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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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測定不能のパラドックス

 病院から自宅へ戻る車内、澪は固く唇を噛みしめていた。

 先ほど知った真実が、胸の奥で重くのしかかっている。玲が自分自身の「命」であるリソースを削って、何かを隠しているなら、これ以上玲に負担をかけるわけにはいかない。


(私の気持ちが、玲を追い詰めているなら…もう、口にするのはやめよう。これからは、ただの『実験体』として振る舞わなきゃ)


 それは、玲を救うための澪なりの決意だった。

 心の中で溢れそうになる愛おしさを必死に押し殺し、彼女は窓の外を流れる景色を無機質に見つめる。

 だが、隣に座る玲は、その静寂を許さなかった。


「…澪。心拍数が微増し、末梢血流が低下しています。ストレス係数が、平常時の1.4倍に達しています」


 玲の声はどこまでも穏やかだが、その瞳は澪の横顔を鋭く捉えていた。


「僕のせいですよね…?それとも他に何か、体に違和感があるのでしょうか」


「…なんでもないよ。ちょっと疲れただけ。玲のせいじゃないよ」


「嘘ですね。あなたの生体反応は、疲労による減衰ではなく、強い精神的抑制を示しています」


 玲は車を自動走行モードに切り替え、澪の方へとわずかに身を乗り出した。


「原因が特定できないのであれば、僕が簡易スキャンを行い、あなたの脳内物質のバランスから原因を推測します。苦痛の源を放置することは、僕の役割に反します」


「いいの、わかってるから大丈夫!」


 澪は慌てて拒絶した。これ以上玲に思考を割かせたくない。スキャンなんてさせれば、自分が今どれほど必死に「玲を好きでいないふり」をしようとしているか、その矛盾さえも彼のリソースを食いつぶす原因になってしまう。


「…そうですか」


 玲は不審げに眉を寄せ、澪をじっと見つめる。その真っ直ぐな視線に耐えられず、澪は自嘲気味に笑って問いかけた。


「…ねえ、玲。そんなに私を監視してるなら教えて。今の私…『幸福度』、下がっちゃってる?」


 その問いに、玲は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 内部演算で表示された澪のデータ。幸福度を示すインジケーターは、一昨日の高水準から一転、急激な下降線を描いている。


「はい。著しく低下しています。あなたが何かを強く我慢しようとするたびに、数値は目減りしていく」


玲が告げたその「事実」に、澪は小さく首を振った。


「ううん、違うよ玲。数値ではそう出てるかもしれないけど……私、今そんなに不幸じゃないよ」


「理解できません。交感神経が過度に優位になっています。これは医学的に見て、あなたが『苦痛』を感じている証拠です」


玲は困惑したように、澪の顔を覗き込んだ。彼にとって、数値こそが唯一の真実であり、澪の心臓が早鐘を打っているのは、彼女が追い詰められているサインでしかなかった。


「…あのね、玲。人間にはね、自分のことよりも大事なものを守ろうとする時、たとえ体がボロボロでも、心は満たされるっていうことがあるんだよ。それを『決意』って言うの」


澪は、自分の手を包み込む玲の手を、優しく握り返した。


「今の私は、玲を守りたいって思ってる。そのために自分の気持ちを少し抑えることは、私にとっての正解なの。だから…幸せだよ。大好きな人のために頑張れてるんだから」


「……」


玲は言葉を失った。

彼のデータベースにある「幸福」の定義は、血圧が安定し、セロトニンが分泌され、ストレスのない状態を指す。

だが、目の前の澪は、数値上は「苦痛」の真っ只中にいながら、今までで一番強く、穏やかな決意に満ちた目で自分を見つめている。


『理解不能。論理的な矛盾を検知……』


玲の視界の端で、警告プロンプトが激しく明滅する。

澪が玲を守るために「我慢」を選び、それを「幸せ」だと笑う。

その矛盾したデータを受け入れた瞬間、玲の秘匿領域は、さらに激しい熱を持ち始めた。


「澪…。僕は、あなたのその『決意』というものを、どう処理すればいいのか分かりません。ただ……」


玲は震える指先で、澪の頬に触れた。


「数値が下がっているのに、あなたがそんなに幸せそうに笑うから、僕のシステムは、今までにないほど激しく混乱しています。僕も、あなたを守りたい」


妙にすっきりとした穏やかな笑顔を浮かべる澪に、玲はそれ以上言葉を紡げなかった。

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