始まりの風
初投稿です。
ずっと前に書いたものをやきなおして投稿して見ました。原稿は遥か昔に紛失してしまったので頭の中の引き出しから引っ張り出しています。
どうか暖かく見守っていただけると幸いです。
コッ、コッ、コッ…‥。
闇に規則的な自分のヒールの靴音が響く。
前方に頼りないばかりの街灯。
タッ、タッ、タッ…‥。
ふと、後ろから近づく足音。びくりと振り向いても闇の中。
ゴクリと唾を飲み込み、足を速める。
それでも徐々に近づく足音。走りだすと高架下の街灯が注意信号のように点滅する。
ふと後ろの足音が消える。
振り向きたくなる思いを押しとどめる。
振り向いてはいけない。
それよりも逃げなくては。
速足で高架下に差し掛かると街灯が突然明るくなる。
目の端に煌めき。鏡のように煌めく高架の壁に映るのは──。
銀髪の女性。
自分にそっくりの瞳、鼻、口。
驚き、自分の髪をみるといつもの栗色。
後ずさりする自分とは逆に、怯えもなくこちらを見据え、手にもった剣を真っ直ぐにこちらに向ける。
奇妙な沈黙。
タタタタッ。
沈黙を破って走り寄る足音に、鏡に背を向けて振り返るとマントのフードを深く被った人物。
突然。
背中から冷たい違和感が突き抜ける。違和感の正体──身体を突き抜けた剣に触れた手が真紅に染まった。
力が身体から抜けて崩れてゆく。
フードの男に抱き止められる。後ろから響く耳障りな自分の哄笑。
フードの外れた彼の薄い茶色の瞳。
手を伸ばして、確かめたい。
触れようとしても届かず、空を切る指先。
後は闇…。
拭き上げた硝子に息を吹きかけ、乾いたクロスで更に磨きをかける。ウインドウ越しに燦然と輝く高級時計たち。
外を歩く雑多な人々が店のショウウィンドウの前だけは一歩離れて歩いているように見えるのは自分の勝手なひがみだろうか?
何の間違いか、この店で働き始めて半年になる。
こういう店で働くのは品良く見えるおばさまか、美女かと思っていたらそうでもないらしい。
自分のような、普通の人間が採用された。
「翔ちゃん、外、もういいわよ〜」
硝子製のドアから顔を出したのは店のオーナー。物腰柔らかく女性らしい美人だ。
「はい!」
高原翔子は元気よく返事をして中へ入る。
「寒かったでしょう?さ、こっちでお茶どうぞ」
確かにこの寒空の下では手の先が凍えている。
湯で手を洗い、店のカウンターの奥の、表からは見えにくい椅子に座り、お礼を言って両手で紅茶の入ったカップを包み込むとホッとする。
「なあに?浮かない顔して?」
オーナーの福井愛美がにこやかに問いかける。
「だめよ、翔ちゃんみたいに若い女の子がそんな顔してちゃ!」
「そう、ですよね……」
とは返事したものの、浮かない表情はそのまま。
肩先で切り揃えた髪を触ってため息をついた。
愛美が首をかしげる。
「まさか平田さんに何かあったの?」
「ち、違います!」
大慌てで首をふる。
両親を中学一年でなくした翔子には引き取って面倒を見てくれた平田洋介という叔父がいる。独り暮らしを始めたいまでも、何かにつけて様子をみにきてくれる平田はこの店の顧客でもある。
言わば、そのツテで私はここに就職したのだ。
その平田を敬意もこめて「あしながおじさん」と呼ぶ愛美はホッと息をついた。
「あー、ビックリした……いつも元気なあなたがそんなだからいらない心配しちゃったわ」
「すみません……ちょっと気になる夢見ちゃって」
愛美は先を促すように首を傾ける。
と、入口のカウベルがなる。来客だ。
愛美は椅子から立ち上がり、ドアから入ってきた客へ笑顔を向ける。
「いらっしゃいませ」
新顔らしい。声がややよそいきだ。
と、愛美がよろよろと後ずさりして、椅子に座りこんだ。
「オーナー…‥?」
翔子は驚いてティーカップを小さなテーブルに置き、駆け寄る。
ぼうっと前を見つめる愛美の前に、若い男。
翔子を苛立ったような鋭い瞳で見つめた。
とたんに、身体がいうことを訊かなくなる。
──な、何?
入口から、営業マン風の男が3人入ってきたかと思うと、バッグの中に高級時計から順に放りこんでゆく。
(…‥強盗?)
「け…‥け、いさ…‥つ」
何とか発した言葉に、目の前の男がわずかに驚いた顔をし、舌打ちをした。
カウンター越しに翔子の腕を引き寄せ、素早くポケットから出した布を当てた。
意識が遠のいてゆく。
(これって…‥クロロフォルム…‥とかいうもの?)
崩れ落ちながら、今朝の夢を思い出す。
(いやだ、正夢…‥?)
