ふつかめ、しんや
祝宴の喧騒の名残もようやく消えた頃。山小屋の中には候補生たちの寝息と、暖炉の薪が爆ぜるかすかな音だけが残っていた。
長年一人で各地を渡り歩いてきたがゆえの習性か、それとも傭兵としての性というべきか。深い眠りにつくことはない。特にこんな場所でなら尚更だ。いつでも目を覚ませる程度の浅い眠りの中にいると、不意に、寝袋にくるまったアニーの元へ忍び足で誰かが近付いてきていることに気が付いた。
床の微かな振動と衣類が擦れるような音。それは一人ではなく、二人分の気配だった。アニーは呼吸の間隔を変えず、眠っている振りを続けながら全神経を耳に集中させる。
「……おい、本当にやる気か?」
「静かにしろ。こんな小娘でも女には違いないだろ。どうせ金で買った傭兵だ。明日にはおさらばするんだから、少しばかり遊んだところで文句を言う奴なんていやしねえよ」
「ハッ、それもそうだな」
暗闇に響いたのは、粘り気を含んだ囁き声。――ブルーノとマルクだ。
これまでの彼らの不愉快な振る舞いが、アニーの脳裏に鮮明に蘇る。
彼らは分隊長ジュリアンの腰巾着のようで、三人で仲良くつるんでいる姿をよく目にした。どうやら同じ『貴族の子息』という立場にありながらも、彼らの中には明確に序列というものがあるらしい。それを裏付けるように、彼らもまたそれなりの家柄の子息であろうことは他の候補生に対する態度からも見て取れた。
格下を馬鹿にする態度を見るだけでも不快だったが、現地で初めて顔を合わせた際、彼らはアニーを一目見るや、舐めるような下卑た視線を向けてきた。
『おいおい、俺たちはハイキングに行くわけじゃないんだぞ。こんな女子どもを連れてくるなんて……山猫だか野良猫だか知らないが、お前のところの団長はいったい何を考えているんだ』
『いいじゃないか、少しは華があったほうが。それに他の分隊の連中に、うちにだって少しはハンデがあるって思われた方がいいだろう?』
忍び寄る声の主はあの下劣な品性の持ち主たちだと、アニーは即座に理解した。
アニーの身体が、寝袋の中で微かに強張る。
起きていることを悟られぬよう、彼女は右手を寝袋の中の太ももへと伸ばした。肌身離さず身に着けている使い古されたナイフの柄が指先に触れる。逆手に握り、いつでも寝袋を切り裂いて飛び出せるように親指を鞘にかける。
相手はこの国の高貴な貴族の子息らしいが――自分の身を守るためなら身分など関係ない。この身を脅かす異物は排除する。それが傭兵として生きるアニーの、揺らぐことのない決め事だった。
二人の足音が、アニーのすぐ枕元で止まる。
衣服が擦れる微かな音と、獣のような荒い息遣いが肌に届きそうになった、その時。
「……おい、そこで何をしている」
地を這うような低い声。――手洗いから戻ってきたゴードンだ。ブルーノとマルクの息が、一瞬で止まった。
暗闇の中で目を凝らさずとも分かるゴードンの圧倒的な体躯と、幾多の死線をくぐり抜けてきた歴戦の傭兵が放つ強烈な殺気。二人が恐怖で完全に圧倒されているのが、寝袋の中のアニーにも手に取るように分かった。
「ひっ……。い、いや、別に。ちょっと窓が開いていないかを確認しに来ただけだ」
「そうか。それなら俺が確認したから問題ない。……明日も早い。早く寝ることだな」
「傭兵の分際で、偉そうに指図するんじゃねぇよ……」
マルクが震える声で虚勢を張って小さく毒づいたが、ゴードンは無言のまま、ただ闇の中で二人をじっと見据えていた。
駄目押しとばかりに、ゴードンが腰の短剣の柄を親指で微かに弾く。金属質の鋭い音が暗闇に響くと、二人はそれ以上言葉を続けることもできない様子で、自分たちの寝床へと大人しく引き下がっていった。
床を踏む音が完全に遠ざかり、小屋の中には候補生たちの寝息だけが響く。
アニーは握りしめていたナイフから静かに手を離し、寝袋の中で小さく息を吐き出した。
「……ありがとう」
ゴードンはそれに答えることもなく、ただ無言のまま、アニーの頭を厚い手のひらでぽんと一度だけ叩いた。
――これまで一人で生きてきたけれど。
こういう風に誰かに背中を預けられるというのも、悪くないのかもしれない。
もう一度、今度は深く息を吐きだす。かすかな安心感に包まれながら、アニーは再び目を閉じて、意識を深い闇へと沈めていった。




