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神託少女は今日もテキトーを言う  作者: 絹田屋


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番外編4 嵐の日に会った人のこと


 住処が崩れた日のことは、忘れない。


 朝、山鳴りがした。地が揺れた。崖がせり出していた岩場が割れて、一族の集落の半分が谷底へ落ちた。死者は出なかったが、家が消えた。鍛冶場が消えた。冬を越すための蓄えが消えた。


 一族は百と少し。山の民だ。雷とともに生き、雷とともに移る。人里には降りない。降りる理由がなかった。


 しかし、もう理由がなかった。


 長が言った。「南の国に庇護を求めよ」と。


 正規の外交では間に合わない。冬が来る。雪が降れば、山を降りることもできなくなる。一族の鍛冶師は優れた技を持っているが、技があっても凍えれば終わりだ。


 私が選ばれた。


 雷とともに降る技を持つ者は、一族の中でも限られている。私は、その一人だった。



 雷に乗るというのは、正確ではない。


 雷の通り道を読み、その軌道に己の身を合わせる。雷が落ちる先に、先に到着する。外から見れば「雷とともに現れた」ように見えるが、実際には「雷より一瞬早く着く」という技だ。


 危険がないわけではない。目標の場所を誤れば、地面にたどり着けずに空中で散る。知らない土地への降下は、賭けに近い。


 しかし、賭けるしかなかった。


 南の国の城を目指した。嵐の日を待った。嵐がなければ、雷に乗れない。三日待った。


 三日目の夕方を過ぎ、嵐が来た。



 最も良い雷を狙い、それに乗り、落ちた。


 城の庭の大木の根元に、着地した。轟音。衝撃。視界が白く焼けて、一瞬何も見えなかった。


 視界が戻った。


 雨が打ちつけていた。かなり広い庭だった。石畳の広い庭。城の建物が周囲にある。回廊の下に人影がいくつも見えた。


 そして——


 目の前に、人が立っていた。


 女だった。若い。背はそれほど高くない。黒い髪が長く、腰を越えて、雨に少し濡れていた。白い肌。傘を差していた。


 もう一本の傘を、こちらに向けて差し出していた。


「濡れるわ。これをお使いになって」


 私は、理解ができなかった。


 雷とともに現れた異形の者に、最初にかけられた言葉が——「濡れるわ」だった。


 怯えていない。驚いてもいない。まるで、最初から待っていたかのように立っている。この嵐の中、庭の真ん中で、傘を二本用意して。


 片手には、螺鈿を敷き詰めた箱を抱えていた。


 傘を、受け取った。ただそれだけのことだ。しかし、この一瞬で、この女が敵ではないことがわかった。


 雨が、止んだ——もちろん正確には止んだのではない。傘が雨を遮っただけだ。しかし、その瞬間、息ができた。嵐の中で初めて、深く息ができた。一族の命が間に合わないという最中に張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。 


 そのおかげで、迷うことなく救援が出せそうだと思えた。



 簡潔に話した。

 山が崩れたこと。一族の住処が消えたこと。百と少しの民が行き場を失っていること。冬が来ること。正規の外交では間に合わないこと。だから、雷に乗って直接来たこと。


 女は黙って聞いていた。


 雨に打たれている。従者と思しき者が傘を差してはいるが、風が強く、黒い髪が顔に張りついている。しかし、動かない。微動だにしない。嵐の中に一本の杭のように立って、私の話を聞いている。


