悪役令嬢の愚痴と恋・終
「婆さん。あの子の手紙、届けたよ」
僕が婆さんの手を引きながら言った。
エレノア婆さんは一瞬だけ立ち止まり、僕の方に耳を向けた。
「ヤエレクだね? 全くアイツ、どうせ誰かにしゃべるだろうとは思ってたけど、よりによってアンタに喋ったのかい」
「あぁ、婆さんが落ち込んでるのもそれが原因だったんでしょ? ちゃんと渡したよ。あの子がまた書いてきてくれてよかったよ」
僕が言うと、婆さんは安心したようにため息をついた。
そして欠けた歯を剥き出して笑った。
「まぁいいさ、ありがとうよ。これで肩の荷が降りたよ。落とし主には悪いことをしたとずっと思ってたからねぇ」
「しかしなぁ、婆さんも最初から僕にそう言ってくれればよかったんだよ、この手紙を届けてくれってさ。本人には悪いけどさ、届かないよりずっとマシだったろ?」
僕がそう言うと、ふぇっふぇっふぇっ、と婆さんが意地悪く笑った。
「そんなことは出来やしないよ」
「えっ?」
僕が言うと、婆さんは杖の先でカツカツと地面を叩いた。
「あたしはその手紙を持ってないんだから」
その言葉に、僕は婆さんの顔を見た。
「落としちゃったの? 捨てちゃったの?」
「いいや違うよ。これが私の受け取った手紙」
婆さんはそう言って、上着のポケットからくしゃくしゃに丸められた紙の玉を取り出した。
広げて中身を見た僕は、少なからず驚いた。
これは――近所にある製材所宛の領収書だ。
これが牛乳瓶に入っていた手紙? まさか。
わけがわからずに困っている僕に向かって、婆さんが恨めしそうに言った。
「あの悪たれめ、アレが恋文だとわかった途端、なにをどう勘違いしたのかその手紙を握り潰したのさ。かわりにこんなものをごまかして渡して。紙の手触りも厚さも違う。それぐらい目開きでなくてもわかるってのにだよ。どこぞに捨ててあるんじゃないかと思ってお前に探してもらっただろう?」
「えっ――? 先々週の土曜日のこと?」
僕は驚いた。
「捨てたって――もしかして、ヤエレクのおやっさんが?」
そうだ。手紙を拾ったあの晩、婆さんはヤエレクのおやっさんに会ったのだ。
そして手紙を読んでもらったはずなのだ。
ヤエレクのおやっさんはそれが恋文だとわかると、それを握り潰した。
そして咄嗟に、製材所の領収書を丸めて渡した――そういうことなのか。
「なんでそんなことを?」
ヤエレクのおやっさんは一本気だ。
だから嘘や誤魔化しの類は本人が一番嫌っているはずだ。
なのにどうしてそんなことをしたんだろう。
エレノア婆さんは答える代わりに、虚空を見上げるようにして、懐かしそうに微笑んだ。
「あたしが若かった頃、アイツは手のつけられない悪ガキでねぇ。近所に住んでるあたしにしょっちゅうゲンコツを喰らってたのさ。あたしが死んだ連れ合いと結婚してからも、毎日毎日なにかに理由つけてやってきて――子のないあたしたちの家は、あいつが来ると賑やかでねぇ――」
そう言われて、僕はエレノア婆さんとヤエレクのおやっさんの年齢を考えてみた。
エルフほどではないが、オークも人間よりは確実に長命だ。
外見的に八十歳手前ぐらいだろう婆さんと、人間で言えば還暦ぐらいのおやっさん。
なるほど確かに、昔はそういった、ごく親しい関係であったかも知れない。
なるほど、おやっさんが面白くなかったのはそういうことなのか。
つまり、あの手紙に嫉妬していたのは僕だけではなかったのだ。
それがちょっと可笑しくて、顔見合わせて失笑した僕らが、角を曲がった、そのときだった。
道の向こうにいた人が、あ、と声を上げた。
同じく僕も、あ、と声を上げた。
発見されたと知った緑色の禿頭が、一瞬だけ動転したように辺りを見回した。
どうも、隠れるところを探したらしい。
だが、身長2メートルを超える巨体を隠せるような場所は生憎となかった。
しばらくキョロキョロと辺りを伺い、しばらくもじもじとしてから、結局その人は隠れるのを諦めたように僕たちの前に立った。
「ヤエレクのおやっさん?」
「おっ、おう、ニーベルかよ。おめぇなにしてやがんだ、こんな時間に」
おやっさんはなんだか恥ずかしそうに、ぼそぼそと言った。
妙な顔をした僕から視線を逸したおやっさんは、次にエレノア婆さんを見た。
「おう、どこのボロ雑巾がひっかかってんのかと思ったらエレノアの婆じゃねぇか。てめぇ、まだお迎えが来てねぇのか」
「言うじゃないかクソガキ。あたしゃまだまだ死なないよ。あんたの二倍は生きてやるさね」
