049 まるで別人
彼が入学してから、連絡があったのは一回だけだった。
今日、転法輪融がこの家へ帰って来る。
本来ならば、次期当主を使用人全員で出迎えるところだけれど、そんな危険を部下に負わせることは穂積にはできなかった。
一人で対応した。
笑顔で近寄ってきた時は、思わず泣き叫びそうになった。
自分の部屋が何処にあるかという質問をしてくる。
穂積の頭の中にあの番号が浮かんできた。命令を守っているのか、と遠回しに確かめているつもりなのだろう。
融は一人でエレベーターに乗って、自分の部屋へと登っていく。
これで一安心だと穂積は考えていた。融はあの部屋に入ると、ずっと出てこない。
この夏季休暇中も、部屋にこもりっきりのはずだった。
穂積がほかの仕事をし始めた時のことだった。
若いメイドの一人が、あの融が部屋から出てきたと言うではないか。
真っ青な顔をして震えが止まらない彼女を、医務室へ連れて行くように部下に指示した。
穂積も怖いのだ。先ほどのメイドと年はほとんど違わない。
それでも、彼女は逃げるわけにはいかなかった。
本来いるはずの無い階の部屋に、融が立っていた。
声をかけると、舐めまわす様な眼で穂積のことを観察している。
彼女の精いっぱいの勇気は鍍金でしかない。震えを抑えきれなかった。
自分の人生に別れを告げていたのに、命令を聞いて拍子抜けした。
彼女の知っている融という人物は、こんなことを決して命令しないはずだ。
騙されているのではないか。疑いの気持ちをぬぐい切れず、何度も確認した。
あの忌まわしい部屋を無くすことができるのだ。
夢であったのなら覚めないで欲しい。命令を受けて穂積はそう思っていた。
あの日から、すべてが変わった。
転法輪融が、ビルの中を歩き回るようになった。
ビル内部の地図と、使用人のデータの提出を命令された日の夜は、いつ惨劇の幕が開くのかと思って、恐怖で眠れなかった。
いつもと同じように朝がやって来て、やっと安心できた。
弟の衣寅の面倒をみるようにもなった。
メイドから衣寅が殺されたと報告を受けた時には、やはり恐れていた事態が起きた、ついにこの時が来てしまった、なぜあの時止められなかったのだという後悔が、準備万端でわき上がってきたというのに、結局それは誤報だった。
それまで、弟との交流が全くなかったはずなのに、融の対応は子供に対する慣れを感じさせる。
幼い子供をただ甘やかすだけではなく、決まりを守り、自ら考えることを教えている。なにより兄としての愛情が見ている第三者にも伝わって来た。
あれはもう悪魔では無い、天使になったのだ。
そう言いだす者が現れた時は、穂積はそいつの正気を疑った。
騙されるな!油断するな!
彼女の心には深く爪痕が残されている。
あの悪魔がそう簡単に変わるはず無いのだ。
平和が続いたある日のこと。
突然、融が町へ買い物に出かけると言いだした。
やはりそうだった。あれは嵐の前に過ぎなかったのだ。
心理学の実用書、いじめ事件の詳細記事、画像付きの拷問尋問の歴史データ。ペットのしつけ本に、首輪。トレーニング用の腕や足に着ける重り。
自動車の席の向かい側に座る子供は、無邪気な笑顔を浮かべている。
穂積は、それらアイテムの使用方法を推測して、絶望する。
動物を飼っていないのに、首輪でいったい何するつもりだ!