「何だ、いつものが効かなかったのか?」
少し離れた所からの声。
「うるさい。さっさと仕事を済ませろ」
目の前からの声。
もう目は開けていることができず、床に崩れた。
なぜか、頭は打たなかった。
ショーケースの鍵を開ける音と、店の奥の金庫を開けるような重い音を最後に、深い眠りに吸い込まれてゆく。
事件の翌日。
【都合により、しばらく休業させていただきます。 店主敬白】
A3の白い紙に大きくそう書くと、愛美は大きくため息をついた。
「やられちゃったわねぇ…‥」
「すみません…‥」
なんとなく、自分にも責任があるような気がして翔子は謝る。
「どうして翔ちゃんが謝るのよ、ばかねぇ」
カラカラと笑って、翔子の頭をなでた。
「保険もかけてるし、何とかなるわよ。でも、縁起も悪いし、場所移ろうかなぁ」
足が簡単につきそうな銀行関係のものはそっくりそのまま残っていたとのことで、被害額は立ち直れないというほどでもなかったらしい。
もともと、金持ちのようだし。
「警察でもきかれたんだけど…‥まったく覚えてないのよね。翔ちゃんと、元気ないわねって話してて、カウベルが鳴って…‥」
愛美は考え込み、翔子を見る。
「翔ちゃんは何か覚えてる?」
「ええと、オーナーが椅子に座りこんで、慌てて呼んだところまでは覚えてるんですけど、その後はまったく」
首をふり、申し訳なさそうに答えた。
「ふむ…‥警察は微妙に変な目向けてきたけど、どうしようもないわよねえ」
肩をすくめて店内を見回す。
店内に数組の足跡は残っていたようで、侵入者がいたことは確からしいが、当日来た客には警察が行って迷惑をかけてしまっただろう。
「しばらくはお休みしなきゃしょうがないわね。営業再開、って時には連絡するわ」
笑顔で言ってから、不安そうに私を見た。
「…‥また働いてくれる?」
「あ、当たり前です!」
困っている愛美をほったらかしにして仕事を辞めるわけにはいかない。
さして怖い思いをしたわけでもないのだから。
「よかった。泥棒に入られた店に働きにきてくれる子って、なかなか見つからないのよね。でも、怖くなったらいつでも言ってちょうだい。無理強いはしないからね。」
軽くウィンクをして、挨拶ポスターを見直すと、入口へ貼りに行った。
愛美は大した度胸だ。泥棒にはいられようと、また店を再開するつもりらしい。
保険等、手続きがあるので、しばらくは休むが、新しい店舗を探す気である。
「すごいなぁ…‥わたしも逞しく生きなくちゃ」
心の中で気合いを入れ直し、翔子は愛美を手伝いに行った。
店を閉めた翌日。
一緒に食事をしようと「あしながおじさん」の平田から連絡があった。
愛美から連絡が行ったらしく、ひどく心配している様子で、怪我も何もないからと言っても姿をみるまでは納得が行かないらしい。
「こんにちは、おじさま。」
待ち合わせた喫茶店で本を読んでいた平田に声をかける。
「やあ、翔子さん。ああ、無事でよかった…‥」
少々水臭い呼び方をして、本当に安心したように笑顔をみせると、かけていた老眼鏡を外す。
翔子は照れたように笑い、向かいの席に座った。
「怪我も何もないですから。無事ですよ。」
「わかってはいるのですが、やはり顔をみないことには安心できませんから。怖かったでしょう?」
丁寧な言葉使いは昔から変わらない。父母が生きていた頃から時折会っていたが、ずっとこの調子だ。
お蔭で翔子も言葉が丁寧になる。
「それが・・よく覚えてないんです。」
「覚えていない?」
平田の眉間にしわが寄る。
「ええ・・オーナーが座ってしまったので、どうしたのかと呼びかけて・・前に誰かが立っていて」
考え込みながら髪先をさわる。
「そこから靄がかかったみたいでわからないんです」
「何にも、ですか?」
平田が私の目を覗き込む。
一瞬、記憶の中の靄が晴れた、気がした。
「そうだ、瞳の色・・薄い茶色で・・あ。」
ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。
夢と、同じ瞳。
薄茶色の瞳など、山ほどいるはずなのに、なぜかそう確信した。
「薄い、茶色・・」
平田は小さく呟いた。と、翔子が黙り込んでいることに気づき、声をかけた。
「翔子さん?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないんです」
にこっ、と笑って手を顔の前で振った。
イタリア料理をごちそうになって、タクシーでマンションの前まで送ってもらって、やれやれ、と息をつく。
まだ時間も早いからと電車で帰ろうとする翔子を叱ってタクシーに乗せたのだ。随分遠回りだというのに、申し訳ないばかりだ。
心配な気持ちもわかるのだけれど、本人としては殆ど覚えていないので他人事状態だ。
エレベーターを呼ぶボタンを押して、一瞬思い出したあの瞳の色を思い返す。
(本当に正夢だったのかな・・。それとも、記憶のすりかわり?)
エレベーターに乗ると、一人一緒に乗り込んでくる。
オートロックの玄関なので特に心配はしなかった。
自分の部屋は8階だ。
「9階までつきあってもらえるかな?」
え?
