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神託少女は今日もテキトーを言う  作者: 絹田屋


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第三十二話 コレクション・杞憂マップ


 きっかけは、西の橋が落ちたことだった。


 秋の大雨が三日続いた後、西方の街道に架かる橋が崩落した。幸い、夜間だったため通行人はいなかったが、街道が寸断され、物流に大きな支障が出た。


 グレン殿が対応に追われていた。復旧の手配、迂回路の確保、被害の報告。


 見黒様にも報告が上がった。


「西の橋が落ちました。大雨による増水で、橋脚が持たなかったようです」


 見黒様が少し考えておられた。


「グレン。あの橋のこと、前に聞いたことがあるわ」


 グレン殿が怪訝な顔をした。


「前に、でございますか」


 見黒様が棚の方を見られた。


「ええ。民衆の杞憂の中に。……エル、あの帳面を持ってきてくれる?」


 わたくしは見黒様の書棚から、杞憂を書き留めた帳面を持ってきた。見黒様が杞憂の聴取を始めてから数年、帳面は六冊に増えていた。


 見黒様が二冊目をめくられた。


「ここ。三年前。西の街道沿いの荷馬車引きが言っていたわ。『あの橋、雨のたびに揺れるんです。いつか落ちるんじゃないかって』」


 グレン殿の顔が変わった。


「……三年前に、すでに」

「ええ。それと——」


 見黒様が別の頁を開かれた。


「こっちは二年前。同じ地域の農夫。『川の流れが変わってきている。昔より水かさが増す時期が早い』と」


 グレン殿が帳面を覗き込んだ。


「見黒様。この帳面を、全て拝見してもよろしいでしょうか」

「ええ。もちろん」



 グレン殿が六冊の帳面を持ち帰った。

 三日後、グレン殿が青い顔で戻ってきた。


「見黒様。お時間をいただけますか」

「どうぞ」


 グレン殿が、大きな地図を広げた。この国の全土を描いた地図だった。その上に、小さな印がいくつも書き込まれていた。


「杞憂の帳面に記されていた不安を、地図上に落とし込みました」


 見黒様が地図を覗き込まれた。


 グレン殿が指で一つ一つ示しながら読み上げた。西の街道では橋が落ちそうだという声。北東の河川沿いでは川が溢れるかもしれないという不安。南の山間部では崖崩れへの恐れ。東の農村では井戸の水が濁ってきたという報告。北西の丘陵では林が枯れて土砂が流れやすくなったという訴え。


 グレン殿の手が震えていた。


「見黒様。これは……災害が起こりうる場所の地図になっております。民が日々の暮らしの中で感じていた小さな不安——それを見黒様が集められた結果、この国のどこにどんな危険があるかが、一目でわかる地図ができ上がっていたのです」


 見黒様が地図を見つめておられた。


「今回の橋の崩落も、三年前の段階で予見できた可能性があります。橋の揺れ、水かさの変化。どちらも帳面に記録されていました。もしあの時点で補強工事をしていれば——」


 見黒様が静かに仰った。


「それは過ぎたことよ。大事なのは、これからでしょう?」


 グレン殿が顔を上げた。


「この地図の中で、まだ何も起きていないけれど、不安の声が集まっている場所はどこ?」


 グレン殿が地図を指さした。


「北東の河川沿いです。『水かさが増してきた』『堤が古い』『大雨が来たら持たない』。複数の杞憂が重なっております」

「そこから手をつけましょう。起きてからでは遅いもの」


 グレン殿が深く頭を下げた。


 見黒様は地図を眺めたまま、ぽつりと仰った。


「それと、グレン。危ない場所がわかったなら、逃げる道も整えておいた方がいいわね。どこに逃げればいいかまで書いておけば、いざというとき迷わないでしょう?」


 グレン殿が息を止めた。


「……避難の、経路を」


「ええ。危ないとわかっていても、すぐに直せない場所もあるでしょう。でも逃げ道があれば、壊れる前に人は助かる」


 グレン殿がしばらく地図を見つめていた。それから、深く、もう一度頭を下げた。



 その後、グレン殿が主導して「杞憂の地図」の定期更新が始まった。


 新しく集まった杞憂を、地図に落とし込む。不安の声が集中する場所を、優先的に調査し、補強する。さらに、すぐには対処できない危険箇所には、避難の道筋が朱で書き加えられた。


