すべてを飲み下して
――そして、一年後。
アニーはひとり、アンバー山の麓に立っていた。
彼女が選んだのは、かつてジュリアンたちが忖度によって回避し、他の分隊が喘ぎながら登ったというアンバー山で最も険しい『氷牙ルート』。一年を通じて分厚い氷壁が張り付き、一歩足を踏み外せば確実な死が待っている難所だ。
アニーの足取りにはかつてのような迷いや焦りは一切ない。天候を見極め、適切な装備を持参し、体調を万全に整える。誰からの横槍が入ることもなく、石の転がる歩きづらい山道を一定のペースで黙々と登っていく。
一日目は風の吹き込むぼろい山小屋で一夜を明かした。道程は険しく、一年前のあの『羊の背ルート』がいかに楽なものだったかを思い知る。
そして二日目の昼も過ぎた頃。アニーはついに、遮るもののないアンバー山の頂へと辿り着いた。
吹きすさぶ強風が彼女の深く被ったフードを激しく揺らす。視界の先にはどこまでも広がる青空と、牙のように尖った白い連峰。息を吐くことも憚られるほどの美しい光景が広がっていた。
(一年前は、あれほどまでに私たちを拒んだくせに)
感傷に浸りそうになるのを振り払って、アニーはザックの中から小ぶりの水筒を取り出した。あの日、崖の淵に転がっていたゴードンの遺品だ。
中は安価で強い蒸留酒で満たされている。彼が好んでいたものと同じものだ。栓を抜くと、特有のツンとした酒の臭いが鼻腔を突いた。
アニーはそれを自らの口には運ばずに、ゴードンが滑落していった遥か崖下の方向へと、円を描くようにして撒き落とす。
透明な液体が激しい風にさらわれ、白い霧の向こうへと消えていく。
「……遅くなって悪かったな。あのガイドを見つけるのに難儀したんだ」
ゴードンの遺体は回収されなかった。当然、ひょっこり帰ってくるようなこともない。彼がどうして崖下に落ちたのかは調査を経ても判明しなかった。
だから聞くことにしたのだ。
多額の賠償金を踏み倒して、行方をくらませていたロッソから。
副団長の死に絡んでいるとあらば、放置することはすなわち傭兵団の威信にも関わる。団長の号令のもと山猫傭兵団の総力を挙げてロッソを見つけ出し、そしてあの日何があったのかを包み隠さず喋らせた。
その結果わかったことが、あの日、ゴードンはジュリアンたちに襲われた末に落とされたという真実だった。
ゴードンを落とした者たちはみな、アンバー山で死んだ。
ならば、ロッソも報いを受けるのは当然だろう。
だからゴードンが突き落とされたあの崖の淵に、ロッソの首から下を埋めて放置してきたのだが――運が良ければ猟師か山岳隊に見つけてもらえたことだろう。人喰い熊の餌になっているかもしれないが、それは天命に委ねさせることとした。
「ようやく全部終わったんだ」
ロッソの捕獲という共通の目的を終えた山猫も、支柱であるゴードンを失ってから徐々に人が離れていった。団長は決して悪い人間ではなかったが、すべてが大雑把すぎて傭兵団の運営が回らなくなったのだ。
それに、この国の人間は彼らにも責任があると断じて、仕事を依頼しようとはしなかった。
だからアニーは傭兵団を抜けることにした。また別の国で、環境を変えるために。
その前に一つだけ、この国でやるべきことを終えてから。
「だから……約束を果たしに来たぞ、ゴードン」
風の音に掻き消されそうなほど小さな声で、アニーは呟いた。
この仕事が終わったら、一杯やろう。そう言って笑っていた男との、これが最後の契約履行だ。
アニーは水筒に残った最後の一口を躊躇なく自らの口内へと流し込んだ。液体が喉を灼き、胃の奥へと落ちていく。アニーは酷く不愉快そうに眉根を寄せると、カハッと熱い息を吐き出した。
「……私はあまり、酒が好きではないようだ。だからもう……お前とは飲めそうにないな」
そう彼女は空に笑いかけて、軽くなった水筒を崖下へと放り投げた。
山猫での日々。一年前の悲劇。ゴードンへのささやかな情。
彼女はこのアンバー山の頂でそのすべてを飲み下して、踵を返すとすぐに斜面を下り始めた。