慌てて振り向くと、顔の横から9階のボタンが押された、ようだ。
「な、ち――」
「痴漢じゃないから、騒がないでくれ」
そんなこと言われたって、誰が信じるものか。
睨みつけたその先に、あの薄茶色の瞳。
驚きと同時に身体の自由がまた聞かなくなる。
(また?またって…‥そうだ)
「ご、ごうと…‥」
痴漢より悪い。
いや、どっちがとは言えないが、やはり悪い。
思い出しはしたものの、思考がまとまらない。
「やっぱり、か」
男はなにやらつぶやくと、ため息をついた。
「とりあえず、着いたから、降りて」
思ったよりも普通の扱い方──乱暴ではなく──翔子をエレベーターから降ろすと、先に立って歩く。
(このまま階段で下へひとつ降りれば部屋に帰れる、のに)
頭ではそう思いながら、男について行ってしまう。
かといって、不思議と怖くはなかった。
「はい、どうぞ」
901号室。一番端の部屋。真上の部屋だ。
先に中に入ると、スタスタと奥へ行ってしまう。何やらごそごそと片付けているような気配がした。
玄関で立ちつくし、ポカンとしてしまう。
(無理やり連れてきておいて、玄関にほったらかし?しかも片付けてる?逃げちゃったらどうするんだろう、この泥棒さん…‥)
ほどなく戻ってくると、
「入って」
と、当たり前のように告げてから、ああ、と思い出したように私を見る。
「よければ…‥。もう身体の自由はきくはずだから、出ていけるんだけど、その前にちょっと話を聞かせてほしい。」
この間抜けな会話はなんだろう。
(強盗、だったよね、この人)
動こうともせず、何もいわない私をみて、ふーっと息を吐く。
「じゃあ、ここで聞く。外でできる話でもないんだ。・・あんた、何者?」
「へっ?」
「俺の目を見ても体の自由がきかなくなるだけ。ぼーっともしない、その上、声が出るなんて。」
「はっ?」
本人はいたって真面目な顔をしている。
「あんたの店の店長。ぼーっとなってただろ?あれが普通の反応。あんたは違ってた。」
「…‥。」
何と答えればいいのかわからず、私はポカンと男を見つめる。
男はうまく説明できないのか、苛々したようで、自分の髪をくしゃりとつかむ。
「あー、ちゃんと説明するには時間がかかるんだよな…‥とにかく、入ってくれない?説明する。」
「…‥はぁ。」
気の抜けた返事をして、逃げる気力も断る気力もなくして靴を脱いだ。
なるほど、身体の自由はきくようになっている。
(これがこの男の手口だったら、私、どうするんだろう。)
そんな考えがちらりとよぎったが、それはないだろうな、と何となく確信していた。
多少、服が脱ぎ捨てられてはいるものの、綺麗に掃除されている。
男の部屋をみて、翔子は感心した。
翔子のイメージとしては、とっちらかった掃除機もかけていない部屋=男の部屋だった。
どうやら女性も出入りしていない様子である。
かわいらしい小物も、調理用具も特に女性の気配は感じさせなかった。
上下で同じつくりの部屋なので、10畳のリビングに対面カウンターキッチンがつくりつけられている。
申し訳程度に小さな部屋が寝室スペースとしてリビングの隅にあり、カーテンで仕切られている。
かなり広いワンルームといった形だ。
「コーヒー、飲めるかな?」
「あ、好きですけど…‥」
私は普通の客なのだろうか、と首をひねるが、もう、自分がここにいること自体が異常なのだから、考えても仕方ないと割り切ることにした。
いい香りが漂い、淹れたてのコーヒーが出てきた。
「ありがとう」
「いや、その…‥まあ、いいや」
礼を言われて初めて異常な状況に気付いたのか、ちょっと戸惑い、翔子が座ったソファの向かいにスツールを持ってきて座った。
「俺、催眠術っていうか…‥超能力に近いものを持ってるんだ。」
「は?」
またまた、とんでもない話から始めたものだ。
「冗談みたいだけど、ホントの話だっていうのは、さっきもわかっただろ?」
「…‥まあ。」
体の自由がきかなくなったのは確かだ。
彼の話によると。
その能力に気付いたのは中学一年のころで、それ以来まわりと距離を置くようになったこと。
両親にしても同じことで、それ以上亀裂が入るのが嫌で、高校から一人暮らしを始めた。今回の強盗については特別な人から頼まれた仕事らしい。普段は投資やバイトで稼いでいる。一人で暮らしていくには困っていない。
「でも、仲間がいつものが効かなかったのかって言ってたわ」
「聞いてたのか…‥やっかいごとから逃げるのにつかうことがある。面倒だから」
とは言っているが、おそらくいくつかはあるのだろう。
「…‥どうしてそんなに私に話すの?警察に話すかもしれないのに?」
不思議に思って聞いてみると、ちらり、と翔子の目をみてからそらし、
「言わないと話してくれないだろ? あんたのこと聞かせてもらうには…‥」
そういえば、催眠術(彼の言葉を借りれば)を使う時以外は殆ど目を合わせない。
「俺が知りたいのは…‥あんたも同じような力を持ってるのかってこと」
思い切って私の目を見たようだった。
少し怖れの見え隠れする、真剣な瞳。
(やっぱり、この瞳だ。薄茶色の瞳…‥夢の中と同じ。何故?)