 民からの杞憂は、もはや「見黒様にお話を聞いていただく」だけの意味ではなくなっていた。それは、国の安全を守る情報になっていた。


 グレン殿が会議の場で報告した。


「見黒様が数年にわたって集められた杞憂を分析した結果、国内の主要な災害リスクの七割を事前に把握できることがわかりました」


 大臣たちがどよめいた。


「見黒様は……杞憂を集めておられたのではなかったのか」

「杞憂を集めているように見せかけて、実は国土の危険地図を作っておられたのだ」


 別の大臣が声を震わせた。


「しかも民自身の声で。どこにどんな不安があるかを、最も正確に知っているのは、そこに住んでいる民だ。見黒様は、それをご存じだったのだ」



 その日の夕刻、陛下がグレン殿の報告をお聞きになった。


 杞憂の地図を広げて、しばらく黙って見ておられた。危険箇所の印と、朱で引かれた避難の道筋。二つの色が、国の形の上に重なっていた。


「グレン」

「はい」


 陛下が地図の上に指を置かれた。


「治水ができることは、古来、名君の証だと言われている」


 グレン殿が頷いた。


「見黒様は治水をなさったのではない。民の声を聞いただけだ。しかし結果として、この国の水害の備えが整いつつある」


 陛下が地図から目を上げられた。


「あの方は王ではない。大臣でもない。神託少女だ。だから——治水を行うのはわたしの仕事だ。この杞憂の地図は、正しくわたしにとって神託なのだ」


 グレン殿が息を呑んだ。

 陛下がお茶を一口飲まれた。


「けれど——彼女にそう伝えたところで、『あら、そう?』と言うだけなのだろうな」


 陛下が小さく笑われた。


 わたくしは、その笑みの中に、敬意と、信頼と、それから——言葉にしにくい温かさを見た。


 わたくしは日誌に書いた。


「見黒様の杞憂の帳面が、国の防災の地図となった。見黒様が民の不安を一つ一つ聞き取ってこられた年月が、今日、この国を守る盾になった。見黒様は最初から全てを見通しておられたのだろうか。わたくしにはわからない。しかし、見黒様がなさることには、必ず意味がある。それだけは確かだ」



 その夜、見黒様にお茶をお持ちした。


 見黒様は本を読んでおられた。杞憂の地図のことを話すと、「杞憂を話してくれた人たちが一番えらいのよ」と仰った。


 それだけで十分だった。見黒様らしい、と思った。

 しかし、見黒様はその後、ぽつりと仰った。


「それとね、エル。民衆が素直に声を上げられるのは、陛下の治世が優れているからよ。圧政の下では、不安があっても口にできない。口にしたら罰される国では、杞憂なんて集まらないわ」


 わたくしは動けなかった。

 見黒様が、陛下のことをお褒めになった。


 七年間、見黒様が陛下について仰ったことは「お茶を飲む仲よ」「へっちゃらでしょう?」——そういう軽やかな言葉ばかりだった。陛下の政治について、正面から評価されたことは、わたくしの知る限り一度もなかった。


