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風の運びたるもの  作者: まるうさ
5/5

風の運びたるもの【5】

 小舟に乗っていた。

 ゆらゆらと浮かぶ漕ぐ者のいない舟は翔子の体に細波の動きを伝えてくる。

 周りに岸は見えない。

 ただ、静かな水面が続いている。

 どこへ行くの?

 あたし、何をしようとしてるの。

 何をしたいの?

 何故か空っぽで答が出て来ない。

 よくきていたグレーのお気に入りのワンピースを着ていた。

 最近着ていない。

 何故着ていないのだろう。

 この季節は一週間も着ない時はなかったのに。

 この季節。

 今、春だったっけ。

 薔薇が咲いていた。

 最後に見たもの……。

 薄い茶色の瞳。

 その瞳の中の、驚き。

 絶望、嘆き?

 何をそんなに嘆いているの?

 瞳から顔全体が見えた。

 ……拓哉。

 拓哉だ。あたしに向かって叫んでいる。

 呼んでいる……。

 何故だったろう。胸元が冷たい。

 触って見ると、手が赤く染まる。

 ……そうか、あたし、刺されたんだ。

 痛くはない。

 ああ、思い出した。

 日本にいなかったんだ。

 でも、ここは?

 死んでしまったの?

 風がふわりと髪を揺らす。

 今まで風ひとつ吹いていなかった世界に、小さな動き。

「あなたたち、ついてきちゃったの?」

 ふわふわと、何度も翔子の髪を揺らす。まるでじゃれついているかのように。

「ダメだよ、一緒に来たら死んじゃうよ……。」

 小さな声で語りかける。

 それでも何度も、何度も翔子の銀の髪を揺らす。

 何だか、ブランコで遊んでるみたい。

 フフッ、と笑って、手を伸ばすと、その手の周りをくるくると回る。

「おや、風に先を越されてしまったようだね。」

 懐かしい声に振り向くと。

「父さん?!」

「ホント、いたずらっ子が一緒に来てたようね。」

「母さん!」

 なんてことだろう。

 あんなに会いたいと望んだ両親が、目の前に、舟の中に座っている。

 消えてしまうのではないかとそっと手を伸ばす。

「大丈夫、すぐに消えたりなんかしないわ。」

 握ってくれた手は暖かい。

 胸の中へ飛び込む。

 そっと、二人で髪を撫でてくれた。

 暖かい。

 体を起こすと二人とも穏やかに笑っている。

 何だか少し恥ずかしくなって照れ笑いをした。

「父さん、セランと一緒に戦ってたのは、父さんだったの?」

「そうだね、わたしの一部、と言うべきかな。ランバルトとはよく手合わせをしていたから、彼にも分かったかもしれない。楽しかったよ。」

「私はハラハラし通しだったわ。セランったら、あなたに体を明け渡してしまうんだもの。戻れなくなったらどうする気だって。」

 怒っているけれど、母の顔は笑っている。

「大丈夫さ。明け渡した訳じゃない。一歩下がっていただけだ。」

 涼しい顔をして言い返す父。

「もう、本当にあなたときたらいつもそう。周りの心配なんて笑い飛ばして無茶をして!私がどれだけ気を揉んだか。」

 指を父の鼻先に突きつけ、捲し立てる。

「そんな時は大体セランも巻き込んじゃうもんだからアンナなんて何度も卒倒しそうになってたわよ!」

 翔子の知らない二人の世界が広がっている。

 けれど、寂しくはなかった。

 ひたすら笑っていた。

 熊を退治しに行こうだの、洞窟の調査、海賊退治、幾らでも出てきた。

 笑い過ぎて涙が出てくる。

「父さんも母さんも楽しそうで良かった」

「お小言貰ってるのが楽しそうに見えるのか。参るなぁ。」

 父は肩を竦め、母を見た。母も肩を竦めて返す。

「まあ、飽きないことは確かね。」

 死んだ後もこんなに楽しくいられるならそれでもいいのかもしれない。

「ダメだよ、翔子。」

「え?」

「翔子。あなたには大切な人がいるでしょう?必死で祈っている人が。」

 母が指さす先に大きなシャボン玉が浮いていた。

「あれは生きている人の強い想いでできているの。ほらあんなに大きい。」

 翔子が寝ているベッドの側に、拓哉がいて、翔子の手を握ってくれている。その顔は疲れ果てて、幾分痩せたように見えた。

「もう一週間になるそうだよ。何も食べていないらしい。」

「何も?」

 父は翔子を見て頷き、またシャボン玉を見る。

「昨日と今日は流石にセランが無理矢理点滴を突っ込んだようだけど、もう限界だろうな。」

「点滴?」

「あ、ああ、あちらの医療技術を取り入れているからね。輸血もする。だから翔子の命が助かったんだ。」

 妙なことが気になって、聞いてみたのは、拓哉の痛々しい姿から目を逸らしたかったからかもしれない。

「翔子に血をくれたのは拓哉と、陛下だよ。他は血液型が違ってた。医者は心配していたけど、何とか足りたようだね。拓哉がやつれているのはそのせいもあるかもしれない。」

 翔子はじっとシャボン玉を見つめていた。

 あんなに疲れ果てて、それでもそこに居てくれるの?