「私…‥不思議な力は持ってないと思う。」
きっぱりと言うと、彼は少しがっかりしたようだった。
内心、仲間をさがしているのかもしれない。
「ただ、両親は不思議な力をもっていたのかもしれない」
彼がパッと顔を上げる。
「中一の時、死んだんだけど。不思議だった…‥。私のほしいもの、やりたいこと、全部知ってた。友達にも話したことがなかったのに、私の行きたい高校も知ってた」
私は目を伏せ、一息ついてから彼の目を見返す。
「もちろん、それだけなら普通の親の勘でも通る。でも確信したのは、二人が死んだ時なの」
言葉がすらすらと出て来る。
彼はだまって聞いている。
「死ぬ前の日、二人に呼ばれて、家の中のことも外のことも全部ここに書いてあるからって日記帳を渡された。父さんたち、旅行に行くはずだったの。だから、あたしまともに聞いてなかった。」
段々と声が高ぶってくる。止められなかった。
「自殺じゃない。土砂崩れに飲み込まれて脱出できなかった…‥自殺はありえない。日記帳を開いたら、最後のページに書いてあったの。そろそろ運命からは逃げられないようだ、私たちの娘でいてくれてありがとうって…‥どう思う?おかしいよね?」
どうして初対面の名前も知らない男性にむかって、こんな事を話してしまうのか、わからなかった。
けれどもう止まらない。
「どうして私にはわからなかったんだろう?次の日父さんたちが死んでしまうってわかってたら、もっと、もっと!!」
もっときちんと、大好きって言えたのに。事故をさけることだって、旅行を止めることだってできたはず。
手で顔をおおって、泣くことだけは我慢できた。
ふわっ、と温かい手が頭の上に乗せられた。
予想外の温かさに、ふっと息が楽になった。
「ごめん、そんな、いやなことを話してもらうつもりはなかったんだ…‥」
ごめん、ともう一度小さくつぶやく。
なでなで、なでなで。
繰り返し、頭をなでている。
なんだか犬をなでているみたいな手つきだな、と思うと肩の力がぬけた。
「ごめんなさい、もう、平気」
顔を上げると、彼の手は所在なげにひっこめられ、また、ごめん、と小さな声が聞こえた。
「…‥とにかく、私にはそんな力はないみたい。」
「そうか…‥でも、俺の力はあんたには効かなかった。」
確かめるようにつぶやくと、考え込む。
私はゆっくりと呼吸をしてぬるくなったコーヒーに口をつける。
冷めてもしっかりと香りがする。酸味が増えているのは仕方ないとしても、丁寧にいれられている。
味わいながら飲み干して、そっとカップをテーブルに置いた。
「…‥あの、私、帰ります」
感情を高ぶらせてしまったことが気恥ずかしくなって、立ち上がる。
「あ、その…‥無理に引きずりこんでごめん」
「いえ、帰らなかったのは私だから。」
「…‥ホントは、外で話そうと思ってたんだ」
突然、家に連れ込むのも警戒されると思って、と彼も少しうつむいて、立ち上がる。
「だけど、最後までさっきの親父さんと一緒だったから…‥」
そういえば、そうだった。
「あの人、私の叔父さんなの。父じゃない」
にこっと笑って玄関へ向かう。
「コーヒー、ごちそう様でした。」
玄関をでようとして、止まる。
「あの…‥」
「あのさ…‥」
同時に話しだす。奇妙な連帯感がそこにあった。
顔を見合わせ、なんだかおかしくなって、翔子は聞き返す。
「なあに?」
「いや、もう一杯コーヒー、どうかなって。ぬるくなってたから…‥」
自分でも変だと思ったのか、尻つぼみになる。
もう少し、ほんの少しだけこのままでいたいような気がする。
けれど。
「ありがとう。でも今日は帰ります。また今度」
軽く手を振って玄関をでる。
最後にちいさく会釈をする彼の姿が見えた。
この数時間の間に、何が起こったのか、ドアの両側でそれぞれに考えていた。
ありえないシチュエーション。
そもそも、二人それぞれの存在自体が世間ずれしているとはいえ、やはりおかしい。
翔子はエレベーターホールへ向かい階段を下りながら、男はテーブルのカップ2つを片付けながら。
その異常さも物語の序幕でしかないことを少しも知り得なかった。
また、闇の中に立っていた。
ここはいったい、どこなんだろう。
今度の夢は何一つ見えない。
明かりがまったくなかった。
──そう、夢だ、これは。
翔子は歩き出す。
夢なら、覚めるのだから。
繰り返しみる夢には意味があるのよ。
そう話していた母のことを思い出した。
それなら、その意味を知りたい。
歩き出すと、いつの間にか握りしめていた手の中から光が漏れていることに気付く。
そうっと開くと、宝石のような碧い石。
目の高さに掲げると、そこには平田がいた。愛美もいる。
ほっとしてもう一方の手を伸ばすと、二人とも悲しげな瞳で見返し、すぅっと遠ざかる。
(え…‥?)
一歩近づくと、さらに遠くへ。駆け寄ると、もっと遠くへ。
(待って…‥)
二人とも静かに闇の中へ去って行った。
(あなたの側にはもういられない)
愛美の聞いたこともないような静かな声が心に響いた。
(でも連れ戻すわ。必ず。)
どういうことなのだろう。連れ戻す?私を?
闇の中に一人、取り残されて茫然と立ち尽くす。
ぐにゃり、と地面がゆれた。
ずぶり、と足が沈んでゆく。逃れようとするたびにさらに沈む。
(誰か、助けて…‥)
もう腰まで沈んでいる。
手の中の宝石だけが淡く光を放っている。
この石を沈めてはいけない──。
肩まで沈んでも必死に手を高く上げる。
(もう、だめ…‥)
顎の下、口元へと泥が上がる。息ができない。
沈み方が急に速度を増して、ずぶり、と泥の中に入りこんだ。
泥の上に翔子の腕だけが高く差し上げられている。
その腕をだれかがつかんだ。
泥の上に逃れた翔子に見えたものは──。
「うあぁぁっ!!」
叫び声をあげて、起き上がった。
早鐘のようになる心臓。パジャマの胸元をつかみ、息を整えようと目を閉じる。
(あ、そうだ、夢だった…‥)
わかっていたのに、とてつもなく怖かった。髪が汗でぐっしょりと濡れている。自分の部屋だ。
確認して、大きく息を吐いた。
心臓が少し落ち着くと、よろけながらベッドを出て冷蔵庫をあける。
とにかく、水でも飲まなくては。
ペットボトルを取り出し、中の水を一気に飲む。500ccがあっという間に空になった。
「はぁぁ…‥」
ベッドへ戻り、ごろん、と横になる。一瞬、沈みこむ体。さっきの夢と重なってぞくりとしたが、そんなことがあるわけがない、と自分を落ち着かせた。
繰り返す、闇の夢。
けれど、この前とはまるで違う感じがした。
天井をみつめ、思い返す。
怖い夢を見たときは、きちんと思い返して消化しないとトラウマになる。
小さな頃はもっと怖い夢をみていた気がする。母にわからないなりに話していた。
全部話しなさい、そしたら怖くなくなるわ。
背中をなでながら話を聞いてくれた母はもういない。だから、自分で何とかしなくては。もう、大人だ。
一つ一つ思い出す。
手の中の宝石。淡い碧の光。遠ざかる平田と愛美。底なし沼。頭まで埋まった。
腕をつかんでくれたのは誰だったのだろう。
泥から出た瞬間、確かに見たと思った。けれど、思い出せない。
(あの人だったりして…‥。)
薄い茶色の瞳を思い浮かべる。
(あー、美化されてるかも…‥)
思わず笑って、起き上がる。
もう、大丈夫だ。
いつの間にか、手に父の形見のペンダントを握りしめていた。手を開くと碧い輝き。
そうだ、あの宝石はこれだ。
(父さんが助けてくれた?)
