第十章 ~眠れる遺跡と、共鳴する魂~(三)
そして――その時は何のドラマチックな展開が待っているまでもなく、ただ、静かにやってきた。
カタリに導かれ、遺跡に辿り着いた時。辺りは少し夕焼けがかっていた。その光景はまるで、元の世界にあるマチュピチュのような空中都市。その全景が見える岩の上にシン=新島真一郎は腰かけながら、ただゆったりとした雰囲気で遺跡を眺めていた。その横顔には微かに微笑みが浮かんでいた。一体、何に対して微笑んでいるというのだろう?だが、それがシンという人間を表しているようでもあった。
「父さん!」
珍しく、悠が感情の迸るままに、そう声を発していた。この世界に迷い込んでからというものようやく父親と出会えたのだから無理もなかった。その声にゆっくりと振り向いたシンの目は、この時が訪れる時を確信していたかのように、真っすぐに悠を見つめていた。
「よお、悠。ようやく来たな」
その時の感覚をどう言えばよいのだろう。何十年も離れていた親友と再会した時に、まるで昨日別れたばかりみたいにすぐに当時の心境に戻れるような感覚。シンの言葉は、まさにそんなさりげない優しさに包まれていた。悠は、父親の側にゆっくりと近づいていきながら、溢れる感情に一言も声が出せないでいる。まるで将棋で色んな手を一度に読むかのように、たくさんの言葉と感情が一気に押し寄せていた。
「大変だったか?」
そんな悠の様子を見ながら、その心中を悟ったようにシンが問いかける。悠としては「うん」とも言えたし「いいえ」とも言うことが出来た。大変だったのは確かだが、クレアやサリを初めてとして、色んな人々との出会いや助けがあってここまで来られたのだ。悠はどちらとも答えることが出来なかったが、シンにとってはそれが何よりの答えだった。
「そうか。頑張ったな」
シンはくしゃっと破顔しながら、悠を労うように微笑みかけた。それは人生の中で色んな経験をしてきた大人の、そして父親としての笑顔だった。
「ここで出会ったみんなのお陰だよ」
悠に涙はなかった。一瞬、目が潤んだものの、この父親との再会に涙は似合わない。シンもまた、悠の言葉と瞳の中に、感謝の気持ちが込められているのを見逃さなかった。
「そうか。良い経験をしたな。……後ろにいるのはサリにカタリじゃないか!もう一人の女性は、証人だな。悠の友達かい?」
「よお、シン!…この遺跡に通い詰めているんだって?相変わらずだなあ」
「シン、お久しぶり!また会えて嬉しいわ」
カタリとサリが代わる代わる再会の挨拶を済ませるのを待って、悠が改めてクレアを紹介した。
「父さん、あの証人の彼女はクレアって言うんだ。僕がこの世界へ迷い込んでから、ずっと一緒に暮らしていたんだよ」
「そうか、彼女が……。サリから証人が悠を引き取ったと聞いてたから、同じような境遇の者同士、無事だとは思っていたんだが。……クレアさん、悠の面倒を見てくれてありがとう。父親として、心から感謝するよ」
シンはクレアの方へ歩み寄ると、しっかりと目を見つめ、そして頭を下げた。それは、日本式の礼ではあったが、その真摯な気持ちは伝わるものだ。とは言え、時には習慣の違いから誤解が生まれ、争いに繋がることもある。シンがまずしっかりと相手の目を見つめたのは、目と表情で悪意がないことを伝え、異文化交流において誤解が生まれるのを避けるために自然と身につけたものであった。
「こちらこそ。私や、私に関わりのある者たちも、ユウにはずいぶん助けられましたわ。私のことはクレアと呼んでください。そしてシン……貴方に会えたことを光栄に思いますわ」
「いやいや、俺はそんな大層な人間じゃありませんよ。それよりも、今の悠を親として見れば、クレアさんをはじめとして皆さんがどんなにしっかり育ててくれたかがわかる」
シンがそう言うと、傍らにいた悠が頷いた。
「そうなんだ、父さん。僕は皆さんに本当に良くしていただいたんだよ」
「ありがたいことだな。悠、ここで学んだことは決して忘れてはいけないよ」
言葉だけだと説教がましく聞こえるかもしれないが、その口調はあくまで穏やかで、悠の気持ちに寄り添っているのが伝わってくる。二人の会話を聞いていたクレアやサリ、そしてカタリまでもが、『誠』の心に触れた気がした。その言葉や定義は知らずとも、シンの言葉から大切な何かを学んだことは確かだった。