 あたしの手をずっと握って。

 約束通り、助けに来てくれた。

 それだけで充分だったのに。

 あたし、あなたに何をしてあげられたんだろう。

 助けてもらうばかりで何も返せていない。

 なのに、どうしてこんなところにいるんだろう。

「いい男ね。我が娘には勿体ないくらい。」

 母が翔子の肩を抱いてくれる。

 父は頭を撫でる。

「早く帰らないと、彼までここに来てしまうよ?」

 それは駄目だ。

「名残惜しいけれど、帰りなさい。」

母もにっこりと微笑む。

 翔子がしっかりと頷くと二人して背中をパンッと叩いた。

 その勢いのまま、宙へと飛び出した。

「父さん、母さん、ありがとう!」

 空を進みながら振り向き、叫ぶと手を振っている。

 またいつか。

 まだまだ先だけれど。

 翔子のまわりをさっきの風がくるくる回っている。

 ありがとう。

 微笑み、心の中でお礼をいう。

 前方に見える小さな光。

 感覚でわかる。

 あれは命の灯火。あたしの帰るべきただ一つの場所。

 翔子は迷うことなく光の中へ飛び込んだ。


 瞼が重い。手が暖かい。

 体とは、こんなに重いものだったのだと痛感する。

 拓哉の手を何とか握り返す。

 前にもこんな事があったような気がする。

「翔子……?」

 拓哉の声。

 ようやく目を開けると、拓哉のやつれた顔が見えた。

 顔が上手く動かないけれど、なんとか笑ってみせる。

 拓哉は大きく息を吐くと、翔子の手を両手で握り、額にあてた。

 震えが伝わってくる。

 暖かいものが手に当たる。

 拓哉の頬に涙が伝わり、落ちてゆく。

 とめどなく。

 力一杯、手を握り返す。

 とはいっても、体が言う事をきかないから僅かにしか強く握れないけれど。

「拓哉……ありがとう。」

 やっと声が出た。少し掠れたけれど。

 一番、言いたかった。

 他にも伝えたいことは沢山ある。

 でも、一番最初に言いたかった。

 助けに来てくれて。

 ずっとついていてくれて。

 愛してくれて。

 拓哉が顔をあげた。

 なんて顔。髭は生えてるし、頬はこけてるし、目の下だってクマができてる。

 でも、大好きな拓哉の顔。

 右手で拓哉の顔に触れる。

 左手も拓哉の手から顔へ動かして、流れ続ける涙を拭く。

 拓哉は翔子の髪を撫でる。

 そっと、キスをくれる。

 髭がくすぐったかった。

 拓哉の涙と翔子の涙が混じりあって流れて行く。体内を流れる血液と同じように。

「ごめん」

 拓哉が謝る。

 キョトンとしていると、顔を拭いてくれた。

「みんなを呼んでくる。」

 拓哉は立ち上がり、少しふらつく。

「あ……。」

 思わず声を出すと、大丈夫、と言う様に手をあげる。

 と、ちょうどセランが入ってきた。

 拓哉とぶつかりそうになって、慌てて一歩下がる。

 拓哉の顔を見てハッとする。

「どうしたんです、まさか!」

 慌ててこちらを見て、目があった。

 ぱあっと顔が明るくなる。

「拓哉、貴方は座ってて下さい!私が報せて来ますから!」

「いや、俺がい──」

「何を言ってるんですか、食べても眠ってもいない体でウロウロされてはこちらがこまります!」

 叱られて、ノロノロと翔子の横に戻り、座り直した。

「もう、大丈夫だから、眠ってね。」

 拓哉はこくりと頷く。

「ごはん、食べてね。」

 また頷く。

 フフッと笑ってしまう。

 拓哉が少し首を傾げる。

「髭も、剃ってね。」

 言われて初めて気付いた様に、口のあたりを触る。

「あ……ごめん。」

「髭が生えてても、大好きだけど。」

 拓哉の頬が少し赤くなる。

 バタバタと足音が聞こえ、皆が雪崩れ込んでくる。

 拓哉が席を譲って立ち上がる。

 医者がまず診察をして、お墨付きが出ると、セラン、アンナ、ランバルトがそれぞれ声をかけてくれた。

 拓哉は少し下がって見ている。

 セランが声をかけると、その肩に額を付けて何か話している。

 セランが背中をポンポンと叩くと額を離して頷き、肩に手を置いてからふらりと出て行った。

 セランはその背中を見送ってから近づいてきた。

「さあ、もう休んだ方がいいですよ。あまり話すと疲れてしまいますから。ああ、アンナ。」

「はい。タクヤですか?」

「うん、何か軽いものを持って行ってやって下さい。ほうっておくと何も食べずに眠ってしまいます。」

 アンナは笑顔で頷くと翔子に挨拶をして出て行った。

 ランバルトも続いて出て行く。

「セラン……拓哉は?」

「少し眠ると言っていました。もう一週間ですからね、限界でしょう。」

「うん、父さんから聞いた。」

 すっ、と目を細める。

「アルドに感謝しなくてはいけませんね。貴女を返してくれた。」

「……母さんもいた。」

 セランは優しく微笑み、翔子の頭を撫でる。

「リンは元気でしたか? と、死んだ人間に元気も何もないですね。」

 翔子も笑って返す。

「元気だった。生きている時のまま。仲良くしてた。」

「そうですか。また今度、聞かせて下さい。さあ、もう休みましょう。私がここにいますから、安心して。」

 毛布を肩までかけてもらい、翔子は目を閉じた。

 セランが腰掛ける気配。

「ねぇ、セラン。」

「どうしました?」

 聞いていいものか、少し考えたけれど、セランになら構わない気がして、聞いてみる。

「拓哉……また来てくれるかな。」

「……きっと来ますよ。ゆっくり休んで、髭も剃ってね。」

 セランは笑って続ける。

「まったく、髭ボーボーのみっともない姿で情け無いにも程があります。早く剃って貰わないと恥ずかしい。」

 翔子も笑う。

「来ないなんてあり得ませんよ。」

「うん、そうだよね……おやすみなさい。」

 何と無く不安で、聞いて見たけれど、不安は去って行ってはくれなかった。

 今は考えても仕方ない。

 大きく深呼吸をして、眠る事にした。


 セランは翔子の静かな寝息を確認してから大きく溜息をつく。

 拓哉の様子がおかしい。

 それはあれからずっとセラン自身が感じていた事だった。

 翔子が刺されたことに対して、自身の責任だと感じているのはいいとして。

 いや、良くはないが分からないでもない。

 けれど、あの時怒りがエイミーにさえ向かず、ただ翔子を抱き締めたまま動かなかった。

 その後も殆ど話さず、頷くか首を振るくらい。

 休息を勧めても首をふる。

 ただ、自分を罰するかのようにここに居続けた。

 このままでは拓哉が死んでしまうと判断して二度ほど無理矢理点滴を打たせたが、その間もここから離れようとはしなかった。

 拓哉が感じている責任がどこからきているものなのか。

 捕らえられていた事が今更ながら悔やまれる。

 しかしあの時は他に方法がなかった。悩みはしないが、拓哉の考えが読めない限り、そこで思考が停止してしまうのだ。

 屋敷を出てから薔薇園で会うまでの間に何があった?

