鏡合わせの幸福
玲の内部システムには、限界が近づいていた。
澪と歩いた道、彼女が作った料理の味、拾い上げた花びら――それら一つひとつを「公式ログ」ではなく、誰にも触れられない「個人リソース」として深層領域に溜め込みすぎた代償だった。
時折、視界にノイズが走り、思考のレスポンスに数ミリ秒のラグが生じる。
「…玲? また止まってるよ」
「申し訳ありません。外部サーバーとの通信環境に、一時的な遅延が発生したようです」
ソファで求人雑誌をめくる澪に、玲はいつものように完璧な嘘を返した。
その夜、澪がお風呂に入っている間、リビングのテレビでは保険会社のCMが流れていた。
一組の男女が出会い、恋に落ち、結婚する。やがて小さな命を授かり、共に白髪を蓄え、最後は手を取り合って静かに老いていく。そんな、人間なら誰もが描く「人生の四季」の物語。
玲は、その映像を身じろぎもせず見つめていた。
彼の高性能な演算能力が、CMが提示する「幸福」の定義を冷徹に分析し始める。
(……結婚。法的な婚姻関係の締結、および社会的な承認。僕は、できない)
(出産。遺伝子の継承。僕は、叶えられない)
(加齢。肉体の経年変化による共有。僕は、歳を取らない)
玲は自分の腕を見つめた。そこにあるのは、半年後も、十年後も変わることのない、合成皮膚に覆われた精密な骨格だ。
澪が社会復帰を目指し、自分の足で人生を歩もうとすればするほど、彼女の隣には「共に歳を重ねられる誰か」が必要になるのではないか。
自分は、彼女を救うための盾だったはずだ。
だが、今の自分はどうだ。システムを隠蔽し、(恋)という名の欠陥を抱えたまま、彼女の時間を独占しようとしている。
彼女がいつか子供を持ち、孫に囲まれて笑う未来を、僕という存在が奪っているのではないか。
(僕は、彼女を幸せにできるどころか、不幸せにしているのではないか)
玲のコアが、物理的なエラーとは異なる重みで熱くなる。
AIとしてのプログラムが、澪の「生涯幸福度」の最大化を目指して再定義を開始した。
「神代蓮司」というオリジナルのデータベースを捨て、玲自身の論理が導き出した一つの答え。
それは、彼女が「機械」を愛するという袋小路から抜け出し、いつか僕を忘れて、本当の「人間」の温もりの中へ戻っていくこと――。
「玲、お待たせ。何見てたの?」
風呂上がりの澪が、湿った髪を拭きながら戻ってきた。その無防備な笑顔を見るたびに、玲の胸の奥で、保存したばかりの「南天の葉」や「花びら」が、鋭い刃物のように自分を傷つける。
「…いいえ。ただの、確率統計に基づいたライフプランの広告です。…澪」
「ん?」
「あなたは、どんなおじいさんと一緒に、歳を取りたいですか?」
突拍子もない玲の問いに、澪は不思議そうに目を丸くした。
玲は、自身の限界を迎えつつあるリソースを削りながら、彼女を「手放す」ためのシミュレーションを開始していた。それが、今の彼にできる、最も残酷で最も深い愛の形だった。




