第二話 ドナドナされてるかもだけど割とワクワクしてます
この子が……アカリが生まれた日のことは、忘れようがない。
産声を聞いて、妻の手を握って、助産師が赤子を抱き上げたとき——わたしの目に入ったのは、黒い髪だった。
妻も見ていた。
目が合った。何も言わなかった。何も言わなくても、わかっていた。
この国で、黒髪の子が何を意味するか。
数百年に一度しか生まれないと言われる、神託の系譜。黒髪の子が見つかれば、必ず国に召し上げられる。拒むことはできない。
助産師が赤子をわたしたちに渡した。小さかった。小さくて、温かくて、泣いていた。
妻がわたしの袖を掴んだ。強く、強く。
その夜、わたしたちは決めた。
隠そう。できるだけ長く。いつか必ず連れていかれるなら、それまでのあいだ、この子にできるだけ普通の子供時代を過ごさせてやろう。一日でも長く。
翌日から、わたしたちは嘘をつき始めた。
*
忌み子。
呪われた子が生まれた。不吉な印を持って生まれた子だ。近づいてはならない——世間にはそう説明した。
嘘だった。呪いなんて欠片もなかった。
ただの、黒い髪をした、元気な赤ん坊だった。
世間の前では、わたしたちは冷たい顔をした。「あの子は呪われている」と言い、人目から遠ざけ、誰にも見せなかった。村の者たちは哀れみの目でわたしたちを見た。可哀想に、呪われた子を持った親だ、と。
それでよかった。哀れまれている方がよかった。羨ましがられるよりずっとよかった。
嘘は、わたしたちだけが背負えばいい。
*
娘の部屋に入るとき、わたしたちは別の顔になった。
「今日は何を読んでいた?」とわたしは聞いた。
「お腹は空いていない?甘いものを持ってきたわよ」と妻は言った。
娘は笑った。
「お父様もお母様も優しい」と言って、笑った。
普通の親に見えていただろうか。そう見えていたなら、それでいい。
部屋には本を差し入れた。お菓子も、きれいな小物も、お香も。世間的には「呪い回避のための貢物」という体裁だった。実際は、この子に世界の美しいものを見せたかっただけだ。いずれ来る別れまでに、できるだけ多くのものを。
娘は本をよく読んだ。驚くほどよく読んだ。文字を覚えてからは、差し入れた本を片端から読んでいった。ときどき鏡の前で何かを呟いていた。
何を言っているのかは聞こえなかった。何か、台詞のようなものを練習しているようだった。
おかしな子だと思った。それ以上に可愛い子だと思った。
*
部屋を出ると、廊下は暗かった。
妻が戸を閉めて、少しだけ肩を震わせた。
「……あと何年、アカリと過ごせるだろうな」
わたしの声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「……できるだけ長く」
妻が答えた。
「一日でも長く」
それが、わたしたちの十二年間だった。
毎日、娘の部屋に入って、笑って、本の話をして、甘いものを渡して。廊下に出て、震えて、あとどれくらいだろうと指を折って。
十二年。短かった。
*
あの日——あの客人が来た日のことは、後悔とともに覚えている。
王都からの客人だった。わたしの旧い知り合いで、何かの用事のついでに寄ったのだと思う。娘の部屋には入れるつもりはなかった。しかし、何かの手違いがあった。
客人は娘を見た。黒い髪を見た。
あの目。目の色が変わった瞬間を、わたしは見ていた。
終わった、と思った。
客人が去ったあと、妻と二人で座り込んだ。早馬が出されるだろう。使者が来るだろう。もう時間がない。
だから翌日、わたしたちは娘に全部話した。
*
話し始めるとき、手が震えた。
妻は気丈に振る舞おうとしていたが、声が揺れていた。
黒髪のこと。神託少女のこと。「忌み子」の嘘のこと。全部話した。
最後に、妻が言った。
「……大丈夫よ。あなたはあなたのままでいいの。ただ、お城で過ごしてくれるだけで」
精一杯だった。あれが妻にできる精一杯の嘘だった。大丈夫なわけがない。何もわからない十二歳の子を、見知らぬ城に送り出すのだ。