 岩屋で?城下の隠れ家で?

「あー、もう、拓哉の莫迦がっ!」

 翔子が身じろぎする。

 まずい。

 思わず口に出してしまって息をとめて翔子を見守る。

 また安らかな寝息が聞こえてきてホッと息をつく。

(危ない危ない……。)

 起こしてしまうところだった。

 これ以上、翔子につらい想いはさせたくないというのに、神はこの娘にどこまで厳しいのか。

「セラン様。」

 ひそひそ声で、アンナが戸口から手招きをしている。

 少しの間、留守にできるだろうか。

 とりあえず、戸口まで行ってみる。

 流石、アンナだった。

 代わりに既知の女中を呼んできていた。

 少しの間、彼女に任せ、外廊下へ出る。部屋から続く小さな庭では小鳥がさえずり、静かな午後を満喫している。

「タクヤには、眠る前に何とかスープを飲ませました。今は泥のように眠っているようです。」

 歩きながら報告してくれるアンナは、浮かない顔をしている。

「やはり拓哉の様子はおかしいですか?」

 セランが問うと、頷く。

「はい、明らかに。思い詰めているようです。」

 はっきりとした答えが気持ちよく帰ってきて、セランには心地いい。

 四阿の椅子に腰掛けると、アンナも隣に座る。

「そうですよね。翔子も不安になっていました。何か思い当たることはありますか?私は離れていたせいか、さっぱりで」

 溜息をつく。

「翔子がセランの所へ行った夜に、表へ出てしばらく帰って来なかったことがありました。拓哉が翔子を抱き上げて戻ってきて、眠ってしまったと言っていましたから、私も特に気にはしなかったのです。」

 少し俯き、続ける。

「私はその時セラン様のご様子が心配で良く眠れなかったので、感覚が鈍っていたかも知れません。」

 申し訳無さそうに言う。

 何だかこっちが申し訳なくなる。

「ごめん……。」

「あ、いえ、ご無事だっただけで私は充分な筈だったのですが……いざ、そうなってしまうと割り切れなくて」

 アンナの頬が少し赤く染まる。

(か、かわいい……。)

 思わず手を伸ばし、髪を撫でる。

 少しの間見つめ合って、ハッとする。

(いかん、そんな場合じゃなかった。)

 アンナも慌てた様子で目をそらした。

 拓哉に、『そんなだからダメなんだよ、莫迦!』と罵倒されそうだと思って笑ってしまう。

「セラン様?」

「いや、拓哉に怒られそうだと思ってね……。」

 不思議そうに見るアンナに微笑み、話を戻す。

「戻って来た時の拓哉の様子を覚えていますか?」

「……確か、しばらく翔子の寝顔をじっと見つめていたと思います。そういえば、それからショウを後ろから見つめていることが多くなったかも。ショウと目が合いそうになると視線を逸らして、話す事を避けていたかも知れません。」