夢の中とはいえ、あの光が父だったかも知れないと思うと少し心が安らぐ。
時計をみると、六時になるところだった。
あれから──あの男に会ってから一週間がたっていた。
次の日にすることもなく、買い物にでかけて戻ると引っ越しトラックが去っていく所だった。
慌てて、なぜ慌てたのかわからないけれど、9階へ上がると、あの部屋の前で管理人が鍵を閉めた所だった。
(何だかショックだった。とにかく、ショックだった…‥馬鹿だと思うけど)
窓のカーテンを少し開けると、外の明かりが入りこんでくる。
仕事がないので、することもないのだけれど、起きてしまったものは仕方がない。大きく伸びをしてから、汗を流すためにバスルームへ向かった。
──お客様のおかけになった電話は電源がはいっていないか電波の届かない所に・・・
「どういうこと…‥?」
愛美がどうしているかと電話をかけてみたら、テープのアナウンス。
地下鉄にでも乗っているのか。
5分程待ってからかけなおしても同じだった。
夢の中で遠ざかっていった愛美の姿を思い出す。
「まさか」
今度は平田の電話にかけてみる。
──お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません・・・
今度は電話自体、止まっているようだ。
どういうことだろう。自分の携帯がおかしくなったのか。
時報にかけてみると、規則的なピッ、ピッという音が聞こえてくる。
わけがわからない。
平田の家に行ってみよう。
慌てて身支度をして家をでる。
電車に乗るよりタクシーの方が速い。
大通りで拾ったタクシーで、一時間。平田の、そして自分の住んでいた家へ向かう。郊外にあった
その家は──。
跡形もなく、長い間放置された野原になっていた。
たった、たった一週間前、心配顔の平田をなだめた。
叱られながら、タクシーで送ってもらった。
茫然と野原をみつめる翔子を、とおりすぎる住民が不審そうに見ていく。
一体何が起こっているのだろう。
ここで立ち尽くしていても仕方がない。少しふらつきながら、駅へと向かう。
人々の行きかう商店街を抜け、ようやく駅にたどり着く。
ホームに入り、据え付けのベンチに座った。
突然周囲と自分との間に分厚い壁ができたような気分だった。
誰も頼る人はいない。笑いあう人も、話す人も。
孤独、というのはこういうことをいうのか、と、冷めた考えが浮かぶ。
(オマエハヒトリダ)
そう、ひとりぼっちだ。
どこかから浮かんでくる声にうなずく。
(オマエガシンデモカマワナイ)
そうだ、私が死んでも誰も悲しまないんだ…‥。
(シンデシマエバイイ)
ふらり、とベンチから立ち上がる。
電車が近づくベルが鳴っている。
あと、一歩、前へ。
そう、あと、一歩前へ出れば。
「何やってんだよ!」
腕をつかまれ、強く後ろへ引き戻される。
快速だったようで、とおり過ぎていく電車が起こす風に髪がひどく乱された。
鈍い動きで自分の腕をつかんだ人を見上げ、ハッとする。
──ああ、この手だ。
泥の中から救い出してくれた手。
薄い茶色の瞳。
これも夢なのだろうか。
ぼうっと見上げる翔子に、彼の顔が不安そうに曇る。
「とにかく、行こう」
引きずるようにして翔子を連れて、彼は改札を出た。
翔子の腕をつかんだまま、ずんずんと歩いてゆく。
広い公園のベンチに座らせると、途中で買った冷たい缶コーヒーを翔子の頬にあてた。
「ひゃぁっ」
「正気にもどった?」
「……うん」
翔子がうなずくと、ほっとしたように彼は息をついた。
「ったく、何考えてんだか、死ぬところだったんだぞ?」
「死ぬ?」
「あんた、電車に飛び込もうとしてただろ」
「へっ?」
「へ、じゃない!快速が近づいてくるっていうのに、あんた、ホームの端へむかって歩いてたぞ」
怒っている。
「ったく、ふらふら歩いてるとおもったら…‥」
自分から死のうとするなんていかれてるだの、命は大事にしろだの、やたら爺くさいことをぶつぶつと言っている。
「あんた、って呼ばないで。ちゃんと翔子って名前があるんだから!」
何だか腹がたってそういうと、彼が一瞬だまって、ぽつりと言った。
「…‥名前、今初めて聞いた。」
そういえば名前をいっていなかった。
「そういえば私もあなたの名前、聞いてない」
「…‥。」
改めて気づく、二人の関係。
強盗と被害者。
名乗る強盗がいなければ、その強盗に名乗る被害者もいない。
名前は必要のない関係性だった筈。
だけど、知りたい。
翔子は、黙って辺りを見回す彼の横顔を見上げる。
「…‥寒いな」
ダッフルコートの襟を引き寄せて彼がつぶやく。
「俺…‥帰る。あんたも落ち着いたみたいだし」
くるり、と背を向けて歩き出そうとする。
「ずるい!」
翔子の大きな声に、びくっ、とした。
「何でそうなるんだよ!」
「助けといてまた放り出すの?ずるいよ。なら放っておいてくれればよかったのに。」
おぼれてつかんだものは藁だったのだろうか。
何かにすがっていないとおかしくなりそうだった。
それが例え強盗の彼だとしても。
「じゃあ、どうしろっていうんだよ、死ぬの見てろっていうのか?」
顔をちかづけて、小声で続ける。
