第1話 「断罪は、契約解除の儀である」
シャンデリアの灯が、ワインの紅をやわらかく揺らしている。
王立アーデンベルク学園、卒業記念パーティー。 大広間には王国貴族の子女がほぼ全員集まっていて、生楽団のワルツが、磨き上げられた大理石の床に滑り落ちては、また天井へ昇っていく。
わたくしは、その中央に立っていた。
アイスブルーのドレスに、母から譲り受けたサファイアのチョーカー。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見て。視界の先には、王太子レオンハルト・フォン・ヴァルムント殿下と——その腕に縋りつくようにして立つ、聖女マリエル・ハーゼンベルク様。
ああ、いよいよ来た、とわたくしは思った。
三年だ。三年かけて、わたくしはこの瞬間まで運んでこられた。 ——もう少し涙ぐみたい気もする。けれど、無表情を崩すわけにはいかない。
「シャルロッテ・ヴァン・アーデンフェルト!」
殿下が、声を張り上げた。 ワルツの旋律が、不自然な小節で止まる。楽団員がこちらを見ている。給仕の少年が、トレイを持ったまま固まっている。 そういう演出になることくらい、もちろん殿下も計算済みなのでしょう。お上手ですわ。
「貴様の罪状を、ここに読み上げる!」
——ええ、どうぞ。 召集令状はちゃんと耳に届いておりますわ。
「貴様は、聖女マリエルに対して数々の陰湿ないじめを行ってきた! 教科書を隠し、ドレスにインクをぶちまけ、階段で突き落とそうとした! しまいには『お前なんかこの学園にいる資格はない』と暴言を浴びせ続けたという! それでも貴族令嬢か! それでも我が婚約者か!」
ざわめきが、波のように広がる。 扇の陰から、令嬢たちの嘲笑が漏れる。聞こえている。「やはりね」「ご実家の顔に泥を塗って」「あの方、目つきがずっと怖かったもの」。
結構。 ……結構ですわ。みなさま、よく覚えておいてくださいまし。いまの「やはりね」は、後日、貴族院での証言として召喚させていただきますからね。
「シャルロッテ・ヴァン・アーデンフェルト! ここに、貴様との婚約の破棄を——」
「殿下」
わたくしは、声をかけた。 やわらかく。なるべくやわらかく。
殿下の言葉が止まる。マリエル様の睫毛が、わずかに震える。
「……なんだ。最後の弁明があるなら、聞いてやってもよい」
寛大さを装った声。 けれどそれは、わたくしのために用意された慈悲ではなく、ご自身の名誉のための余白ですわね。承知しております。
わたくしは、ドレスの裾を持ち上げた。 そして、貴族令嬢にとって最上級の礼を、深く、深く——膝が床に触れる寸前まで、お辞儀をした。
「ありがとうございます。」
……静寂。
わたくしが顔を上げると、そこには、これまで一度も見たことのない殿下のお顔があった。 怒りでも、哀れみでもない。「予定にないものを見たとき、人は、こんな顔をするのね」——という、純粋な学術的発見の瞬間が、そこにあった。 ちなみにとても面白いお顔をしていらっしゃいますわ。
「な……」 「あ、申し訳ございません、誤解を招きましたかしら」
わたくしは、にっこりと微笑んでみせた。 学園に入ってから三年、一度もしてこなかった笑顔だった。三年ぶりだと、ほっぺが少しつる。
「言い直しますわ。——心より、御礼申し上げます。婚約を破棄してくださって、ありがとうございます。」
ざわっ、と、人の波が後ろに引いた。 物理的に、人々がわたくしから距離を取った。それはそうですわよね、急に毛色の違うものを見たら、人間という生き物は、まず距離を取って観察するように出来ております。賢いことです。
「い、いじめのことを、認めるのか……?」 「ええ、もちろんすべて事実です」
殿下が固まる。マリエル様が、わたくしの顔をまっすぐ見上げた。聖女らしい、潤んだ瞳。だがその奥の瞳孔は、わたくしの口元しか見ていない。 ……ふふ。やはり、最後まで隙のない方ですわね、マリエル様は。
「教科書を隠したのも、インクのことも、階段の件も。すべてわたくしの所業ですわ。なんでしたら、日付、時刻、場所、目撃者の氏名、その日のメニューまで、こちらに——」
わたくしは、ドレスの内側から、革表紙の手帳を取り出した。ぱらり、と捲ると、紙面はびっしりと小さな字で埋まっている。
「全部、控えてございます」
殿下の口が、半開きになった。 視界の端では、王家の財務官、シュタイン子爵が、グラスを取り落としていた。グラスは絨毯の上で跳ね、転がりながら、わたくしの靴のつま先で止まった。
——ふふ、シュタイン子爵だけは、いま、すべてを理解してくださったご様子ですわね。 三年前、わたくしの父が婚約契約書を改訂したとき、立ち会ってくださった方だ。あの日の契約書の、第十四条。
——「婚約者の一方的かつ公的な破棄が宣告された場合、王家は当家への貸付金、すなわち王国会計年度三年分相当の即時一括返済義務を負うものとする」。
三年分。 国家予算の、三年分ですわ。
「殿下、最後にひとつだけ、確認させてくださいませ」
わたくしは、手帳を閉じた。
「いまの宣告は——『婚約者であるあなたから、わたくしへの、一方的かつ公的な破棄宣告』、ということで、よろしいですわね?」
「あ……当たり前だ!」
殿下は、聞かれた意味もわからないまま、誇らしげに胸を張った。 そういうところが、わたくしは、嫌いではありませんでしたのよ、殿下。お優しいのではなく、お考えが浅いだけで、けれど、それは罪ではないのですから。
……ただ、罪ではない、というだけで、わたくしが見逃すかどうかは別の話ですけれど。
「シュタイン子爵」
わたくしは、財務官に向かって、声をかけた。 子爵は、もう、わたくしの顔を見られないようだった。額に脂汗が滲んでいる。
「いま、聞いておられましたわね。会場の貴族のみなさまも、楽団のみなさまも、給仕のみなさまも、立会人として、十分以上にいてくださいます。——本日、月四日、第六鐘の時刻、王太子レオンハルト殿下より、わたくしシャルロッテへの、公的婚約破棄宣告が、なされました」
シュタイン子爵が、震える手で、何かを書き留めようとしていた。 けれど、その手は震えすぎて、文字にならない。代わりに、わたくしの手帳がもう一冊、するりと、ドレスの内側から滑り出る。
「お困りでしょう、こちらに、必要な書式をご用意してございますから、よろしければお使いくださいませ」
「な、なぜ、お前が——」 「三年前から、この日のために」
わたくしは、にっこりと、笑った。 三年ぶりに二度目の笑顔だった。少し慣れてきた。今度は、頬がつらない。
「準備して参りましたから」
——殿下が、よろめいた。
マリエル様が、初めて、聖女の仮面を歪めた。 一瞬。本当に、ほんの一瞬だけ。**「失敗した」**という顔をした。
わたくしは、それを、ちゃんと、見ました。 ……ふふ。よろしいですわ、マリエル様。次は、あなたの番ですから。
けれど、その話は、また後日。 まずは、目の前のお仕事を片付けなくては。
わたくしは、もう一度、深く、礼をした。
「婚約破棄、心より、ありがとうございます。」
そして、顔を上げて、続けた。
「——これで、あなたを、訴えられますわ。」
ワルツは、もう、鳴っていない。 シャンデリアの灯だけが、ゆっくりと、揺れていた。
——本日。 わたくしの、三年がかりの仕事が、ようやく終わる。 そして、もう一つの仕事が、ようやく始まる。