 考えながら話していたアンナは思い至ったのか顔を上げてそう言った。

「そこで何かあったのは確かなようですね。」

 セランは溜息をつく。

 どうしてこうなってしまうのだろう。

 夜中の公園で暴行を受けていた少年を見た時の衝撃は捜していたものを見つけたというだけではなかった。

 まして、その少年の瞳が宿していた光ときたら衝撃としか言い様の無い物だった。

 ──その瞳、金の小麦の色の奥に深き森を湛え、清き風を包む器なる。

 風は器とともに在りて平穏を得、器は風と共に在りて育ち、その深さ永遠とならん。

 黒き瞳は碧く輝き、その姿遠く秘められたり。碧き風と共に空を駆け、銀の髪纏いて清く、末は光とならん。

 すぐに思い浮かんだ、古い、古過ぎる伝承。

 まして、発された力を見たら放っては置けなかった。

 拓哉も翔子も、セランにとっては自分の存在意義ですらあった。

 なのに。

 彼らに課される試練は厳しすぎる。

「何があったのでしょうね……。」

 アンナが空を仰いで呟いた。

 セランも同じ空を仰いでみる。

 風は、心配いらない、とでもいうように、穏やかに流れていった。


 翔子は起きられるようになって、庭に出てみた。

 あの舟の上から始終側に現れる風が、また肩の辺りで遊んでいる。

 食事もきちんと食べられるようになって、体力も戻りつつある。

 拓哉には会えていない。

 時折、視線を感じることはあるけれど、目を開けるともういない。

 会いたくない理由があるのだと思う。

 無理強いをしたくはないけれど、会いたい。

 目が覚めた時に流していた涙を疑いはしない。

「でも、会いたいよ、拓哉。」

 ぽつん、と独り言にしてみるともっと会いたくなってしまって、ショボンと肩を落とした。

「翔子……。」

 慌てて振り向くと、拓哉がいた。駆けよって抱きつこうとしてつまずいた。

 拓哉が抱き留めてくれて、地面との衝突は何とか免れる。

「気をつけろよ、まだ本調子じゃないんだろ?」

 笑ってそういうと、優しく抱き締めてくれた。

 そっと腕をまわして、抱き着く。

「やっと、会えた。」

「ごめん……。」

翔子はクスッと笑う。

「謝ってばっかり。」

顔を見上げると、目を細めて見降ろしている。

何か言いたくて、伝えたくて。

けれど、上手く伝えられない。

そんな表情だった。

翔子は離れたくなくて拓哉の胸に頬をつける。

「翔子、覚えてて欲しい。」

 何をいうつもりなのか。

 なんとなく分かっていた。

「必ず、戻ってくる。でも待たなくてもいい。」

 しっかりと抱き締めてくれた。

 男というのはこうも勝手なモノなのだろうか。

 女は、待たずにいられるほど弱くもないし、待っていられる程強くもないのに。

 翔子の顎に手を掛けて上を向かせて、じっと見つめる。

 黙って見つめ返す。

「愛してる。」

 拓哉はひとことだけいうと、そっと唇を重ねた。


 気がつけば、ベッドの中。

「莫迦……。」

 夢をみたのではないことは分かっていた。

 その証拠に、左手の中に鎖の付いた輪。

 拓哉の力の欠片が残っていた。

 そっとひっくり返してみる。

 微かにセランの力も残っていた。

 バタバタと足音が聞こえてくる。

 セランがノックも無しに飛び込んできた。

「翔子!拓哉が!」

 手に何か持っている。

「拓哉がいない!私もアンナも気がつかなかったなんて!」

 翔子はゆっくりと起き上がり、ベッドの端に足を下ろして座る。

「うん……。」

 セランは、翔子の表情に騒ぐのをやめた。

「ここに、来ましたか?」

「わからない。あたしに、会いにきてくれた、と思う。」

「翔子……?」

 不安げに呼びかけるセランに、少しだけ微笑んでみせる。

「いいの。分かってたから。どこかへ行ってしまうって。……分かってたの。」

 左手を握りしめてベッドから降りる。

「セラン、帰りましょう。あなたの家へ。燃えてしまったかも知れないけど、あたし、片付けるの手伝うから。」

「しかし翔子……。」

「帰るのか?」

 低い声が聞こえて、翔子は入り口を見る。

「陛下!こんなところへ突然、どうしたんですか!」

 セランが驚いている。

 ということは、王様というのは、こういう所へひょこひょこ顔を出すものでは無いのだな、と、妙な所へ考えがいってしまい、それでも何とはなしに、お辞儀をした。

「自分の娘に会いに来てはいけないのか?」

 翔子のお辞儀に頷き返してから、セランに言った。

「そういう訳ではありません。ですが翔子にも心の準備というものがあるでしょう。」

「翔子は別に驚いてないぞ。」

 驚いていないわけではないけれど。

「いえ、そうではなくて……もう、結構です!」

 溜息をついたセランを見て、

「そう怒るな。」

 と笑い、翔子を見た。

「元気になった様だな。」

「はい、もう大丈夫です。」

 答えてから、少し首を傾げる。

「あの、お父様、なのですよね?」

「うむ、そうなるな。もっとも、お前が3歳くらいまでの話だ。その後は放りっぱなしなのだから、父と呼べるかどうか疑問だが。」

 さっばりとした物言いに、翔子は微笑んでしまう。

「いえ、私、こちらの挨拶の仕方とか、知らなくて……すみません。」

「構わん。前にも何度か様子を見に来たのだがな、まだ眠っていたし、先の通り早々にセランに追い返されてしまった。で、今日、ようやく会えたという訳だが。座ってもいいかな?」

「あ、すみません、どうぞ座ってください。」

 翔子はオロオロしてしまう。

「翔子、いいんですよ、こんな狸親父に気など使わなくても。」

「た、たぬきって……。」

 まだ怒っているセランの酷い言い草に翔子は目を丸くする。

 ところが王は気にする様子もなく笑う。

「私が狸ならお前はズル賢い二枚舌の狐だな。と、いかん、冗談もそれぐらいにしておかんと皆が捜しにくるのでな、本題に入ろう。さて、翔子。」

「はい。」

「あちらへ帰りたいか?」

 思ってもみない問いに、翔子は少しだけ考えてから首をふる。

「あちらへ帰っても待っている人もいませんから。」

「成る程。では、私の娘として城で暮らすか?」

 それもNOだ。首をふる。

「城の生活には馴染めそうにないですし、色んな人に迷惑です。だって、王子さまが、いらっしゃるんでしょう?」

「ふむ。元より世継ぎを変えるつもりはないが。では、どうしたい?」

 そうはいっても、側にいれば、意識せざるを得ないだろう。

 いらない騒ぎは起こしたくない。

「私、セランの家に行きたい。勿論、セランが迷惑で無ければですけど。」

 セランを見る。

 お願い。あなたの家で拓哉を待たせて。

「働くことが必要なら畑で働きます。下働きでも、なんでも。」

「迷惑だなんて、とんでもない!一緒に、帰りましょう。」

 セランがそう言ってくれた。

「……わかった。では、セラン。たのんだぞ。」

「はい。畏まりました。」

 セランが深々と礼をする。

 王は立ち上がり、翔子に一歩近づいた。

「では、戻る。翔子、元気でな。」

 微笑んで、頭を撫でる。

 ふわり、と、翔子は懐かしく感じていた。

 ほんの、小さなころ。この大きな手が大好きだったと思う。

「あの、どうして私の事、翔子って呼んでくれるんですか?陛下にとっては、私はショウの筈なのに。」

「呼ばれてきた名というのは、その人物そのものだからだ。何度愛情を込めて呼ばれたか、それに寄って形作られていく。今更ショウと呼ばれても心には響かん。」

 そういうものだ、と笑って、王は部屋を出て行った。翔子は心から深々とお辞儀をして見送った。

 なんと呼べばいいのかわからなかった。

 お父様?何か違う。

 父上?

 今は呼べそうになかった。

 いつか、呼べるようになったら、会いに行こうと思う。

「セラン、帰ろう。」

 今出来る、精一杯の笑顔で言って見せた。

 拓哉が置いて行ったペンダントを握りしめて。


 あれからもう2年が経つ。

 拓哉は、来てくれるだろうか。

 今日はセランとアンナの結婚式だ。

 色々あったけれど、ようやくここまで辿り着いた。

 翔子は、首に掛けた拓哉のペンダントを取り出して眺める。

 メッセージは、風に乗せた。

 拓哉ならきっと受け取ってくれるはず。

 手に挟んで祈る。

 どうか間に合いますように。

(ほんの少しでいいから手伝ってあげて……。)

