第2話 「請求書は、朝日とともに」
翌朝。
公爵邸の食堂に、朝日が差し込んでいた。 窓辺の薔薇が、昨夜の雨に濡れて、まだほんの少し首をうなだれている。給仕のアンナが、いつも通り、紅茶を淹れてくれている。湯気が、糸のように立ちのぼる。
——いつも通りの、朝でしたわ。 ……新聞、を、開くまでは。
『公爵令嬢、断罪の場にて感謝を述べる』
一面、最大級の見出しでしたわ。 副題が、二段に分かれていて、
『「ありがとうございます」と微笑む』 『気鬱の病か、それとも——』
そして、その下に、わたくしの肖像画が載っている。 ……いえ、肖像画ではないわね、これは。昨夜の現場で、どなたかが、こっそりお描きになったのだ。 笑顔の。三年ぶりに披露した、あの笑顔の。
——お描きになるのが、お早いこと。 王都の新聞社って、こんなにも仕事が早かったかしら。少し見直しました。
「お嬢様」
アンナが、紅茶を置きながら、おそるおそる口を開いた。 アンナはわたくしより二つ年上で、十四のときからわたくしの世話をしてくれている。この三年、わたくしの「悪役令嬢ムーブ」を、一番近くで見て、一番傷ついていたのも、たぶん、この子だ。
そのことについては、まだ、何も話せていない。
「お嬢様、その……世間で、たいへんな噂に……」 「ええ、読んでいますわ」 「……『気鬱の病』ですって……」 「あら、いいじゃない、これ」
わたくしは、紅茶のカップを持ち上げた。 アンナが、目を丸くする。
「少なくとも、この見出しのおかげで、当面わたくしの命は狙われませんもの。」
——気鬱の病になった令嬢を、わざわざ刺客で消す貴族はいない。狂った犬は放っておけば自分で死ぬ、と思われるからだ。 むしろ、わたくしが昨日「完全に正気で、計算ずくで」あの場に立っていたと世間が気づいた瞬間に、わたくしは襲撃対象になる。それはマリエル様の側からしても、そうですわね。
だから、この『気鬱』の見出しは、わたくしにとって、当面の防弾チョッキですわ。新聞社さま、ありがとう。 ——新聞社さまへの感謝が、一日のうちに二回もあった、と日記に書いておこう。
「あの……」 「アンナ」 「は、はい」
わたくしは、新聞を畳んだ。 そして、テーブルの向こうの、彼女の顔を、まっすぐ、見た。
「あなたに、まだ、ちゃんと、お詫びをしておりませんでしたわね」
アンナの肩が、ぴくり、と跳ねた。 三年前、おとり捜査を始める前夜。わたくしはアンナを呼んで、「これから三年間、わたくしはあなたに、ひどいことを言うかもしれない」と告げた。理由は伝えられなかった。アンナは、わかりました、と頷いた。頷いたうえで、それからずっと、何度も傷ついていた。
——傷つけた側の覚悟だけで、傷ついた側の傷が消えるなら、世界はとっくに平和ですわよね。
「……お嬢様、それは、後日、ちゃんと、お時間をいただいてから」 「ええ、必ず」
わたくしは、頷いた。 ……これも、後日、必ず、片付けなくては。三年分の、わたくしのもう一つの仕事として。
そのとき。
——どん、どん、どん。
玄関の扉が、叩かれた。 一回、二回、三回。礼節を欠かない回数。けれど、明らかに、急いている回数。
「お嬢様、どなたか——」 「アンナ、わたくしが出ますわ」 「えっ、で、ですが、お嬢様」 「いいえ、これは、わたくしの仕事ですから」
わたくしは、立ち上がった。
——ふふ。早かったですわね、王家。 想定では、午前十時頃にいらっしゃるかと思っておりましたのに。慌てていらっしゃるご様子。
玄関を、ゆっくり、開ける。
そこに、立っていたのは。
——王家の使者ではなかった。
「——アーデンフェルト公爵令嬢、シャルロッテ様で、お間違いございませんか」
灰色のローブに、王国の紋章ではなく、天秤の刺繍をつけた、痩せた男性。年の頃は四十前後。肩には書類鞄。腰には、ペンと印璽。 ……ああ。
「王立中央裁判所」の、事務官ですわ。
わたくしは、深く、礼をした。
「はい、シャルロッテにございます」 「王立中央裁判所書記局より、令状を持参いたしました。お受け取りいただけますでしょうか」
……令状。 早い。早すぎる。昨夜の今朝で、裁判所が動いた、ということ。
——いえ、違いますわね。昨夜の段階で、裁判所は、すでに動いていた。 わたくしの婚約破棄が公的に宣告されるよりも前に、誰かが、裁判所に話を通していた。
……ふふ。やってくれますわね、シュタイン子爵。 さすが、王家の財務官は、わたくしと同じ種類の生き物でいらっしゃる。
「拝受いたしますわ」