「けっ、相変わらず減らず口叩く婆だぜ。――それでニーベル、こんな遅くになんだってこんなみすぼらしい婆と連れ立って歩いてやがんだ?」
軽口になっていない口調でおやっさんは言った。
ぞわっ、と今僕の隣を駆け抜けたのは、おそらく殺気だろう。
僕は慌てて首を振った。
「い、いや! 温泉で背中揉んでもらったから途中まで送ってるだけだよ!」
「本当だろうな? 嘘ついたら舌ぶっこ抜くぞ」
冗談ではない口調と表情でおやっさんは凄んだ。
わかってると思うが、オークの人相と体格で凄まれると、これが本当に怖い。
うひぃ、と思わず身を竦ませると、おやっさんがもじもじと言った。
「おう、それでな婆――これ、この間落としていったぞ」
そう言っておやっさんが突き出した右手には、くしゃくしゃの紙玉が握られていた。
あれ、と僕はおやっさんを見た。
おやっさんは目をそらしがちに言
った。
「全く、そそっかしい婆だぜ。この手紙はてめぇが落としたのを俺が拾っといてやったんだ。感謝しろい」
この顔は絶対に嘘だろう。
おやっさんはこの手紙の内容を知って持ち逃げした。
そして、良心の呵責に耐えかねて返しに来たのだ。
当然、婆さんは闊達とした口調で怒った。
「全く情けない男だねぇ! 何が落としただよヤエレク、小賢しいことして! そんなものはもうとっくに必要なくなっちまったよ!」
そう一喝されて、ヤエレクのおやっさんがぎょっと婆さんを見た。
「は、はぁ――?」
「あの手紙はあたしが道で拾ったんだよ、最初からあたし宛じゃなかったんだ! 全く、なんて勘違いしてくれてんだい。こんな婆に恋文なんか書くやつがどこにいるってんだよ。お前だってちょっと考えたらわかるだろ!」
ヤエレクのおやっさんの顔が、だらんと弛緩した。
なるほど、あの時の僕の顔もきっとこんなふうだったに違いない。
僕は必死に笑いを堪えて、おやっさんの顔を堪能した。
「相変わらずそそっかしいねこの子は。これが手紙じゃなかったなんてその時からわかってたんだよ。こんな紙切れのどこが手紙さね! どこに好きだのなんだのって書いてあるってんだい!」
婆さんが製材所の領収書をおやっさんの足元に放った。
それを見て、ヤエレクのおやっさんは面白いぐらいに動揺した。
「そんなもん――咄嗟に渡し間違えただけでぇ」
「わざわざ丸めてかい?」
「う――」
「渡し間違えた方は何で持ち帰ったのさ?」
「や、やかましい! んなこたぁ最初からわかってたぜ! だいたいな、てめぇみたいな盲の婆に恋文なんざ似合ってたまるかってんだい! 俺は今日それを言いに来ただけでぇ!」
「ほーう、言うじゃないかさ。あたしが若い頃、毎日毎日ミミズののたくったような字で毎日毎日恋文よこしてたのはどこのどいつだい? 僕はあなたが好きです、歳が離れててもずっと大好きです、なんて恥ずかしい言葉並べてさ」
ぶはっ! と僕はたまらず吹き出した。
吹き出した僕を見て、ヤエレクのおやっさんの顔が茹でダコのように真っ赤になった。
「なっ――なぁにを抜かしやがんでぇこのクソ婆! あんなもん百年も昔のガキの頃の話じゃねぇか! なんだって今になってそんなこと言うんでぇ!」
「百年経っても二百年経っても忘れられるもんかね! あたしはあれが――」
嬉しかったんだから。
エレノア婆さんがそう言いかけたのを、僕は察した。
はっ、と口をつぐんだ婆さんの顔が、ヤエレクのおやっさんと同じぐらいにみるみる真っ赤になった。
無言になった二人を、僕は交互に見つめた。
僕は婆さんの手を取ると、ヤエレクのおやっさんに握らせた。
「僕、温泉に忘れ物しちゃったから戻るよ」
「はぁ――?」
「おやっさん、ちゃんと手を引かないと婆さんが転んじゃうよ。しっかり送ってってね」
そう言うと、ヤエレクのおやっさんのゴツい指が、反射的に皺だらけの婆さんの手をしっかりと握った。
おぅ、と、おやっさんは蚊の鳴くような声で言った。
めちゃくちゃ気恥ずかしそうな顔だ――。
お互い、なんだか少年と少女に戻ってしまったような、初々しくて、見ているこっちが恥ずかしくなりそうな表情。
僕はそれをしっかりと見てから、静かに踵を返した。
あーあ、と僕はひとつ伸びをして、星空を見上げた。
きっと薄くて汚くて寒いんだろうけれど。
あそこの空気はきっと澄んでいるんだろう。
そう思わせるほどに、綺麗な星空だった。
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