「……一緒にいるのは、皆のホダムだね?リンバはサリのホダムとして……残りが三体いるということは、カタリもホダムを得たのかい?」
シンの疑問に、カタリが首を振って答える。
「それなら鼻が高いんだけどなあ。残念だけど違うよ、シン。ユウはホダムを二体も得たんだ」
「紹介するよ。灰色のニホンオオカミが僕のホダムでロボ。肩に乗っているのがシオンだよ。そして、黒豹はクレアのホダムでレイラって言うんだ」
悠はそこでいったん言葉を切ると、レイラを見つめた。こんな風にレイラを見つめるのはいつぶりだろう?悠はその瞳の中に、レイラと一緒にあちらこちらに出歩いていた頃のことを思い出していた。
「レイラは……クレアと一緒に暮らしている時、僕の母親代わりであり、先生みたいな存在でもあったんだよ」
シンは、ホダムたちを紹介する悠を見ながら、目を細めた。それは頼もしく育った息子を見つめる目だ。奇しくもその時、レイラもまた同じ目をしていた。
(……悠の生き生きとした表情。彼らは大切な仲間であり友達なんだな。黒豹…レイラのことを母親代わりだったなんて言うあたり、よほどの絆で結ばれているらしい…)
「そうだったか。特別な力を持つホダムのことだ。きっと悠を色々と助けてくれたことは想像がつくよ。レイラにロボにシオン……ありがとう。君たちにも父親として礼を言うよ」
ホダムたちに言葉はないが、そこに流れる温かく穏やかな空気が、言葉以上に彼らの心を表していた。
「……さあ、だいぶ陽が傾きかけてきたし、そろそろ村に戻るとするか。積もる話の続きはそれからにしよう」
シンが促し、一同、村へと帰路に就いた。途中、ようやく父親に出会えたという事実に、心ここにあらずといった悠を横目に見ながらサリが心配そうに呟いた。
「ユウ、大丈夫かな?」
「ふふ、無理もないわ。ようやくお父さんに会えたんだもの。それも知らない世界に来て、ようやくね」
そうフォローするクレアに、サリが素朴に問いかけた。
「クレアも両親に会いたい?」
「それは……以前、ユウにも話したのだけど、私はもう両親の顔もよく思い出せないの。それに今はルジナやレイラが私の家族みたいなものだから、あんまり寂しいとかはないわ」
「……そうなんだ。私と一緒だね。私の両親も小さいころに大地に還っちゃったからよく覚えていないんだ。だから、ちょっとだけ悠が羨ましい…」
「素直なのね、サリは。サリのそういうところ、好きよ」
「えへっ、そうかな?でも寂しくないのは私も一緒よ、クレア。私にはおじじもいるし、悠やクレアやリンバもいるしね」
サリはそう言葉にしながら、ハッとしたように口を閉ざした。悠はいずれ元の世界へ帰ってしまうだろうということを思い出したのだ。
「…大丈夫よ、サリ。もし元の世界へ帰れる方法が見つかったとしても、私はこの世界に残るつもりなの。確かにこの世界では黒の信徒たちに命を狙われる危険はあるけど、ここが私の生きていく世界だと思っているわ」
クレアは空を見上げた。遺跡を出た時には夕暮れの赤い色を湛えていた空は、すでに紫の色から深い紺色へと色を変えつつあった。まるで透き通るように澄んだ空は、小さな星の瞬きを鮮やかに映していた。
「こんな早い時間から、星がこんなにくっきり見えるなんて……綺麗…」
クレアの言葉にサリもまた、空を見上げるとほうっとため息を漏らした。
「本当だね……」
いつから二人の話を聞いていたのか、シンが静かな声で語り掛けた。
「これから完全に暗くなれば、もっともっと星が良く見えるぞ。俺もこんなにも美しい星空を見たのは、ここが初めてだったよ。元の世界でも美しい星空はたくさん見たつもりだったが……あの美しかった空でさえ、大気が汚れていたんだなあ」
「シン…」
シンの言葉に、クレアは「この世界に残る」という話をしていたところから聞かれていたことを直感的に理解した。その上で、シンの言葉は、クレアの選択に対する控えめな優しさを含んだ肯定であることを、なんとなく悟っていた。
「ユウが…いえ、ユウとシンが住んでいたところはどうだったんですか?」
「そうだなあ。星空はこの世界と比べるとくすんで良く見えないし、そもそもゆっくりと星を眺める人すらほとんどいなかったよ」
それは悠がここにきて思ったこととまったく同じであった。なぜ星空を見るのか…元の世界では、そんな単純な理由すらわからなくなってしまっている人がほとんどだろう。
「ユウは……、ユウはどうしてそんな世界に戻りたいって思うのかしら」