わたしは俯いた。言わなければならない言葉があった。
「普通の子に産んでやれなくて、ごめんね……」
妻も頭を下げた。
しばらく、沈黙が続いた。
娘が何か言おうとしているのがわかった。顔を上げられなかった。怖かった。恨まれても仕方がない。十二年間、嘘をつき続けたのだから。
娘が、自分の髪に手を伸ばした。
一房すくって、じっと見つめていた。
「……お母様。お父様」
「アカリ……」
「わたし、この黒い髪が大好き」
息が止まった。
隣で妻が、小さく音を立てた。
「だって、お母様が梳かしてくれて」
妻が口を押さえた。声にならない声が漏れた。
「お父様が、撫でてくれましたもの」
——わたしは崩れた。
両膝が床についた。堪えていたものが全部出た。十二年分だった。十二年間、廊下で飲み込んできた全部だった。
「だから、謝らないで。この髪は、お二人との思い出の色なの」
視界がぐちゃぐちゃだった。妻が泣いていた。わたしも泣いていた。
この子は恨んでいなかった。この黒い髪を、わたしたちとの思い出だと言ってくれた。
わたしたちが一番苦しんできたものを、この子は一番愛してくれていた。
*
翌日、使者が来た。
三人だった。みんな礼装で、みんな表情が固かった。
娘は荷物をまとめていた。大半は本だった。
出発の前に、三人で庭に出た。白い花が咲いていた。
妻が、いつも通りの口調で言った。「ちゃんとご飯食べるのよ」。わたしは、いつも通りの口調で話そうとした。しかし声が出なかった。
しゃがんで、娘の目の高さに合わせた。
「お前は、ずっと良い子だった」
過去形だった。わかっていた。これから先、この子の毎日を見届けることは、もうできない。
娘は少し、目を潤ませた。でも、泣かなかった。
「行ってきます」と言って、馬車に向かった。
振り返らなかった。
——その後ろ姿を見て、わたしは思った。
この子はわかっている。全部わかっていて、わたしたちを守るために、自分から行くのだ。
わたしたちのために。
膝が折れた。妻も崩れた。
使者たちが何かを囁き合っていた。「御年十二歳にして」とか「ご両親を守るために、自ら」とか。聞こえたが、どうでもよかった。
ただ、妻の手を握った。妻もわたしの手を握り返した。
二人で、馬車が見えなくなるまで、そこに座っていた。
-----
朝、目が覚めた瞬間から、なんか今日は違うな、という予感があった。
根拠はない。なんとなくそう思っただけだ。部屋の空気がいつもより少し張り詰めていたとか、廊下の足音がいつもより多かったとか、そういう細かいことが重なって、前世で培われたなろう小説の読者センサーが「フラグ立ってるかも」と反応していた。
でも朝ご飯は普通においしかったし、差し入れられた新しい本も面白そうだったので、とりあえず読み始めた。
旗師の伝記だった。生まれながらに地位の低かった人間が、独学で軍略を学んで成り上がる話だ。これは熱い。設定だけで熱い。わたしはすっかり夢中になって、外が明るくなっていくのも、廊下の物音が増えていくのも、よく気にしていなかった。
父と母が部屋に来たのは、昼前だった。
二人とも、いつもより少し顔が真剣だった。
わたしは本を閉じた。
『あ、これ本番だ』
なろうセンサーが、最終警報を出した。
*
「アカリ」と父が言った。
「少し、大事な話がある」
父が話し始めた。ゆっくりと、丁寧に。
黒髪のこと。数百年前の神託少女のこと。黒髪の子が生まれると国に召し上げられるという習わしのこと。だから二人は「忌み子」という嘘をついてわたしを隠してきたこと。でも先日来た客人に見咎められて、もう時間の問題だということ。
最後に母が言った。
「……大丈夫よ。あなたはあなたのままでいいの。ただ、お城で過ごしてくれるだけで」
わたしは聞きながら、頭の中で整理していた。
神託少女。あの伝承の。
いやいや、わたし何もできないわよ。占いとか予言とか無理だし。
(あ、そっか。そういう系ね。お城の名誉職みたいなやつかな。要は黒髪だから飾っておきたいってことでしょ。楽そう〜)
そう思った瞬間に、父が俯いた。