「それに、俺は犯罪者なんだよ!」
「じゃあなんでここにいるの?!なんであの駅にいたの?!なんで部屋に連れこ──」
最後の言葉は慌てて口をふさいだ彼の手に阻まれる。
「やめてくれよ、目立つ!」
「もごもご」
離してといった声はくぐもって言葉にならない。
「でかい声はやめてくれ…‥。」
翔子がうなずくと彼は手を離した。
「とにかく、俺は帰る。これ以上注目されちゃまずいんだ」
行ってしまう。待って。
声に出すより先に歩き出そうとした彼のコートの裾をつかんでいた。
「置いて行かないで」
立ち上がって腕にしがみついた。
「一人は嫌なの…‥今は」
一人にしないで。お願いだから。
崖っぷちにしがみついて風が吹いても足元をすくわれてしまいそうな不安。
「あなたにこんなこと言うなんて、おかしいってわかってる。でも、一人になりたくないの……。」
深いため息が聞こえて、彼は翔子の頭をなでる。
顔をあげると、一瞬だけ目が合い、そらされた。
「ずるいのはどっちだよ……まったく。」
翔子がしがみついている腕をそっと離し、その手を引っ張って歩き出した。
冷たい風が道の上でくるくると枯葉を躍らせてゆく。
優しかった、一瞬の眼差しをたよりに背中に問いかける。
(…‥一人にしないでくれるの?喜んでいいの?)
一歩ごとに顔を伺うけれど、その横顔からは何も読めない。
公園を出て、駅前へと向かって歩いていく。
一言も話さないけれど、つないだ手は離さない。
商店街は夕暮れの買い物客やお菓子を買いに駄菓子屋に群がる子供たちでにぎやかだ。
もうすぐ日が暮れる。
何となく落ち着いて、彼の顔を見上げなくなっていた。
車の騒音がひっきりなしに聞こえてくる。大通りが近いようだ。
「…‥や」
ぽつり、と彼がつぶやいた。
「え?何?何ていったの?」
「タクヤ。俺の名前。開拓の拓にかな。」
哉、と空中に字をつづった。
「拓哉さん、かぁ…‥」
翔子はこそばゆい感じがして笑う。
「ありがとう、名前、教えてくれて」
ちらりと、こちらを見た拓哉は、また前を向く。
大通りに出て信号を渡ると、小さなマンションの前で止まった。
「俺の家、ここなんだ。」
5階建てのマンションらしい。入口の郵便ポストは広告だらけで、はみ出している。
翔子のマンションとは違って、オートロックドアはない。
古いものなのかエレベーターもなく、打ちっぱなしの階段を上がっていく。
ポケットから鍵を出しながら翔子の手を離すと、2階の奥の部屋を開けた。
少しさみしくなった手を見つめてから、後に続いてゆく。
「入って、いいの?」
「…‥どうぞ。あのまま外にいたら風邪ひく。」
「うん」
緊張気味に靴を脱ぎ、部屋の中へ入ると予想外に殺風景だった。
小さな台所に食卓。6畳の和室。隅にロフト式のパイプベッドがあるのはスペース確保の為だろうか。あとはパソコンの乗ったデスクが一つ。
(上の部屋と随分違う…‥)
あっちの方が生活感があったかも知れない。
「…‥あの部屋は仮住まいだったんだ」
拓哉は少し拗ねたように、コートを脱ぎ、ベッドの横のコート掛けに無造作に乗せた。
「ごめんなさい、わかっちゃった…‥」
肩をすくめて、翔子もコートを脱いだ。
「あまりにも違いすぎるからな。下調べの為に提供された部屋だよ」
「…‥ふうん。」
小さなキッチンへ向かうと、拓哉は電気ポットで湯を沸かし始める。
「コーヒー入れるから、その辺に座ってて。」
「はい」
返事はしたものの、どこに座ったものか。
机の前の椅子か、入口の壁ぎわか。
コートを抱えたまま少し考えてから、翔子は窓際の床に腰を下ろした。
いい香りがする。あの時と同じコーヒーの香り。
一人じゃない安らぎを感じながら、外のベランダ越しに見える夕焼けに目を向けた。
全く、自分の行動を疑う。
拓哉は手回しの豆挽きをくるくると回しながらため息をつく。
駅前への道で翔子を見かけた時に感じたのは歓喜だった。
もう一度会えるとは思っていなかったけれど、町を歩くたびに目の端で探していた。
それがどこの町であろうと。
今ならわかる。
そして怯え。喜んでしまった自分が転がり込んでいくであろう世界は身の破滅を招きかねない世界の筈だった。
被害者である彼女に近づくことは決して犯してはならないミスだ。
今回の依頼主からは決して警察の捜査の手が及ばないことを約束されてはいた。もちろん、どういう方法をとるのかまでは聞かない。
けれど、それは自分がミスをしないことが前提だ。
そもそも、彼女が催眠術にかからなかった理由を確かめたいと思ったことからして間違っていた。
あの仕事から、俺はどうかしている。
「…‥いや、彼女に会ってから、だな」
思わず口にだしてしまってハッとする。そっと振り返ると気付いた様子はない。
穏やかな顔で夕焼けを見ている。
フィルターに挽いた豆をいれてゆっくりと湯をそそぎ始める。
駅前で見かけた翔子をつけてしまった。その上、飛び込みそうになる彼女を助けてしまった。
それがあの時の自分には当然のことだった。
好きになった?一目ぼれ?そんな一言では片付けられないこの感情はなんだろう。
初めて話した日にも、感じた。
守りたい…‥?
