みっかめ、ひる①
正午を迎えようとした頃、アンバー山はその表情を劇的に変え始めた。
あんなに眩しかった太陽が、いつの間にか湧き上がってきた灰色の雲に覆い隠されている。周囲を囲む緑が不気味にざわめき、肌にまとわりつく空気が急速に冷やされていくのが分かった。
「……急に風が強くなってきたわね。ねぇ、本当にこのルートで安全なの? 一度規定のルートへ戻るべきではないかしら」
「何を臆病風に吹かれているんだ、シュリー。このくらいの風、火照った体には涼しくて丁度いいくらいだろ。ここで足を止めて万が一にでも遅れてみろ。他の隊に笑われるぞ」
エリックはそう言って胸を張ったが、ペース配分も考えずに無駄に体力を使っていた彼はすでに息が上がっている。その足取りには明らかな乱れが生じていて、小石につま先を引っ掛けては足をもつれさせていた。
「コールソン先生、どうする」
「……この先は谷間を歩くことになる。ロッソ。道は整備されているのか?」
「地元民しか歩かない道ですからねぇ。でも、ロープは張ってありますよ。それにこのくらいの風、この時期のアンバー山ではよくあることです」
ロッソの言葉を肯定するように、どこか湿り気を帯びた風がまた吹き抜ける。
「ですってよ、先生。そもそも先生もこの演習に参加するのは初めてなんですよね? だったら現地民の経験に頼るべきだと思いませんか?」
「……付き添いという立場では確かに初めてだが、私だってこの演習自体には学生時代に参加している」
「へぇ、まぁ先生も騎士だったのだから当然か。それで、その時の先生の隊は何位だったんですか?」
「生憎と貴様らと違って身分の低い立場だったのでな。八位だったと記憶している」
忖度なき結果だと暗に匂わせていることがジュリアンには伝わらなかったようだ。「八位!」と大げさに驚いて見せ、見下すように顎を上げた。
「話にならないな。このまま予定通り、谷間のルートを進もう」
「その前に装備を見直すべきだ。……少し、肌寒くなってきた」
ゴードンの言葉に従って外套を羽織る者もいれば、そんなものは面倒だと笑い飛ばし、他の者の準備を待たずに先を歩き始める者も出始めた。
隊列が無駄に伸びている。アニーが先頭を歩くエリックに止まるよう声をかけようとした、その直後だった。
ゴォォォォォォォ――!
突如として地鳴りのような暴風が尾根を吹き抜け、声を出す間もなく一瞬で視界が完全に遮られた。
なんとか薄く目を開くと、視界が白に染まっている。まるで雪原の真ん中に放り出されたような――。
混乱する脳を強引に呼び戻したのは、ぽつりと空から落ちてきた大きな雨粒。雨だ、と認識した瞬間に勢いよく降り注いだのは滝のような凄まじいスコールだった。
「ひっ……! な、なんだこれ!」
猛烈な豪雨と強風が容赦なく一行に襲いかかる。さっきまで穏やかな顔を見せていた山は嘘のように表情を変えた。外套を纏わなかった者たちの特製の登山服は、一瞬にして冷水を吸い込んで肌に張り付いてしまう。
「冷える……! おい、サム! 雨具を出せ! 予備の外套も持っているだろう!」
「なんてこった! あいつはまだずっと後ろにいたぞ!」
ドリスがガタガタと顎を鳴らしながら叫び返す。雨具を廃棄したり「かさばるから」と後方のサムに押し付けた彼らの体からは、強風と冷たい雨によって凄まじい速度で体温が奪われていく。
「あっ……!」
ルゥは自身のザックから雨具を引っ張り出したは良いものの、かじかむ手で広げようとした瞬間に突風に煽られてあっけなく手放してしまった。彼は今にも泣きだしそうな顔で呆然とそれを見送る。
「戻りましょう! こんな所にいたら凍えてしまうわ!」
「戻るったって……どっちから来たのかももう……」
激しい雨と立ち込める霧。元の道に戻ろうにも視界は最悪だ。
「あまり離れるな、固まってやり過ごすんだ!」
「馬鹿なことを! このままでは濡れるだけだ! だったら少しでも早く下りるべきだ!」
一行はとにかく麓を目指して歩き始めたが、目印となるべき看板も見つけられないでいた。どうにも同じ場所をぐるぐる回っている気がする。そもそも強風で前を歩くのも困難で、ただ無暗に体力を使い果たしているだけのようにも思えてきた。
時間だけが無為に過ぎていく。地面がぬかるみ、さらに歩きづらくなってきた。
「寒い……っ」
皆が疲労を重ねる中で、か細い呟きと共に一人の影が泥濘の中に膝をついた。――マルクだ。沢で身体を濡らしたまま歩き続けたせいで、誰よりも早く限界を迎えたのだ。
彼は紫に変色した唇を震わせて、泥水の中に無様に崩れ落ちた。
「おい、マルク! 何をしている、早く立て!」
ジュリアンが怒鳴るが、マルクの四肢は痙攣したように震えるだけで、自力で立ち上がる気配は微塵もない。
「だ、駄目だ……足が、動かない……」
「ぐずぐずするな!」
ブルーノが苛立たしげにマルクの腕を引っ張ろうとしたが、自らも指先がうまく動かせなかったのか、その手を簡単に滑らせてしまった。激しい雨と霧のせいで、目と鼻の先にいるはずの仲間の顔すら見えなくなりつつある。
「マルク、置いていくぞ! 歩けない奴に付き合っている暇はない!」
ジュリアンの非情な叫びが嵐の中に響き渡った。ドリスも、エリックも、己の目的のために、泥水に這いつくばるマルクの縋るような視線を無視して前へと進もうとする。
集団が、荒れ狂う暴風雨の中で完全に冷静さを失い始めていた。