 手を開いて息を吹きかけた。

 小さな風の揺らぎたちが窓から空へと昇って行った。

 アンナの所へ急がないと。

 走ってアンナの部屋までいき、ノックをする。

 中にはいると、城から手伝いに来てくれたアンナの師匠ともいうべき女性、ターシャがアンナの仕度を終えた所だった。

 翔子は感嘆の声を上げる。

 恥ずかしそうに振り返るアンナは白いシンプルなマーメイドドレスに短めのヴェールを付け、耳もとにはカラーと良く似た花を飾っている。

「綺麗……。最高の花嫁だね。」

「ありがとうございます。」

 歩きやすいドレスと短めのヴェールは、アンナがどうしても譲らなかった。

 長いドレスも似合うと思うが、動きにくいのは駄目らしい。

 こちらの結婚式は御披露目するのが目的で、神に誓う習慣は無いらしい。

 日が落ちたらセランが迎えに来て、一階の広間で待つ皆の前で妻として紹介し、そのまま夜通しのパーティーになる。

 翔子の感覚では神様に愛を誓う儀式が抜けているのは妙な気もするけれど、その代わり、明日の朝、庭に二人で小さな苗木を植えて大地に祈るそうだ。

 食事や会場の飾りつけなどは皆がやってくれるので、翔子は至って暇である。

「セランの様子、見てくるね!」

「あ、翔子……待って下さい。」

 2年の間に、ようやく呼び方を変えてくれたアンナは翔子の手をそっと握りしめる。

「私だけが幸せで、いいのでしようか。」

「またそれを言う。そんなの拓哉が戻ってくるの待ってたらおばあちゃんになっちゃう。」

「ですが……。」

「お願い、私にアンナの幸せな姿、見せてちょうだい。ね?」

 微笑んで見せて、手を握り返すと、アンナは、はい、と返事をした。


 セランは着替えを済ませ、ふう、と息をつく。

 正装というのは全く窮屈なものだ。

 けれど、やっと夫婦になれるのだと思うとほっとする。

 アンナを説得するのは本当に大変だった。

「拓哉のせいだ。帰ってきたら首を絞めてやる……。」

 結局一年かかったのだから、恨みも積もるというものだ。

「俺が帰ってきたらどうするって?」

 背後から聞こえた声に一時停止する。

 慌てて振り返ると、窓から拓哉が

 覗いている。

 壁をどうにかして昇ってきたのか?

 いや、そんな事より。

 逃してなるものか。

 よいしょ、と体を持ち上げて

 入ってこようとする拓哉の胸ぐらを掴み、引っ張り上げる。

「この、ど阿呆!お前がいなくなったせいで一生結婚できないところだったんだ! 一年だ、一年! とんでもなく苦労したんだからな!」

「わ、ちょ、ちょっと待った、ぐるじ……。」

 セランが襟を掴んで引っ張り上げるのに慌てて合わせて上がってくる。

 入ってきたと同時に手を離すと、咳き込んで窓際に座りこんだ。

 セランは机の引き出しから手紙を取り出し、戻ると拓哉の顔に叩きつける。

「こんな手紙一枚残して姿を消したりして、翔子がどれだけ苦しんだか分かってるのか?!」

 手紙が、ハラリと床に落ちる。

「ごめん……、これ、燃やして。」

「嫌です。しばらく背中にとれないように貼ってあげます。」

 嫌味たっぷりに言い放つと、拓哉の顔が真っ青になった。

(ふん、これ位は虐めてやる。)

「そんなに恥ずかしいものですか?」

 拓哉が救いを求め、何度も頷く。

 セランはニヤリと笑って、手紙を拾う。

 拓哉の顔が引きつった。

「では切り札にとって置くとしましょう。」

 救いを求めるなど、甘いのだ。

「あー、あんな手紙、書かなきゃ良かった……。」

 起き上がりもせずに、髪をくしやりと混ぜる。

「書き置きもなしにいなくなってたらどんな手をつかっても探し出しましたよ。」

「それは……まずい。」

 大きなため息をついている。

 廊下をかけてくる足音が聞こえる。

「ほら、来ましたよ。覚悟して下さい。」

 拓哉の顔に緊張が走り、起き上がろうとした。

「セラン?準備できて……?!」

 ドアを開けた翔子の声が途切れる。

 半分立ち上がりかけた拓哉と見つめ合う。

 風の塊が拓哉の胸にとびこんだ。

 ごちっ。

 いかにも痛そうな音は、拓哉の頭が窓枠に当たった音。

 かなりな音だったけれど、バチが当たったのだ、仕方ない。

 あとは、二人にしておくことにして、セランは部屋を出た。

「セラン」

 ドアを出たところで、アンナが声をかけてくる。

「拓哉が帰ってきたのですか?」

 物音を聞いて出てきたらしい。

 答えようとしたけれど一瞬見惚れてしまう。

「セラン?」

「あ、いや……。」

 咳払いをして、戻るよう促す。

「帰って来ましたよ。」

 アンナの顔が輝く。

 ポロポロと涙が溢れる。

「良かった……ほんとに……。」

 セランは涙を拭いてやりながら頷く。

「これで心おきなく、私の妻になってもらえますね?」

「はい。」

 即答したアンナの笑顔は今日の青空のように晴れやかだった。


 それからが大騒動だった。

 あと1時間しかない中で、拓哉の髪を切り(何しろ伸び放題の髪を紐で縛っただけだった)風呂に入れ、略礼服の寸法を整える。

 何とか間に合ったのはターシャのおかげだった。

「俺、出なくても──」

「ダメ」

「駄目です」

 面倒臭くて断ろうとした拓哉は当然大目玉を喰らい、大人しく従った。

 終始、参ったなぁという顔で、やっと準備を終えた拓哉の救いは翔子の嬉しそうな笑顔だった。

 それだけでも戻って良かったと思う。

 正直、迷った。

 この二年離れて暮らした自分が平気な顔をして戻っていいのか、まして、晴れがましい席へ顔を出す資格があるのか。

 けれど、約束した限りはいつかは戻らなくてはならない。

 いや、戻らなくては離れた意味が無かった。

 最後に拓哉の背中を押したのは今も頭や肩の辺りで遊んでいる風達だった。

 広間に面した庭のテーブルに座って、頬杖をついている拓哉の髪を揺らしたり、襟を揺らしたり、遊んでいるとしか思えない動きをする。

 報せが届いてから拓哉が決心する迄、とにかく煩かった。

 髪をまとめる紐を解いてしまったり、耳元をくすぐったり、時には頬をぶつように強く吹いてみたり。

 ──分かったよ!行くから止めろっ!