それはクレアが思わず漏らしてしまった本音だった。クレアは自分の言葉にハッとしながら、慌てて自分の言葉を否定した。クレアの心の中には、あの悠と一緒に眺めた星空がひっそりと…何よりも大事なものとしてしまわれたことに気づいて、不意に感情が溢れてしまったのだ。
「ご、ごめんなさい!……つい、不思議に思えてしまったものですから…」
「……いいんだよ、クレア。確かにそれは自然な疑問だと思う。……幸せだね、悠は。そんな風に心配してくれる人がいるんだから」
クレアの頬が薄いピンク色に染まっていた。シンの前で、クレアは初めて歳相応の少女らしい一面を見せていると言っても過言ではなかった。
「シン……元の世界へ戻る方法は見つかったの?」
サリがシンに問いかける目は真剣であった。その真っすぐな視線は、その問いの奥にある悠への想いを包み隠すこともない。これほど純粋な視線をシンは見たことがなかった。シンはそのことには触れず、ただ、サリの質問に素直に答えた。
「いや。見つかってはいないが、黒の信徒たちが『古の聖盤』と呼んでいるものに、そのヒントがあると思っている。それと……もし戻れるとしたら、あの遺跡が鍵を握っているのは確かだと思う」
「古の聖盤……確かに言われてみれば、信徒たちがバヤンガンを呼び出しているときの波動と、ユウが現れた時に感じた大気の振動……どこか似ている感じがするわ」
サリの言葉に、シンは確信を得たように頷いた。
「明日、もう一度遺跡に行ってみよう。皆に見せたいものがあるんだ」
ルガ族の村へ戻り、改めてトォヴァの元を訪れた時にはすっかり夜になっていた。
「おお、無事シンに会えたか。良かったな、ユウ!」
悠とシンはトォヴァにお礼を言うと、トォヴァは二人の言葉を受けるのもそこそこに皆を気遣う様子を見せる。
「今夜は親子で積もる話もあるだろう。詳しいことは明日話せばよい。それに皆も今日は色々あって疲れもたまっているだろう。再会のお祝いは明日の夜にでもするとして、今日はゆっくり休むがいい」
目が見えないからこそ、気配で物事の本質を察する。トォヴァから発せられる言葉はまさにそれであった。皆は返す言葉もなく甘えるしかなかった。悠とシン、サリとクレアとで、別々の建物へと案内されていく。部屋の中でシンが二人きりになると、悠は安堵感がどっと押し寄せてくるのを感じていた。
「眠れそうか?」
シンが尋ねると、悠は素直に首を横に振った。
「ううん、なんだか興奮が冷めやらなくて……それに、寝て起きたら父さんがいなくなってそうな気がしてしまって、なんだか不安なんだ」
「わかるよ。俺もまた目が覚めたらバラバラになってしまったらって、つい考えちまう。幸せな時ほどそれを失うことを考えて怖くなるってのは本当だな」
シンの目を見ると、半分は悠の気持ちに寄り添っていながら、半分はそれが紛れもない本音なのだと語っていた。
「父さんもなんだね」
悠は父親の言葉を聞いて、逆に肩の力が抜けたように、ふっと顔がほころんだ。
「ああ、当り前さ。ただでさえ一度は失ってしまったかもしれないと思って絶望を味わったんだ。こうして再び会えたことが奇跡みたいなものさ」
「父さん……」
(本当に……父さんの言う通りだ……)
「……眠れそうにないなら、ちょうどいい。悠が見てきたこの世界のことを話してくれないか?」
悠の中に話したいことはいっぱいあったが、重要と思われる部分だけをかいつまんで話した。そうでなければ、どれだけ時間があっても足りなかっただろう。
「黒の信徒たちと戦って、古の聖盤を壊したって!?」
「何!マジマクウを見たのか!?」
シンにとって悠の話は驚くべきことばかりだった。そして想像以上に過酷な中を生き抜いてきたことに改めて感嘆しつつも、聖盤破壊のことと、マジマクウについては、深く考え込む様子を見せていた。
「…それで、クレアとサリが……」
初めは目を輝かせながら冒険譚を話していた悠だったが、徐々にその瞼が重そうになってきて、言葉も途切れ途切れになっていた。
「本当に素晴らしい経験をしたな、悠。もう、おやすみ」
シンの言葉に、悠はポンチョに身を包むようにして横になった。微かに寝息を立てているその顔には安心したような微笑みが浮かんでいた。息子の寝顔を見つめながら、シンもまたいつしか眠っていた。それはこの世界にシンが迷い込んでから初めてといってよい深い眠りだった。




