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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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硝子の檻

その日は朝から生憎の天気で、広がった灰色の空からは音を立てて雨粒が落下している。

都心にある一流ホテルのロビー。白石澪は、宿泊客を送り出すお辞儀を繰り返していた。


「白石さん、今日も綺麗だね。…今夜あたり、少し時間取れないかな?」


 馴染みの客が、チェックアウトのカードキーを返すついでに、湿度を感じさせる視線を澪に這わせる。


「恐れ入ります。お気をつけていってらっしゃいませ」


 喉を通る声は、自分でも驚くほど平坦だった。

 澪にとって、自分の外見は「授かりもの」などではなかった。

 それは、他人を無遠慮に変貌させる厄介な性質を持った、透明な檻のようなものだ。


 同僚たちからは「顔がいいから楽な仕事をさせてもらえる」と陰口を叩かれる。

 上司からは「白石さんがフロントに立てば男性客の満足度が上がるから」と無理なシフトを強要される。


 彼女がどれだけ実直に実務をこなし、必死に勉強して覚えた英語で接客をしても、誰もその「中身」を評価しようとはしなかった。

 外見がいいから、きれいだから、美しいから。

 子供の頃からこの容姿のせいで息が詰まるような人生だ。


 決定的な出来事は、ある雨の午後だった。

 ロビーで理不尽な要求を繰り返すクレーマーに対応していたとき、相手から「顔がいいからって調子に乗るな」と、大衆の面前で激しい罵声を浴びせられたのだ。

「ざまぁみろ」という誰かの小声が耳に飛び込んできて、澪は拳をぐっと握った。


「申し訳ございません。お客様のご要望にはお答えいたしかねます」

 澪は毅然とした態度で応対を続ける。本来こうした理不尽な客のクレームには上長が即座に介入する手はずになっているが、いくら待っても助けが来る気配はなかった。


(ああ、また嫌がらせか)

この光景を遠巻きに見ているはずの同僚たちが、誰も報告に行っていないのだと悟る。

なぜ、自分だけがこんな目に遭わなければならないのか。

理由は、薄々わかっていた。同僚の女性が想いを寄せる先輩が、あろうことか澪に告白したからだ。


先輩からの告白など、即丁寧にお断りした。


それにもかかわらず、「彼女から好きな人を奪った」「きれいな顔でたぶらかした」と、まるで身に覚えのない罪を着せられ、悪意に満ちた陰口の標的にされていた。


そのとき、遠く離れたエレベーターホールで、一人の男が立ち止まり、その光景を静かに見つめていた。


 その翌週、澪は退職願を提出した。

 もう、限界だった。心が悲鳴をあげていた。鏡を見るのさえ苦痛だった。誰の視線も浴びたくない。自分の外見だけを評価する世界から消えてしまいたい。


 貯金を削りながらマンションの一室に閉じこもる暮らしは、気づけば三か月を過ぎていた。

 誰にも会いたくない。食事はすべて置き配や配達。一歩も外に出ない日々。

 ゴミを出しに行くのも億劫になった散らかった部屋。世俗から切り離されたその空間だけが、今の澪を許してくれる唯一の避難所だった。


 そんなある日、スマートフォンの通知音が鳴り響いた。一通のメール。そのタイトルが、澪の止まった時間を強引に動かした。


『幸福実験のご案内―被験者当選のお知らせ』


差出人は、世界的なAI開発企業「神代テクノロジーズ」。

条件は、指定のマンションで最新型ヒューマノイドと半年間過ごすこと。提示された報酬額は今の生活を一生支えて余りあるほどに破格だった。


(…ああ、あの日だ)


澪の脳裏に、数週間前の記憶が蘇る。

深夜、安酒で意識を濁らせながら、スマートフォンの画面を虚ろに眺めていた夜。


「幸福実験? 馬鹿馬鹿しい。どうせ全部嘘に決まってる」


半分自棄(やけ)になり、笑い飛ばすような気持ちで応募フォームを埋めたのだ。

どうせ自分を本当の意味で必要とする人間なんてこの世にはいない。それならいっそ、怪しげな実験で稼げた方が、無職の自分も助かる。

そんな、どん底の「やけくそ」が、このメールを呼び寄せたのだ。


「幸福。私には、一番似合わない言葉」


怪しげな光にすがりつくしかなかった。人間ではないものと過ごす時間。そこには、あの下卑た視線も、嫉妬に狂った噂話もないはずだ。


一週間後。

澪は重い足取りで、指定された高級マンションの一室を訪れた。


「…白石澪さんですね。お待ちしておりました」


無機質な玄関ホールで彼女を迎えたのは、冷徹な眼差しを湛えた一人の女性だった。

神代テクノロジーズの主任技術者、九条。彼女はタイトなスーツに身を包み、手元のタブレット端末を無造作に操作しながら事務的に告げる。


「実験期間は百八十日間。あなたの役割は、この個体と日常を共有し、その心理的変化を記録すること。ああ、安心してください。室内にはモニターがありますが、必要時以外のでデータの収集はすべて『A-01』が自動で行います。定期チェックとして我社のCEOからのモニタリングがございますが、緊急時以外は事前に連絡を差し上げます」


九条がリビングへの扉を開ける。

そこは、感情というノイズをすべて排した、冷たくも美しい空間だった。夕陽が差し込む窓辺に、一人の男が立っていた。


「お待ちしておりました、白石澪様、生活支援ヒューマノイド、A-01です」


その声は、驚くほど澄んでいた。

一歩、彼が影から踏み出した瞬間、澪は反射的に身構えた。これまで嫌というほど浴びてきた、あの厭らしい「品定め」の視線を予測して、喉の奥が震える。


けれど、彼は動かなかった。

彫刻のように整った顔立ち。すらりとした長身。つややかな黒髪に、なめらかな白い肌。驚くような美貌を備えた「人間」にしか見えない。だが、そこには自分を誘惑しようとする欲も、容姿を褒めそやす下心も、一欠片も存在しなかった。


これまでの人生で、澪が浴びてきたのは外見を評価する視線ばかりだった。

「綺麗だね」という言葉の裏に透けて見える下心や。あるいは、その美しさを理由に投げつけられる、同性からの鋭い嫉妬、妬み。

そうした「人間特有の執着」から、彼は完全に切り離されていた。


九条の紹介を受け、A-01と呼ばれたヒューマノイドは静かに頭を下げた。


「これより六ヶ月間、白石澪様の生活を支援するために稼働します」


見惚れるほどに美しい。けれど、その瞳には決定的に「熱」が欠落していた。

九条は澪の様子を観察するように眼鏡を押し上げると、「では、私はこれで。あとはA-01が対応します」とだけ言い残し、ヒールの音を響かせて退室していった。


静寂が訪れる。

「白石様、心拍数が上昇しています。戸惑われていますか?」

「あなたは、私を見て、何を思うの?」


無意識に、問いが口をついた。

A-01は、小首を僅かに傾げた。その動作は、人と見間違えるほどでかえって恐ろしい。


「私はあなたを『思う』ことはできません。ただ、あなたの心拍の揺らぎを、誰よりも正確に計測し、記録することができます」


初めてだった。

外見というフィルタを通さず、自分の「生存」そのものを、これほどまでに真っ直ぐに、データとして肯定されたのは。


「そう。それなら、いい」


無機質なはずの言葉が、澪の凍てついた心の表面に、一筋の亀裂を入れた。

澪は、初めて自分から一歩、その美しい機械の側へと歩み寄った。

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