上目掛けて射出された廃棄ポッド。
人類の希望である天使は、スクラップと共に、荒廃した地上へと投げ捨てられたのだ。
「天使が……墜ちてしまった……」
クラークはその場に膝をついた。
暴走ナノマシンの雲や、地上への墜落の衝撃は問題にはならない。
天使のナノマシンが彼女を守るだろう。
だが、問題はその後だ。
いくら適合体といえど、赤ん坊の身で生きていく事は出来ない。
狂ったように笑う男の声が響く中、クラークたちはただ、真っ暗なモニターを見つめることしかできなかった。
彼らは知る由もなかったのだ。
その「ゴミ捨て場」の下に、文明を忘れなかった最後の人々、ギーグスが待っていることを。