 それが今、「治世が優れている」と。


「エル?」

「……はい。あの……見黒様が……陛下のことを、そのように仰るのは……」


 見黒様が不思議そうに首を傾げられた。


「事実を言っただけよ?」


 事実。見黒様にとっては、ただの事実なのだ。

 わたくしの目が熱くなった。見黒様は首を傾げておられた。なぜ泣きそうになっているのか、わからないのだろう。


「……かしこまりました」


 退出した後、廊下で少しだけ立ち止まった。

 日誌にもう一行、書き足した。


「見黒様が陛下の治世を『優れている』と仰せられた。七年間で初めてのことだ。見黒様と陛下の間にあるものが何であるのか、わたくしには名をつけることができない。しかし、今日、確かなことが一つ増えた。見黒様は陛下を信じておられる。陛下は見黒様を信じておられる。この国は、その信頼の上に立っている」


-----


 西の橋が落ちた。大雨で。


(あー。あの橋か)


 グレンが報告に来た。復旧がどうの、迂回路がどうの。

 聞きながら、思い出した。


(あの橋、杞憂で聞いたことある。荷馬車引きのおじさんが「雨のたびに揺れる」って言ってた。あと農夫のおじさんが「川の流れが変わってきている」って言ってた)


「グレン。あの橋のこと、前に聞いたことがあるわ」


 グレンがこちらを見た。


「前に、でございますか」


 帳面の方を見た。


「ええ。民衆の杞憂の中に。……エル、あの帳面を持ってきてくれる?」


 エルが帳面を持ってきてくれた。六冊になっていた。


(六冊。杞憂を集め始めてからもう何年になるかな。最初は「面白そうだから」で始めたのに、こんなに溜まった)


 二冊目をめくった。あった。


「ここ。三年前。『あの橋、雨のたびに揺れるんです。いつか落ちるんじゃないかって』」


 グレン殿の顔色が変わった。


(あ、気づいた。杞憂が当たってたことに。まあ、杞憂って「起こるかもしれない心配事」だから、本当に起こることもあるのよね。前世の防災で言えば「ヒヤリハット」みたいなもの。小さな不安の積み重ねが、大きな災害の前兆になる)


「見黒様。この帳面を全て拝見してもよろしいでしょうか」

「ええ。もちろん」


(どうぞどうぞ。わたしにはただの杞憂コレクションだけど、グレンなら何か見えるかもしれないわね。好きに使っちゃって〜!)



 三日後、グレン殿が大きな地図を持ってきた。

 杞憂を地図に落とし込んだ、と。


(……おっ)


 地図の上に、小さな印がたくさんあった。「橋が落ちそう」「川が溢れそう」「崖が崩れそう」「井戸の水が濁る」「林が枯れて土砂が流れやすい」……などなど。


(これ……ハザードマップじゃん)


 前世の防災マップと同じものが、杞憂を並べるだけでできてる。


(考えてみれば当然か。民が「不安だ」と感じている場所は、実際に危ない場所なのよ。そこに住んでいる人が一番よく知っている。学者が調査するより、住民の声を集めた方が早いし正確。前世の災害研究でも「住民の伝承と体感が、科学的調査より先に危険を察知していた」っていう事例はたくさんあった)


 グレンが苦々しそうに話し始めた。


「今回の橋の崩落も、三年前の段階で予見できた可能性があります」


 まあ、そうよね。あのおじさんが「揺れる」って言ってたんだもの。危ない橋は、いつか落ちる。


「それは過ぎたことよ。大事なのは、これからでしょう?」


 過去を悔いても橋は戻らない。でもまだ落ちていない橋は、補強できる。


「この地図の中で、まだ何も起きていないけれど、不安の声が集まっている場所はどこ?」


 グレンが北東の河川沿いを指した。「水かさ」「堤が古い」「大雨が来たら持たない」。


「そこから手をつけましょう。起きてからでは遅いもの」


(前世の防災の基本。「事後対応」より「事前予防」。被害が出てから動くのではなく、被害が出る前に動く。杞憂は「まだ起きていない災害のリスト」なのよ。それを地図にすれば、どこを先に守ればいいかが見える)


 地図をもう一度見た。


(……あ。でもこれ、足りないものがある)