 耐えられず叫んだ途端、ふわりと拓哉を優しく包み込んだ風。その中に確かに翔子の微笑みを感じた。

 今は拓哉が鬱陶しいと感じない程度に周りで戯れている。

(こいつらは、翔子が本当に好きなんだろうなぁ……。)

「あ痛っ!」

 髪を軽く引っ張られた。

「あー、もう、分かったよ。俺もおんなじだって言いたいんだろ?」

 くるん、くるん。

 その通りとでも言いたいのか、前髪を丸めて振り回した。

 翔子が中で呼んでいる。そろそろ始まるらしい。

 翔子は拓哉に腕を絡め、一番前迄連れていく。セランの人徳なのか、広間は満員だった。セランとアンナが入ってきた。二人共いい顔をしている。セランはさすがに場慣れしているのか、挨拶やアンナの紹介を卒なくこなしていく。

(俺はあんな上手くできないな……。)

 と考えてから、はた、と気づく。

 自分が?

 翔子と?

 隣で拍手をしている翔子と目があつた。

 ニコッと笑う翔子のドレス姿を想像して、顔が赤くなってしまう。

(……駄目だ、免疫力が落ちてる。)

 キョトンとする翔子から慌てて目をそらし、口元を隠す。

 以前も翔子の笑顔には弱かったけれど、輪をかけて弱くなっている気がした。

 乾杯の声のあとは無礼講だ。セラン達はしばらく挨拶まわりだ。

 やれやれ、一息つける。

 と、アンナがセランを引っ張るようにこっちに向かって歩いてきた。

 アンナとはまだ話していない。

「嫌な予感がする。俺、ちょっと……。」

「え?ちょっと、拓哉、セランが来るよ。」

「だからだよ、やば……ぐぇっ!」

 襟を背後から掴まれて変な声が出る。

「どこへ行くのですか、タクヤさま?」

 首をさすりながら振り返ると目の前にアンナの顔があった。

「う、いや、その。」

 綺麗に化粧したアンナの顔は、美人だけにど迫力だ。

「まさか逃げるなんてこと、なさいませんよねえ?」

「!!」

 足をヒールで踏まれて声も出ない。

(こ、怖ぇっ!)

「翔子がどれだけ待ったか、ご存知ですか?ご存知ですよねえ?!」

 ぐりぐり。

 細いヒールが食い込む。

「あ、アンナ、みんなが待ってるから。」

 翔子が気づき、なだめると、少し気が済んだのか、足を退けた。

 目が笑ってない。

 セランは横で笑いをかみ殺している。

「では、また後でお話しましょうね?」

 もう、笑顔が究極に怖い。

 拓哉は引き攣りながら手を振った。

「拓哉、大丈夫?!」

「……あんまり大丈夫じゃない。」

「部屋で靴脱いで見よう、ね?」

「う、その方がいいかも。」

 自業自得とはいえ、コレはキツイ。

 翔子に連れられ、部屋に戻ってベッドに座って靴を脱ぐと、内出血していた。

 それでも骨には影響なさそうなのは、力加減がされているのかもしれない。

「うわ、痛そう……。」

 翔子は氷を持ってきたり薬を塗ったり、甲斐甲斐しく動いてくれる。

 セランもアンナも、怒って当然なのだ。

 二年もほったらかしにしていたのだから。

 けれど、翔子は?

 理由も言わずにいなくなった自分を詰りもしない。

 帰ってきた時に泣かれはしたものの、それだけだった。

「翔子……お前は怒らないのか?」

 包帯をまき終えた足をベッドに上げ、氷嚢をのせた翔子はじっと拓哉を見つめる。

「怒って欲しい?」

「いや、そういう訳じゃ……。」

 翔子は包帯や薬を片付けながら話し始める。

「……分かってたの、拓哉が何処かへ行ってしまう事。」

「分かってた?」

「うん、岩屋で外でお月様見たあとから、あたしと目を合わせてくれなくなった。最初は、嫌いになったのかと思ったけど、目をそらしてばかりで、怖がってるみたいに見えた。」

 翔子の横顔は銀の髪で隠れている。

 薬箱の蓋を閉めてこちらを向き、テーブルに凭れる。

「薔薇園に来てくれた時、怒ってたでしょう?」

「それは翔子が刺されたから」

「違うの。」

 深い碧に輝く翔子の瞳に目を奪われる。

「拓哉が怒ってたのは自分だった。あたしが死にそうになってた間も、自分に怒ってた。」

 少し声が小さくなる。

「だから、あたしの目が覚めた時、ごめんって言った。」

 どうしてそんなに鋭いのか。

 拓哉自身、意識していなかった想いは言い当てられて初めて目の前に姿を現した。

「だからね、もう戻らないかもしれないって思った……。」

「翔子、それは違う。」

 それだけは言える。

「俺は翔子を護りたかった。なのに護れなかった。」

 だから怒っていた。不甲斐ない自分に。制御仕切れない自分の力に。

 翔子の想いに応え切れない弱い自分自身にも。

「戻って来るために、出て行ったんだ。」

「……うん、戻って来てくれた。約束通り。だから、怒るよりも嬉しいの。」

 ニコッと笑う。

 上手く言えない。

 そうじゃない。

「違う……怖かったんだ。弱い自分が翔子を傷つけるのが」

 認めなければいけない。

 離れて分かった。

 逃げていただけだった。

「だから、戻って来たんだ。」

 ベッドから立とうと足を降ろす。

「!!」

 激痛が走って、立てなかった拓哉に、翔子は慌てて駆け寄る。

 しゃがもうとする翔子を推し止めて、拓哉は座ったまま、翔子を見上げた。両方の二の腕をそっと掴む。

「俺は弱くて、翔子を護れなかった。認めるのが怖くて自分から逃げてた。」

「拓哉は……護ってくれたよ?」

 翔子が戸惑いながら言うけれど、拓哉は首を振る。

「護り切れなかった。強くならなきゃならないと思った。だけど、翔子がそばにいないと駄目なんだ。」

 本当に、上手く言えない。

「一人じゃだめだったんだ……。」

 何が言いたかったのかわからなくなってしまう。

「拓哉。」

 優しく呼ばれて、俯いていた拓哉は顔を上げる。

 翔子は拓哉の前に跪いて目線を合わせる。

 ふふっ、といたずらっぽく笑う。

「あたし、一度聞いてみたかったの。」

「……なに?」

 混乱している拓哉は普通に答える。

「一日中キス責めにしてって言ったら嫌?」

 一瞬、キョトンと空白状態になる。

 え?