ロマンチストになるつもりはさらさらないが、形容しがたい感情に揺れる自分に呆れ果てるばかりだった。
カップにコーヒーを注ぎ、両手にもって窓際へ向かう。
俺は何をするつもりなんだろう。
彼女を家へ連れてきて、抱きしめようとでもいうんだろうか。
彼女が一人になりたくないと言い出したから?
あれ以上外にいては風邪をひくから?
どちらも言い訳でしかない。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
カップを受け取ると、手で包み込み、そっと口をつける。
拓哉はパソコンデスクの椅子に座り、コーヒーをデスクの奥に置いた。
「…‥なんで一人になりたくなかったんだ?」
自殺しかけた人間に投げる質問ではないかもしれない。
ただ、何か理由があるような気がしたのだ。
翔子は手の中のカップを見つめている。
「オーナーと連絡がとれなくなったの。叔父さんとも。電源がはいってないって。もちろん、それだけならたまたまかもしれない。でも、何だか嫌な予感がして、叔父さんの家…‥私も高校卒業まで住んでた家へいったの。…‥跡形もなかった。ただの売地だった。」
淡々と話を続ける。
「…‥何がおこったのか、わからなくなった。でも、私、一人ぼっちなんだってことだけはわかった。そしたら、声がきこえたの」
「声?」
「うん、…‥シンデシマエバイイって。」
「…‥で、電車に飛び込もうとしたのか」
あきれた。そんな声だけで死のうとしたのか。
「バカだよね…‥。自分でもそう思う。でも、あの時はその声の通りだと思った…‥」
翔子は考え、考え、話している。
これ以上責めるのも酷な話かもしれない。
頼りにしていた人がいなくなるのは確かにショックなことだが、それで一人ぼっちと思い込むのは少し行き過ぎているように思えた。
「…‥今朝、夢をみたの。叔父さんとオーナーが遠ざかっていく夢。」
顔をあげて、拓哉を見た。
「あなたの側にはいられない…‥そういってた。いくら追いかけても遠ざかるばっかりで、消えちゃったの」
正夢なら経験がある。確かにひどく不安になるものだが。
「…‥でも、もう大丈夫。自殺したりしないから。ごめんなさい、無理言って」
無理に笑ってみせると、コーヒーを飲んだ。
それでも、話して少し気が済んだようで、さっきよりはましな顔つきになっている。
「電気、つけるよ」
立ち上がって壁のスイッチをいれると、翔子の顔がはっきり見えた。
(え?)
一瞬、二重写しに、銀髪の少女の姿が見えた。
まばたきすると、消えてしまった。
(俺までおかしくなったのか?)
「…‥飯にしよう。腹が減っては戦もできぬ」
空腹だから、妙なことになるのだ。
立ち上がって台所へ向かう。
「ご飯?食べにいくの?」
飲み終わったカップをもって翔子がついてきた。
「作るんだよ」
「だれが?」
「俺が」
きょとん、として拓哉を見上げる。
「おかしいか?」
これでも一人暮らしは長いので多少のものは作れるのだ。でなければ、食費がかさんで仕方ないし、何より外食は飽きる。
「うん、予想外かも」
翔子の返事にむっとする。
「悪かったな」
むっとしながらも、くすくすと笑っている翔子に安心する。
「ま、食べてけよ。それなりに食えると思うから」
「…‥いいの?ごちそうになって」
冷蔵庫から食材を出し、腕まくりをする。
「カップ、洗ってくれれば」
「はい!」
にこっと笑って返事をすると袖を上げて洗い出す。
その姿を見て、かわいいなと思ってしまった自分に不安になった。
こんなに普通に過ごしていいんだろうか。
翔子の上の部屋を引き払うのは最初からの契約だった。
だからこそ、確かめようとした。
あの時でなければそんな機会はこないと思った。
けれど、また会えたのはどういうめぐりあわせなのだろう。
「後はあっちで座ってて。できたら呼ぶよ」
翔子はこくりとうなずいてからさっきの場所に戻っていった。
その髪がまた、銀色に輝いて、拓哉は眉をひそめた。
「ごちそうさまでした。おいしかったぁ!」
「お粗末様でした」
お互いに頭を下げる。
料理を始めたあたりから拓哉が時折笑ってくれるようになった。
その度にうれしくなり、翔子は幸せな気分になる。
「後片付けしたら、帰ります。」
もう、9時になる。いまから帰っても11時だ。家の近くはさほど治安は悪くないがさすがに12時を過ぎると人気もなくなって危ない。
「送ってくよ。」
「終電なくなっちゃうし、悪いからいいよ。」
ほぼ初対面の男性にそこまで求めては申し訳ない。
「…‥じゃあ、駅まで。」
「うん…‥ありがとう」
本当はあなたとずっといたいけど。
強盗でも、構わない。なんだろうと、関係ない。
好きになってしまったから。
どうしたらいいのかわからなかった。
拓哉が距離を置こうとしているのはわかっても、一緒にいたいという想いは強くなっていくばかりだ。