「グレン。もう一つ。危ない場所がわかったなら、逃げる道も書いておいた方がいいわね。どこに逃げればいいかまで書いておけば、いざというとき迷わないでしょう?」


 前世の防災マップは「ここが危ない」だけじゃなくて「ここに逃げろ」まで書いてあった。避難所の場所、避難経路、集合場所。知ってるだけじゃだめなの。逃げ場がなきゃ意味がない。


(それに、すぐ直せない場所もあるでしょ。予算とか人手とか。でも逃げ道だけなら先に作れる。壊れる前に人が逃げられればいいのよ)


 グレンが地図を見つめたまま、深く頭を下げた。



 杞憂の地図が定期的に更新されるようになった。


 グレンが仕組みを作った。新しい杞憂が集まるたびに地図に追加し、不安の声が集中する場所を優先的に調査・補強する。さらに、すぐには手が回らない危険箇所には、逃げ道が朱で書き加えられた。


(前世でいう「リスクマネジメント」だ。企業がやるやつ。リスクを洗い出して、優先順位をつけて、対策を打つ。わたしがやったのは「杞憂を集めた」だけ。それをリスクマネジメントに変換したのはグレン。あの人、やっぱり優秀だわ)


 大臣たちの会議で、グレン殿が報告したらしい。「災害危機の七割を事前に把握できる」と。


 大臣たちは「見黒様は杞憂を集めるふりをして防災地図を作っておられた」と解釈した、らしい。


 してない。してないのよ。面白そうだから杞憂を集めてただけなのよ。人の心配事を聞くのが楽しかったの。前世でも友達の愚痴を聞くのが好きだったし。「あのトンネルの天井が落ちたらどうしよう」って話を聞いて、「大丈夫よ」って言うのが楽しかっただけ。


 まぁ、でも、結果としてそうなった。面白がって集めたものが、国を守る道具になった。……前世のオタク的に言えば、推し活で集めたグッズが、気づいたら資料的価値を持っていた、みたいな話かな。コレクションは侮れないってことか!


 エルがお茶を淹れてくれた。


「見黒様。杞憂の帳面が、とても大事なものになりましたね」

「そうね。でもね、エル」


 お茶を一口飲んだ。


「杞憂を話してくれた人たちが、一番えらいのよ。あの人たちが『不安だ』と言ってくれなかったら、何もわからなかった」


 本当にそう。情報を持っているのは現場の人間。それを集めて並べただけのわたしは、ただの整理係。前世でもそうだった。考察スレで一番偉いのは、情報を投下してくれる人。まとめ役は二番目。……でも、構造的に一番「神」なのは、SNSや掲示板を運営してる人なのよね。書き込める場所を用意して、維持して、荒らしから守ってる人。


「それとね、エル。民衆が素直に声を上げられるのは、陛下の治世が優れているからよ。圧政の下では、不安があっても口にできない。口にしたら罰される国では、杞憂なんて集まらないわ」


 管理人がいなかったら、そもそも書き込めない。


(まぁつまり、陛下が運営ってことよね。この国という掲示板の。安心して書き込める場を守ってくれている人)


 エルが、ぴたりと止まった。


(あれ。なんか固まった)


「エル?」

「……はい。あの……見黒様が……陛下のことを、そのように仰るのは……」

(え、なに。なんで声震えてるの)

「事実を言っただけよ?」


 なんで泣くの。事実を言っただけなのに。陛下の治世がいいから民が声を上げられる、それは当たり前のことでしょう。ガルドを見ればわかる。あの国では作家が捕まえられていた。不安を口にする自由すらなかったのよ。


「……かしこまりました」


 エルが少し声を震わせながら退出した。なんだったんだろう。


 本を開いた。


(しかし「杞憂コレクション」が「防災マップ」になるとは思わなかったわ。コレクターとしては嬉しい。集めたものに価値があったっていうのは、オタク冥利に尽きるわ〜)

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