 言葉が意味を持つのに、10秒。

 脳が爆発した気がした。

「ね、嫌?」

「いや、その……。」

 全く頭が働かない。

「なあに、拓哉が言い出したのに?」

 拓哉の顔が耳まで真っ赤な様子に、翔子は口を尖らせる。

「あたしは拓哉の事好きだからいいけど、嫌なの?」

「嫌じゃ、ない……。」

 ようやくそう答えるだけで心臓が口から飛び出しそうだった。

 どうしてこんなことになってるんだ?

 なんでこんなに暑いんだろう。

「嫌じゃないだけなの?」

 少し哀しげな顔をする翔子にあたふたする。

「う……」

 嬉しい、と何とか小さな声で答える。

「どうして嬉しいの?」

 イジメだ。

 どう考えてもイジメだ。

 こうなったら覚悟を決めて開き直るしかない。

「愛してるからっ!!」

 ぱあっと翔子の顔が明るくなる。

 突然ぎゅうっと抱き締められて、拓哉は目を白黒させてしまう。

「あたしも愛してる。」

 耳元で囁く。

「仕返し。」

 ああ、そういうことか……。

「……参った。」

 そのまま後ろへ倒れこむ。

 つられて倒れこんだ翔子が、きゃ、と悲鳴を上げる。

 ぐったりして動く気もしない。

 目を閉じて心臓が落ち着くのを待っていると、翔子が頬にキスをくれた。

「中々言ってくれないんだもん。たった一言でいいのに。」

 そうか、いいたかったのはその一言だ。

 拓哉は苦笑してしまう。

「ごめん。」

 たった一言が言えなかった。

 その一言で縛ってしまう様な気がして、伝えられなくなっていた。

「前は言ってくれたよ?」

「……うん。」

「だから、待ってられた。」

「……うん。」

 翔子の声が心地よく響く。

 さっきは悪魔の声かと思ったけれど。

「疲れた……。」

 ベッドに沈みこんでしまいそうなくらい、重い。

「眠る?」

 聞かれて目を開けると翔子が覗きこんでいる。

 髪を撫でてみる。

 さらりと流れる髪が微かに音を立てた。

「捕まえた。」

 肩に手を掛けてくるんと上になる。

「拓哉……?」

「一日中キス責めにする。」

「あ。ズルい。」

 軽くキスをして。

「だめ?」

 翔子は少し頬を赤らめて首を振った。

 その手を拓哉の首に回す。

「ずっと側にいてくれるなら、いい。」

 拓哉は答の代わりにそっと唇をかさねた。


 朝日が昇る。

 セランは小さな苗木を穴の中へとおさめた。アンナと二人で土をかける。

 三年程で実をつけるという

 栗を植えた。

 アンナが、どうせなら収穫出来るものをと選んだ。

「三年後が楽しみですね。」

 アンナは土をかけながらそう言った。

「それまで愛想をつかさないで欲しいものですが、どうですか?」

 セランが問うと、肩を竦める。

「さあ、あなた次第でしょうね。」

 まあ、そうだろうな。

 肩を竦める仕種も可愛いと思ってしまう。

 惚れた弱みという物だろう。

「精々気をつけます。」

 アンナはクスクスと笑う。

「皆さんも帰ったことですし、食事にしましょうか。」

 テラスから中へ入ると、パタパタと走って階段を降りてくる音がする。

「アンナ!もう終わっちゃった?」

「今植えおわったところです。」

「ああ、見たかったのに!」

 残念そうにいう翔子の乱れた髪を、アンナはそっと直してやる。

「髪くらいはといてくるものですよ。」

「え?そんなにくしゃくしゃ?」

「はい。かなり。」

 やだー、と洗面所へ駆けていく。

 その様子が子供のようで、二人で顔を見合わせてわらった。

 アンナが調理場へ向かうのを見送り、セランはソファに座る。

 ああ、疲れた。

 人が集まると疲れる。

 しばらくは勘弁して欲しい。

 不規則な足音と大きな欠伸が聞こえて、拓哉が降りてきた。

「おはようございます。足が痛むようですね。」

「おはよう……。」

 ひょこひょこと歩いて来て隣に座る。

「見る?」

 履いていた靴を脱ぎ、ソファの上に上げて見せる。

「うーん、腫れてますねえ」

 踏まれた辺りから足の甲全体が紫色になっている。

「正直、歩くのがツライ……。」

「少し楽にしましょうか?」

 何だか憐れになって聞いてみると、少し考えてから首を振った。

「アンナに殺されそうだから、いい……。」

 シュンと肩を落とす。

「……まあ、二、三日の我慢ですから。」

 笑って励ましておく。

 拓哉も寝起きのようで、髪はくしゃくしゃだ。

 また欠伸をする。

(ふうん、寝不足ですか。)

 昨夜はちっとも見かけなかった。

「キスマークついてますよ」

 拓哉は慌てて首を隠す。

 セランがニヤッと笑うと、拓哉の顔が真っ赤になった。

「引っ掛けたな……。」

「引っ掛かる方が悪いんですよ。」

 涼しい顔で返すと、大きく溜息をつく。

「ったく、みんなして。俺はおもちゃか。」

「まあ、暇つぶし程度には。」

 ニヤニヤしながらみると、ガックリと肩を落とした。

(面白すぎる。)

 またいじめてやろうなどとふざけた考えも浮かぶというものだ。

 調理場から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 翔子の声が拓哉が帰る前とはまるで違う。沈んでいた訳ではなかったものの、よく空を見上げる姿を見かけた。