「普通の子に産んでやれなくて、ごめんね……」
母も、ほとんど同時に頭を下げた。
わたしは、きょとんとした。
それから、ゆっくりと自分の髪に手を伸ばした。一房すくって、じっと見つめた。
黒かった。光の中で、静かに光っていた。
「……お母様。お父様」
「アカリ……」
「わたし、この黒い髪が大好き」
二人が、息を呑んだ。
「だって、お母様が梳かしてくれて」
母が口を押さえた。
「お父様が、撫でてくれましたもの」
父が、崩れ落ちた。両膝が床についた。大人の男の人が、音を立てて。
(ああ、なんでそんなに泣くの〜)
「だから、謝らないで。この髪は、お二人との思い出の色なの」
嘘じゃない。本当のことだった。前世から望んでいた黒髪が、この二人の手によって梳かされてきた。この髪はわたしの前世の夢と、今世の家族と、両方でできている。
しばらく、誰も何も言えなかった。
わたしはその間、心の中でいくつかのことを整理していた。
(あれ、待って。国に召し上げらるってことは拒否権はないだろうし、なんならお父様とお母様が隠してたことってなんかの罪に問われたり……これ、もしかしてわたしが行かないと二人がまずいことになるやつ?)
わかった。
そういうことなら、今度はわたしが守る番だ。お父様とお母様が反逆者みたいに扱われるのは絶対ダメだ。
わたしはすっ、と立ち上がった。
「大丈夫。お城の名誉職みたいなものでしょう?黒髪だから飾っておきたいだけ。楽そうだわ」
(二人の罪悪感軽くしよう。実際楽そうだし)
「お父様、お母様。わたし、お二人のもとに生まれてよかった」
にっこりと笑った。
それから、二人の間を抜けて、振り返らずに部屋の外へ向かった。
後ろで、また泣く気配がした。
*
翌日、使者が来た。三人。みんな礼装で、みんな表情が固かった。
荷物をまとめた。大半は本だった。
出発の前に、三人で庭に出た。白い花が咲いていた。
「好きだったでしょう、この木」と母が言った。
「ええ。白くてきれい」
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「食べるわ」
「好き嫌いが多いのは知ってるけど、できるだけ」
「努力する」
「努力じゃなくて食べなさい」
普通の会話だった。でもそれがよかった。
父がしゃがんで、わたしの目の高さに合わせた。
「お前は、ずっと、良い子だった」
「……毎日好きなことしてただけだけれど」
「それで十分だ。お前が笑ってくれていた。それだけで、十分だった」
父の目が赤かった。わたしも少し、じんわりした。ぐっと抑えた。
「行ってきます」
二人に背を向けて、馬車に向かった。
振り返らなかった。振り返ると絶対泣く自信があったので、振り返らなかった。
*
馬車が動き出した。
窓から外を見ると、この家の屋根が見えた。あの白い木の花が見えた。父と母の後ろ姿が小さくなっていった。
(……泣きそう。でも泣いたら使者の人たちに心配されるわ。ここはやっぱり神託少女っぽく……)
すっと目を閉じた。
それから窓の外に顔を向けて、静かに呟いた。
「……風が、優しいわね」
使者の一人が息を呑んだ気配がした。
(今のはまぁ、普通に風が気持ち良かっただけだけれど)
馬車は街道を進んでいく。揺れるたびに木の葉が窓の外を流れていった。
(神託少女、か。まあ、どうせお飾りでしょう。みんながノリよく神託ごっこに付き合ってくれれば万事うまくいくわ。城の一室でのんびり本読んで、たまに「答えはあなたの中にある」とか言ってればいいんじゃないかしら)
(楽しみ。割と楽しみ)
ドナドナというには、気持ちが浮いていた。
前世でも、引っ越しの直前はいつもわくわくしていた。どんな街でも、新しい本屋がある可能性があるから。
今回は新しい書庫がある可能性がある。
それだけで十分だった。
後ろ、だいぶ遠くなってきた実家の方を、わたしは一度だけ振り返った。
使者たちには窓の外を見ているように見えただろう。
でもわたしは、見えなくなった屋根の方をずっと見ていた。




