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神託少女は今日もテキトーを言う  作者: 絹田屋


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第三十三話 夜、ひそやかなる神託(テキトー)


 その夜のことは、わたくしの日誌に記されているが、長く、誰にも話さなかった。


 話せなかったのだ。



 夜半だった。

 わたくしは書庫の整理を終えて、自室に戻る途中だった。


 渡り廊下を歩いていると、池の方から声が聞こえた。

 見黒様の声だった。


 こんな時間に、一体?足を止めた。


 池のほとりに、見黒様が立っておられた。


 月が出ていた。満月に近い月だった。池の水面に月が映り、その光の中に、見黒様の黒い髪が流れていた。腰を越えた長い黒髪が、夜風にわずかに揺れていた。


 見黒様は、水面を見つめておられた。

 そして——語りかけておられた。


「汝、水底に眠る者よ。我が声は届いているかしら」


 わたくしは息を止めた。

 見黒様の声は、いつもの声と違った。低く、静かで、それでいて遠くまで通る声だった。


「この水面に映るものは、真か虚か。……答えなくていいわ。どちらでも、わたしはここに立っている」


 月の光が水面に揺れた。見黒様の影が、水面の上で揺らいだ。黒い髪と白い肌が月光に照らされて、まるで——


 まるで、本当に水の神と対話をしているように見えた。


「世界は鏡のようなもの。映すものがあれば、映されるものがある。わたしが映すのか。わたしが映されるのか。それはきっと、どちらでもいいのよ」


 見黒様が水面に手を伸ばされた。指先が水に触れた。波紋が広がった。


 ——そのとき、わたくしは見た。


 波紋の中に、淡い光の筋が走った。水面にうっすらと、紋様のようなものが浮かび上がった。見黒様の指先を中心に、波紋に沿って広がり、月の光よりも青白く、一瞬だけ……そして、消えた。


「ただ——わたしはわたしの言葉を持っている。それだけで十分」


 風が吹いた。

 黒い髪が大きく揺れた。月の光がその髪を銀に染めた。


 見黒様が微笑まれた。水面に向かって。自分自身に向かって。


「おやすみなさい。明日もいい日になるわ」


 それだけ仰って、踵を返された。


 わたくしは柱の影に隠れていた。見黒様はわたくしに気づかず、部屋の方へ戻っていかれた。否、気づいていたかもしれないけれど、大したことではないと思われたのかもしれない。


 わたくしはしばらく動けなかった。

 あれは何だったのか。

 神託だったのか。水鏡を通じた何か——超越的なものとの対話だったのか。


 わたくしにはわからなかった。


 あの紋様のことも。指先が水に触れたとき、波紋の中に浮かんだ淡い光。あれが何だったのか。


 見黒様の力はますます強くなっているのかもしれない。


 わかったのは、一つだけだった。


 月の下、水面に向かって語りかける見黒様の姿は、わたくしがこの七年間で見たどの姿よりも美しかった。


 日誌に書いた。しかし、この日の記述だけは、日誌の中に挟み込んだ別の紙に書いた。


「深夜、池のほとりにて。見黒様が水面に向かって語りかけておられるのを見た。月明かりの中、水面に映るご自身と対話をされていた。その言葉は、神託のようであり、詩のようであり、しかしそのどちらでもないような——ただ、見黒様そのものであるような言葉だった。わたくしは、見黒様のあの姿を一生忘れないだろう。あの方が何者であるかを、わたくしはまだ知らない。七年経っても、わからない。しかし、あの方が美しいことだけは、確かだ」


 紋様のことは、書かなかった。あれは、わたくしだけのものだ。


-----


 夜中に目が覚めた。


(……眠れない。本を読みすぎたかしら。頭が冴えちゃってる)


 窓の外を見た。月が出ていた。明るい夜だった。


(池、行こうかな。夜の池って前世でも好きだった。月が映ると綺麗なのよね)


 部屋を出た。廊下は静かだった。誰もいない。

 池のほとりに立った。

 月が水面に映っていた。


(……おお、綺麗)


 風がなかった。水面が鏡のように凪いでいた。月と、星と、それからわたしの顔が映っていた。


 黒い髪が垂れて、水面にかかった。


(もうすぐ十九歳のわたし。もう七年もこの宮廷にいるのか。物心ついたとき、鏡の前で「めちゃくちゃ美幼女じゃん!」って思ったのが最初だった。あの頃から変わってないな〜。……いや、変わった。髪がもっと伸びた。顔は少し大人になった。でも中身はマジ変わってない)


 ……前世の漫画のセリフ、まだ覚えてるかな。

 少し試してみたくなった。夜中だし、誰もいないし。


 水面に向かって、声を出した。


「汝、水底に眠る者よ。我が声は届いているかしら」


 うわ、声が響く。夜の池、反響がいいわ。前世のカラオケボックスみたい……!


(もうちょっとやろう)

「この水面に映るものは、真か虚か。……答えなくていいわ。どちらでも、わたしはここに立っている」


 いい。いいわ。この台詞、前世の漫画の魔女キャラの独白だったかな。うろ覚えだけど、ニュアンスはこんな感じ。水辺で月を見ながら言う台詞としては完璧よ。


(……ロケーションが良すぎるのよね。月明かり、水面、黒髪。前世のコスプレ撮影でこのシチュエーションだったら、カメラマンが泣いて喜ぶやつ)


 もう一つ。


「世界は鏡のようなもの。映すものがあれば、映されるものがある。わたしが映すのか。わたしが映されるのか。それはきっと、どちらでもいいのよ」


(これは前世のオリジナル。悪くない。厨二ポエムとしてはなかなかの出来だと思う)


 水面に手を伸ばしてみた。指先が水に触れた。波紋が広がった。月が揺れた。


(……あ。きれい。波紋の中に月が崩れて、また戻る。これ、何回やっても飽きないわ)


「ただ——わたしはわたしの言葉を持っている。それだけで十分」


(……テキトーで、思いつきで、そのときの気分で。でも、わたしの言葉だ)


 風が吹いた。髪が揺れた。


(寒くなってきた。戻ろう)


 最後に、水面の自分に向かって言った。


「おやすみなさい。明日もいい日になるわ」


(前世のお母さんが毎晩言ってた言葉。こっちのお母様も、離れに来るたびに帰り際に言ってくれた。「明日もいい日になるわ」。おまじないみたいなもの。効果はないけど、言うと少し安心する)


 部屋に戻った。

 布団に入った。


(……今夜のわたし、なかなか良かったと思う。月と池と黒髪。最高のシチュエーション。誰も見てないのがもったいないくらい)


 まあ、見てないからいいのよ。ごっこ遊びは一人でやるから楽しいの。


 大満足で目を閉じた。


 明日もいい日になる。

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