「いいものですね、ああいう笑い声は。」

 セランの言葉に拓哉は微笑み、そうだなと答えた。

 その表情に、何故か一抹の不安を覚えて、セランは拓哉を凝視する。

「拓哉。」

「ん?」

 呼ばれてこちらを見る目に違和感はないけれど。

「もう、何処へも行きませんよね?」

 拓哉は笑う。

「何で?」

「行きませんよね?!」

 誤魔化されてなるものか。

 また翔子に寂しそうな笑顔をさせるつもりなら、縛りつけてでも引き止める。

 と、突然、拓哉の髪が逆立った。

「痛いっ、やめろっ、行かない、何処にも行かないからやめてくれ!」

 拓哉が叫ぶとすっ、と髪がおさまった。

「どこも行けないよ、こいつら、ずっとこうだもん。」

 苦笑いをして、ふわふわと浮いている一房の髪を弾いた。

 風がくるくると拓哉の髪で遊び始める。

 呆気に取られて見ていると、困った様な顔で髪が揺れるのを見上げる。

「こいつらここに戻るまでも大騒ぎでさ。参ったよ。」

 ごはんできたよー、と翔子の声がした。

 拓哉は立ち上がり、ひょこひょこと食堂へ向かう。

 セランはその後を歩きながらもまだ不安を拭えず、そっと溜息をついた。


 拓哉がいない。

 昨夜も隣で寝ていた筈の拓哉が朝目覚めるといなかった。

 ベッドに温もりは残っていない。

 帰ってから3日。

 もういなくなってしまったのだろうか。

 髪を引っ張られて、頭を上げると、窓の方向を指している。

「あっちに、いるの……?」

 窓に走り寄る。

 走っても間に合わない程遠く、馬影がみえる。

「まさか、本当に……?」

 行ってしまったのだろうか。

 もう、戻ってこないというのか?

 ずっと一緒にいると約束──。

「してない、ね。」

 小さく呟く。

 キスをした、ただそれだけ。

 力が抜けて座り込む。

 窓枠に顎だけを乗せて、馬影を見つめる。

 あの美しい馬の動きは間違いなくジュノーだ。

 馬上の人は、拓哉。

 戻ってきて。お願いだから。

 あたしをおいてかないで。

 涙がポロリとおちる。

「やだ、やだよ……もう待つのはやだ!」

 立ち上がって部屋をでる。

 階段を降りたところでアンナと会う。

 すり抜けようとしたけれど、腕を掴まれてしまう。

「翔子?いったい?」

「拓哉が……拓哉がいっちゃったの!一緒にいてって言ったのに、もう、待つのは嫌なの!だから離して……」

 涙が止まらない。

「翔子、落ち着いて!」

 アンナにぎゅっと抱き締められた。

「あなたなら追いつきます。大丈夫。」

 返事が出来ず、ただ頷く。

「行ってらっしゃい。」

 ポンと背中を押して送り出してくれた。

「うん、ごめんなさい。」

 ドアが風で開く。

 走り出したと同時に体が浮き上がる。

 思いのままに、風が吹き上げ、高速ではこんでくれる。

 拓哉の行き先はどこでもいい。

 ただ、一緒に行きたい。

 風景が通り過ぎていく。

 森も畑も、風の間に消えていく。

 銀色の髪が視界を遮ることなく後ろへ流れて背中を打つ。

 もう少し。

(ジュノー、お願い、まって!)

 翔子の声が聞こえたようにジュノーが止まる。

 あとほんの少し。

 急に止まったジュノーから降り、なだめるように鼻面を撫でている拓哉の髪を風が強く嬲る。

 数歩手前で降りる。

 怖かった。

 もし、拒否されたら?

 風が止まる。

 拓哉がこちらを見て目を大きく見開いた。

 今、言わなくては。

 待つのは、もう嫌だ。

「おいてかないで……。」

 首を横に振られるのが怖くても。

「もう待つのは嫌なの!」

 捕まえて置かなければ!

「お願い、一人にしないで。」

 叫んで拓哉の胸に飛び込んだ。

「翔子……。」

 戸惑う拓哉の声。それでもそっと抱きとめてくれた。

「……遠乗りに出ただけなんだけど。」

 ──え?

「アンナには言ったんだけどな。」

「ええええぇーっ?!」

 翔子の驚く声に耳を塞ぐ。

「声でかいって。」

「あ、アンナそんなこと何も……。」

 今頃アンナは舌を出しているかもしれない。

 拓哉はクスクスと笑う。

「やられたな。」

「やだ……もう。」

 恥ずかしくて両手で顔を隠した翔子を拓哉はそっと抱き締めて額にキスをする。

「もう一人にはしないから、安心して。」

 風が優しく二人の周りを包む。

 目だけを出して、翔子は拓哉を疑いの目で見る。

「ほんと?」

「ほんと。」

 頷いて離れ、ジュノーの手綱を取ると

 ひらりと乗る。

「行こう。」

 翔子に手を差し伸べる。

 翔子はジュノーの首を撫でる。

「乗せてくれる?」

 もちろん、と言いたげに、鼻を寄せる。

「ほら」

 翔子が差し伸べられた手を取って拓哉の前に座るとジュノーが走り出す。

 慣れていないのでお尻は痛いが、風が気持ちいい。

 丘の上で拓哉はジュノーを止めた。

「ほら、馬の上から見るとまた違うだろ?」

 眼下に広がる風景が翔子には別世界の様に見えた。

 広がる畑、森も遠くまで見渡せる。

「翔子。」

 呼ばれて振り向くと拓哉は遠くを見ている。

「離れてる間ずっと考えてた。俺がここにいる意味ってなんだろうって。」

 翔子はじっとその顔を見つめる。

「答えはまだでてないんだ。」

 翔子ができることは沢山もらった心に応えていく事。

 もちろん、拓哉にも。

「だから、今度は一緒に行こう。」

 胸が熱くなる。

 体全体に痺れるように喜びが広がってゆく。

「うん。」

 頷いて風景に視線を戻す。

 全ての物を色鮮やかにしてゆく朝の光は二人の心に強く焼きついていった。


完結です。

読んでくださったかた、ありがとうございます。

まだ消化できていない伏線もあったり、長過ぎるエピローグだったり、力不足が露わになった一作目でした。

それでも長い間暖め続けた作品なので思い入れだけはたっぷりで、それ故に拙い文章にイラついたり、色々ですが、取り敢えず一つの区切りを付けたくて投稿しました。

読んでくださった方の心を少しでも動かす事ができたなら、これ程嬉しいことはありません。

ありがとうございます。

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