わたくしは、両手で、令状を受け取った。 封蝋の天秤が、朝日に照らされて、わずかに、光った。
「念のため、立会人として申し上げますが——」
事務官は、淡々と続けた。
「本日付、王立中央裁判所に、王太子レオンハルト・フォン・ヴァルムント殿下を被告とする、債務不履行ならびに名誉毀損訴訟が、原告アーデンフェルト公爵家の代理人より提起されております。」
——アーデンフェルト公爵家の、代理人。
わたくしの、お父様。 やっぱり、もう、動いてくださいましたのね。
わたくしは、令状の封を解いた。 中には、簡素な、けれど、隙のない文面が、並んでいた。
『召喚状』 『令和暦六七二年、月五日、第三鐘までに、当裁判所第一法廷に出頭されたし』 『原告側証人として、シャルロッテ・ヴァン・アーデンフェルト殿に出頭を命ずる』
——証人。 ……ええ。承知しておりますわ。
そして、令状の最後の行に、鉛筆書きで、こう、書き足されていた。
『 P.S. 朝食はお済みでしょうか。法廷の昼食は、たいへん不味うございますので、しっかり召し上がってきてくださいませ。 ——父』
…………。
わたくしは、令状を、そっと、胸に当てた。
——お父様。 三年間、わたくしの計画を、ひとつも問わずに見守ってくださって、ありがとうございます。
そして、こんなときに、まず、娘の朝ごはんの心配をしてくださって、ありがとうございます。
アンナが、後ろで、こっそり、洟をすすった音がした。 ……ええ、わたくしも、ちょっとだけ、目の奥が痛い。けれど、泣くわけにはいかないのですわ。今日も、まだ、笑顔の練習中ですから。
「事務官さま、拝受いたしましたわ」
わたくしは、姿勢を、整えた。
「第三鐘までに、必ず、出頭いたします。」
「ご協力に感謝いたします」
事務官は、深く一礼し、踵を返した。 灰色のローブの裾が、朝の風に、ふわりと、揺れた。
——天秤の刺繍が、遠ざかっていく。
扉を、静かに、閉める。
「お、お嬢様……」 「アンナ、すまないのだけど、二つ、お願いがあるの」 「は、はい!」 「まず、黒のドレスを出してちょうだい。襟の高い、装飾のないやつ。それから——」
わたくしは、振り返って、微笑んだ。 三年ぶり、三度目の笑顔。今日はもう、頬がつらない。慣れてきたみたいですわ。
「朝食を、おかわり、いただけますか。お父様が、法廷の昼食は不味いと、おっしゃるものですから。」
アンナは、ぽろぽろと泣きながら、頷いてくれた。 何度も、何度も、頷いてくれた。
……ありがとう、アンナ。 あなたへの謝罪は、もう少しだけ、お待ちくださいまし。 ——その前に、わたくしには、まだ、片付けなくてはいけない、仕事が、ありますの。
王立中央裁判所。
第一法廷。
——王都の中心、白亜の柱に支えられた巨大な石造りの建物。「神の代わりに、人間が人間を裁くと決めた、この国で最も傲慢な場所」だ、と、お父様はよくおっしゃっていた。
わたくしは、その傲慢な場所の、原告側証人席に、いま、立っている。
黒のドレス。襟の高い、装飾のないやつ。 髪はひとつにまとめ、サファイアのチョーカーだけは、外さなかった。母の形見だ。お母様、今日は、見ていてくださいませね。
法廷を見渡す。 被告席に、王太子レオンハルト殿下。一晩で、別人のように、顔色が悪い。隣には、王家の弁護士が三人。
そして——傍聴席の、最前列に。
聖女マリエル様。
……いらっしゃいましたわね。 昨夜、わたくしと目が合ったあの一瞬、彼女は「失敗した」という顔をした。けれど、一晩経って、今朝、彼女は、ここに、来た。逃げずに、来た。
そういう人だと、わたくしも、知っていた。 だからこそ、三年かけたのだ。
マリエル様の唇が、わずかに、動いた。 ——音は、聞こえない。けれど、わたくしには、その唇の動きが、はっきりと、読めた。
『 ・お・は・よ・う・ご・ざ・い・ま・す ・お・ね・え・さ・ま 』
……ふふ。 やっぱり、こちらに来ましたのね、マリエル様。 「聖女マリエル」の仮面を、捨てて。
三年前、わたくしの家から、姿を消した、本物の妹として。
わたくしも、唇だけで、返した。
『 ・お・は・よ・う ・マ・リ ・ ——お・帰・り・な・さ・い 』
マリエル様の——いいえ。 マリエッタ・ヴァン・アーデンフェルトの、瞳が。
静かに、揺れた。
——コーン、コーン、コーン。
第三鐘が、鳴った。
「これより、開廷する」
裁判長の声が、響いた。
——わたくしの、三年がかりの仕事は、まだ、終わっていない。 ……そう。これは、ただの、幕間でしたのね。
さあ、第二幕の、始まりですわ。




