ふつかめ、あさ
演習二日目の朝、山は少し表情を変えた。風が強くなったのだ。
早朝に第一の山小屋を発った第二分隊は、アンバー山の主峰へと続く稜線、通称『羊の背』ルートの終盤へと差し掛かっていた。
道幅は広く、危険な段差にはすべて団長らが準備した頑丈な麻縄がぶら下げられている。文字通り、なだらかな羊の背中を歩くような安全の保証された道だった。
行く手を見上げれば突き抜けるような群青の空が広がっている。その中心にそびえるアンバー山は強い陽光を浴びて白く輝き、『聖山』と呼ぶにふさわしい美しさを湛えていた。
忖度されたルートの斜面をジュリアンが鼻歌交じりに登っていく。アニーは最後尾に近い位置で、足元に転がり落ちる小石を器用に避けながら歩いていた。
ふと視線を西側へと向ければ、遠く険しい渓谷の奥に青白く光る氷の帯が見えた。あれがきっと『氷河ルート』と呼ばれる道なのだろう。別の分隊が連なって登っているが、その足取りは危なっかしい。また別のルートでは、『岩の庭』と呼ばれる地帯で大岩に苦戦している様子も見て取れた。
「……どうせなら、氷河ルートを渡ってみたかった」
アニーが声を潜めて呟くと、隣を歩くゴードンは苦笑交じりに眉間をきつく揉みほぐした。
「俺はもう山登りなんてごめんだがな。あの割れ目に落ちでもしてみろ。死体も上がらんに決まってる」
せっかく登るのなら難所に挑みたいというアニーの言葉がゴードンには理解できないようだ。それだけではない。今日のゴードンはどこか覇気がない。
確かに標高が上がるにつれて息苦しさは増していたが、数多の戦場を経験したゴードンならこの程度大したことはないはずだ。風邪ひとつ引いたことがないと豪語していたのに、彼は明らかに顔色を悪くしていた。
「ゴードン、どこか具合でも――」
「そういえばジュリアン。先月の『事前視察』はどうだったんだ? 他のルートを歩いたんじゃないのか?」
ジュリアンの太鼓持ちであるマルクが声を上げると、ジュリアンは事もなげに首を振った。
「いや、私は参加していない。あの日は家の食事会と予定が重なっていたからな。一度でも登頂経験のある者は免除されるらしいが……私には視察など不要だったということだ」
「……おい、それはどういうことだ。分隊長は事前に山の状態を確認しておく義務があるはずだぞ」
「おいおい、ヒックス。そう硬いことを言うなよ」
ヒックスの指摘にジュリアンは悪びれるでもなく、むしろ可笑しそうに鼻を鳴らした。
「現にこうして何の問題もなく先頭を歩いているではないか。わざわざ貴重な時間を割かずとも、私たちの実力ならば山登りくらいどうということは無かった、ということだ」
何人かの候補生は不安げに顔を見合わせたが、実際に彼らの道程は順調そのものだった。
「ほら見ろ、頂上だ!」
ジュリアンが歓声を上げたのは、太陽が真上に届くよりも前のこと。視界が開け、遮るもののない山頂の広場に第二分隊のメンバーが続々と到着する。他の分隊の姿はない。正真正銘、彼らが今回の演習における『最速の登頂者』となった瞬間だった。
広場の中央にある石碑の前に陣取り、ジュリアンは勝ち誇ったような高笑いを響かせる。
「ハハハ! 見てみろ、他の分隊はまだあんなところにいるぞ! 第一分隊の姿が見えないが、さては棄権したのではあるまいな?」
「さすがだな、ジュリアン! 今年度の最優秀賞を獲得するのは我が第二分隊で決まりということだ!」
エリックが興奮して騒ぎ立てる横で、ドリスがズボンのポケットから真新しい懐中時計を取り出した。銀の蓋を開けて愛おしそうに文字盤を見つめている。
「このペースなら、下山してからも準備を整える時間がたっぷりある。我ながら完璧な配分だ……」
広場の一角では、手をつないだ二人の男女が向かいの山を指差して微笑みあっていた。
「ねぇテッド。アンバー山の朝焼けを一緒に見た恋人たちは一生を共にできるんですって。……来年も一緒に登りましょうね」
「ああ、そうだな、リアナ」
かと思えば、遮るもののない崖のそばからは品のない笑い声と情けない悲鳴が聞こえてきた。
「ちょ、ちょっとゲイルさん! 押さないでくださいよ」
「ハハッ、ルゥは相変わらずのビビりだな。そんなんじゃ騎士になれないぜ。ママにお手々を繋いでもらわないと怖くてたまらないのか?」
さらに別の場所では、石碑の影に腰掛けた男たちが遥か下方の登山道を見下ろして鼻で笑っている。
「なんだ、サムはまだあんな所にいるのか。待ってられないぞ」
「別にアイツを待つ必要もないだろ。そのうち勝手に追いつくさ」
拵えられた道を辿っただけとはいえそれなりに体力を使う。それに眼下に広がる雲海は絶景で、彼らが達成感から浮かれる気持ちも分からなくはなかった。
「……おい、いつまで遊んでいるつもりだ。今日の目的地はここではないぞ」
教官のコールソンが背後を気にしながら声を張り上げた。他の分隊ももうすぐそこまで追いついてきているようだ。
「おっと、お前たち。浮かれるのもそこまでにしておきたまえ。なぁに、明日地上へ降り立てば最高の栄誉を賜れるのだ。それまでの辛抱さ」
誰よりも浮かれている男のお気楽な台詞にアニーは内心で閉口する。ちらりとゴードンを見やれば、彼もやれやれと首を振ってみせた。
「さあ、早く降りるぞ。明日も一番に麓へ到着せねばならんのだからな!」
その声に追い立てられるようにして山頂を越え、第二分隊は裏側の縦走路へと足を踏み入れた。