 話し終えた。

 女が、手元の螺鈿の箱を差し出した。


「そう。事情はわかったわ。……わたしが今あなたにお貸しできるのは、こけおどしのようなものだけ」


 箱を開けた。中に、孔雀の羽があった。虹色に光る、美しい羽。雨の暗い光の中で、それだけが鮮やかだった。


「でもあなたならば、上手く扱えるはずよ」


 こけおどし。

 この女は、自分が差し出すものを「こけおどし」と呼んだ。


 しかし、私にはわかった。この箱はおそらく宮廷の祭具だ。螺鈿の細工の精緻さ、孔雀の羽の保存状態。比類なき美しさを湛えるこれは、名のある人間が持つものだ。


「まじないの道具として宮廷に伝わるもの。あなたがこれを持って陛下に謁見すれば、わたしからの紹介だと伝わるわ。あとは、あなたの言葉次第」


 私に任せる、と言っている。力を貸すが、決めるのはあなただ、と。

 頭を下げた。深く。


「……感謝いたします」


 顔を上げたとき、女が小さく頷いた。

 雨が弱くなっていた。



 陛下に謁見したのは、その日の夕刻だった。


 螺鈿の箱を持って行った。門番が箱を見た瞬間、顔色が変わった。「見黒様の祭具」と呟いた。通された。あの女はやはり名のある者だったようだ。神託少女と呼ばれる、国へ神託をもたらす伝説の存在だという。


 あれが……。ならば、この羽根を授けたのも神託によるものなのだろう。


 陛下は穏やかな方だった。話を聞いてくださった。一族の窮状を伝え、孔雀の羽を見せた。陛下は一瞬だけ目を細めて、それから部下に「よきに計らえ」と仰った。


 それだけだった。


 翌月、一族は南の国の山岳地帯に受け入れられた。住む場所が与えられた。鍛冶場を建てることが許された。冬は越せた。


 私は一族の者たちに、あの日のことを話した。


 嵐の庭に立っていた女のこと。傘を差し出されたこと。「こけおどし」と呼んだ箱のこと。


 長が聞いた。


「その女は、お前が来ることを知っていたのか」

「わかりません。しかし、傘を二本持っておられました」


 長が黙った。


「……雷とともに来る者のために、もう一本の傘を用意していた、と」

「はい」


 長が顔を上げた。


「その者の名は」

「見黒様、と呼ばれていました。黒い髪の、神託者だと」


 長が、しばらく考えていた。「そうか」「言い伝えによる」「なればこそ」など、いくつか独り言を紡ぎ、それからこう言った。


「その方に、いずれ一族の礼を届けねばならぬ」



 一族が山に落ち着いてから、鍛冶場が動き始めた。


 南の国の鉄は悪くなかったが、私たちの技で打てばさらに良くなった。城下に鉄を納めるようになった。評判が広がった。


 城下の者たちが、私たちのことを「雷鳥の鍛冶」と呼ぶようになった。


 あの日から二年が経った。

 私は城を訪れた。あの女に礼を言うために。


 案内された部屋で、あの女は窓辺に座って本を読んでいた。黒い髪がさらに長くなっていた。


「あら。お元気?」


 あの嵐の日と同じ声だった。穏やかで、何も構えていない声。


「おかげさまで。一族は、この国で穏やかに暮らしております」


 あの女が本を閉じた。


「聞いているわ。鍛冶の腕がいいそうね。みんな喜んでいるわ」


 頭を下げた。


「それは、あなたのおかげです」


 少し間があった。


「わたしは傘を差し出しただけよ」


 違う、と思った。


 あの嵐の庭で、雷とともに現れた異形の私に、最初にかけられた言葉が「濡れるわ」だった。あの一言で、私は息ができた。


 傘を差し出しただけ。そう仰る。しかし、あの嵐の中で傘を差し出せる人間が、どれほどいるだろうか。たとえ神託を授かったとして、雷とともに現れた見知らぬ者に、怯えもせず、構えもせず、ただ「濡れるわ」と言える人間が。


 この方は、そういう方なのだ。


 私が来ることを知っていたのか、それとも知らなかったのか。今でもわからない。しかし、どちらであっても、あの傘の意味は変わらない。


 一族の間では、あの女の話は今でも語られている。


「嵐の日に、庭に立っていた女がいた。雷を恐れず、傘を差し出し、貴重なまじないの羽根一つで一族を救った」


 若い者たちは、半分は伝説だと思っている。

 私は知っている。全て本当だ。


 あの女は——大いなる力などは無いのではないか。そう思わせるくらいに、貧弱そうな存在に見える。

 しかし神託の力がないのならば、なぜ、嵐の日にあそこに居たのか。その説明は付かないが……。


 ただの人間だとしても、嵐の中に立っていた。それだけのことが、一族の命と私の心を救ったのだ。それだけで、神託少女足り得る逸話であることは、真実だろう。

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