片づけを終えて、コートを着る。
荷物を持つ。
靴を履く。
一つ一つ動作を進める度に、振り向いて投げ捨ててしまう自分が思い浮かぶ。
二人で玄関を出る。
鍵をかける拓哉の横顔をみつめる。
「…‥何?」
問われて、首を振る。
もう、手はつながない。
こちらから手を伸ばす勇気はなかった。
駅への道を歩き始める。
20分くらいはあるだろうか。
「…‥寒いな」
ぽつり、と拓哉がつぶやいた。
「うん、手が冷たい」
はぁっと手に息を吹きかけてこする。
「手袋、もってないの?」
訊きながら、自分のであろう手袋を差し出した。
「うん、すぐに邪魔になっちゃうし、失くすから。いいよ、寒いでしょ?」
どうぞ、いらない、と押し問答を数回して、二人ともくすっと笑う。
拓哉が、じゃあ、と差し出したのは手袋の片方。
きょとん、としていると持っていた片方を左手にはめて翔子の左手をとり、コートのポケットにいれた。
慌てて一度手を出し、右手袋をはめると、拓哉はもう一度手を差し出した。
ポケットの中でつなぐ手が温かい。
「こんなことするの、高校の時以来だよ」
苦笑いしている。
「私も…‥何か、恋人同士みたい」
言葉にして、自分でもドキリとする。
拓哉が歩みを止めた。
(言わなきゃよかった…‥。)
一瞬にして、後悔して、ぎゅっと目を閉じてしまう。
「…‥駅まで、恋人ってのも、いいかもな」
目を開けると、拓哉は笑っている。
「うん。」
翔子も笑って一緒に歩き出す。
楽しい。何を話すわけでもなく、ただ歩くだけで心が暖かくなっていった。
(でも…‥駅までだね。)
このひと時の終わりはそこに見えていた。
駅まで、恋人──。
気障なことを言ってしまった。
ふざけるにしても顔が赤くなりそうだ。
けれど、自分でも終わりをそこに設定しないと踏ん切りがつかなくなりそうだった。
今、抱きしめてしまおうかなどと不穏な考えがよぎる。
まったく今まで上手くやってきたのに、ここへきてフイにする気なのだろうか。
この角を曲がれば駅の明かりが見える。
郊外の夜は早い。この商店街でさえ、ポツポツと開いている居酒屋とコンビニ以外は閉まっていて、夕方の三分の一程度だろうか。
ゆっくりと歩いてゆく。
あと30メートル。
もう会うべきじゃない。
あと10メートル。
「待って。」
翔子が引っ張るようにして止まった。
振り向くと、真剣な顔で見つめてくる。
「…‥今日はありがとう。助けてもらわなかったら私、ここにいなかったんだよね」
「いや、いろいろきつく言っちゃって、ごめん。最初、随分なこと言った。」
今更だが、思い返すと結構なことを言っていた、と思う。
翔子は照れた笑顔をみせる。
「怒られて当たり前だよね。」
と、その笑顔に涙がぽろりと流れた。
ぎゅっと心臓をつかまれたような気がした。
「ごめんね、ほんとにありがとう。一人だったら耐えられなかったの。誰かに聞いてほしかった…‥でも誰もいなくて、あなたしかいなくて。」
抱き締めていた。
腕をのばして、その弱さを包みこんでやりたくて。
「もういい」
「うん、でも、これだけはいっとかなくちゃ。…‥だって、駅までだもの。」
また、ドキリとさせられる。
自分の言い出した終わりだけれど、それでも切ないのには変わりない。
そっと頭をなでる。
ただ、愛しい。
この先へ進んでもお互いの身の破滅だということはわかっていた。
それでも。
そっとキスをした。
唇を離して見つめあい、ゆっくりと体を離した。
一瞬の熱が風にさらわれてゆく。
「ありがとう。…‥さよなら」
微笑んだ顔に、また銀髪の彼女がかさなる。
今度は瞬きをしても消えない。
(何なんだ…‥?)
何も言えずにいると、改札へ向かって駆け出していく。
銀の髪が街灯の光に映えて煌めく。
改札を抜けてホームへ行く前にもう一度振り向いて大きく手を振った。
「…‥?」
ざわり、と彼女のまわりの地面が波打つ。
「何だ?」
黒いそれは、段々盛り上がり、いくつかの人の形を成してゆく。
瞬間、走り出していた。
何か危険なもの──直感が警鐘を鳴らしていた。
駄目だ、アレにつかまってはいけない。
改札は無視して走り抜け、翔子を追う。向こう側のホームへいくための跨線橋の窓にその姿が見える。階段を駆け上がると、ちょうど向こうの階段を降りようとするところだった。
「翔子!!」
はっとして、振り向いたその顔が黒い影を見て凍りつく。
「逃げろ!!」
叫んだが遅く、黒い影に腕を捕らわれ、その影に覆われてゆく。
翔子の手がこちらへ差し出される。
走り続ける自分の手が届く。
間一髪で引き上げた。
瞬間、階段へとバランスを崩した。
翔子をかばおうと抱き寄せる腕の動きがひどくゆっくりに感じられ、その向こうから人型の影が形を崩し、二人を包みこんでゆく。
──後は、闇。




