第八章 ~花の残り香と、心の翼~(三)
(……たった一人なのに、こんなに堂々とおじじの命を狙いに来たと答えるなんて…………このマウアって人、よほど自信があるのか、ちょっとおかしいのかのどちらかだわ……)
「ウガァ!!」
突然リンバが叫んだ。サリが振り向くと、いつの間にか死角から人間ほどもあろう長さの毒蛇が迫っていた。
「…パフアダー!?」
蛇の中で最速と言われ、一秒に5.8mもの距離を飛ぶというパフアダーのスピードは、人間のまばたきにかかる時間は約0.2秒なのに対し、獲物を捕らえるために牙を打ち込む時間はわずか0.09秒未満という素早さである。その存在にサリが気づいた時には、まさにギリギリの間合いであった。
(…距離を取らないと!)
サリは、間合いに入られる前に急いでパフアダーから離れようと後方へジャンプする。それより一瞬早く、スルスルと間合いを詰めてきたパフアダーはサリめがけて飛び掛かっていた。
「…!?」
あわやという瞬間、オレンジ色の影がサリとパフアダーの間に立ちはだかった。リンバであった。空中で飛び掛かったパフアダーは、そのままリンバの腕に深々と牙を打ち込むと、素早くその腕に巻き付いた。リンバはそのまま地面へ着地すると、ズシーンッという重い地響きを立てながら、ゆっくりと横へ倒れていく。
「リンバッ!!」
パフアダーはリンバの腕から巻き付いた体をほどくと、スルスルと蛇行しながらリンバの元を離れ、マウアの方へと戻っていった。そしてマウアの体にするすると巻き付くと、まるで主人に甘えるかのようにすり寄った。
「あら、サリじゃなくて大きなお猿さんの方をしとめたのね。ふふっ」
マウアはまるでかわいいペットを手なずけでもしているかのように、パフアダーに舌でペロペロと指先を舐めさせている。その言葉を聞いた瞬間、サリの中で何かが変化した。目が緑色の光を帯び、犬歯が伸びて牙のように剥き出しになった。
「よくも、リンバを…!!」
サリは、猿のような動きで素早く枝から枝へジャンプしながら、マウアに向かって猿が低く身構えるような姿勢を取った。サリの手指の形は猿の手のような雰囲気に変わっており、上半身の筋肉が異常に発達した姿をしている。それは初めて経験する獣人化であった。
(…リンバの力が流れ込んでくる……パフアダーの毒は猛毒のはず。なのに、リンバはまだ意識がある……)
サリにはおぼろげながら理由がわかる気がした。オランウータンは、毒性のある植物を日常的に食べる中で、強力な解毒の力を持つようになっている。リンバもまた、その力で今も必死に毒と戦っているのだろう。
(リンバが耐えてくれている……なら、私も負けられない!)
「……メタモルフォーゼ……まあ、サリ。あなたそんな力まで持っていたのね」
マウアはサリの姿に驚いたような表情をしながらにこやかに話しかけたと思った瞬間――その姿が消えた。
「…ホント、厄介だわ」
サリの目の前にマウアが突然現れた。その目は赤い光を帯びながら瞳孔が蛇のように細長くなっており、笑顔のまま大きく開いた口から覗く犬歯が蛇の牙のように伸びている。黒い皮膚はところどころ蛇の鱗が浮かび上がっていた。マウアもまたメタモルフォーゼの能力を会得していたのだった。身体中の筋肉が蛇のように動き、全身をバネのように使いながら、パフアダーが獲物に飛び掛かる能力がそのまま乗り移ったかのように襲い掛かった。
「!」
突然の奇襲ではあったが、サリの緑色の光を帯びた目に驚愕の色はなかった。猿のように低く構えたままスッと攻撃線上から外れた方向へ身を躱したかと思うと、パフアダーを警戒するように樹の枝を盾にしながら縦横無尽に動き回る。…と、思いきや、その動きは、いつの間にかマウアに巻き付いたパフアダーを狙うものに変わっていた。
(バヤンガンを倒せば、獣人化の能力も使えないはず。私には聖盤を壊すことは出来なくても……リンバのこの能力なら、パフアダーを倒すのは難しいことじゃない!)
マウアのパフアダーは、初めは忍び寄るように相手に迫ったとしても、一度姿を現した後はマウアの身体に巻き付いて離れない。その後は、メタモルフォーゼしたマウアをメインに、パフアダーは補助するように戦うというのが、二人の戦闘スタイルであった。それをサリは本能的に見破ったのである。
「あらあら……困ったわ。サリの考えていることわかっちゃう。……この可愛いパフアダーを狙っているのね。どうしようかしら?」
そう言いながらマウアが木の幹に寄りかかると、身体はそこで支えられて止まるどころかまるで骨など存在しないかのように腕や体が巻き付いていく。顔は、瞳孔が縦長で犬歯が蛇の牙のようになっている以外は端正で可愛らしい顔立ちのままなだけに、余計に首から下だけが蛇のように動くのが不気味であった。
「隠れても無駄よ!…森が、私の味方をしてくれる!」
サリは枝から枝へと素早く飛び移りながら、マウアへと迫った。
「……いいのかしら?あなたが向かってくるということは、私にとってもチャンスなんだけど」
サリがパフアダーを狙っているように、マウアもまた蛇の目で冷静にサリの動きを追っていた。サリが枝に飛び移り終えた瞬間に狙いを定めると、再びパフアダーの力で飛び掛かっていく。だが、サリは冷静に躱しながら猿の能力で素早くパフアダーを掴もうと手を伸ばしかけた。
「…!?」
マウアの蛇のような目が密かに笑った。先ほどまで体に巻き付いて肩口から顔を出していたパフアダーは、いつの間にかマウアの太ももから足首にかけて移動していた。パッと黒い影が飛んだ。パフアダーが第二の矢、それも隠し矢となってサリに襲い掛かったのである。
(来たっ!)
どこかでパフアダーが飛び掛かってくるであろうことは、サリも覚悟していた。サリは空中で器用に身を翻し、メタモルフォーゼした猿の手でパフアダーの胴体を掴むと、そのまま渾身の力を込めて引きちぎった。
(やったっ!!!)
だが、異変に気付いたのはその時だ。すれ違ったマウアは木の枝に着地したかと思うと再びサリめがけて飛び掛かってきたのである。狙っていたのはサリの首筋だった。そこに毒を食らえば、いくらリンバの力で毒への耐性を共有できると言っても、すぐに脳や心臓へ毒が回って命が危険なのは間違いない。
(…!!!…メタモルフォーゼが解けてない!?)
マウアの牙がサリの肌に深々と食い込んだ。プツッっと鮮血が飛び散る。
「うぐぅっ!!」
サリは歯を食いしばった。腕から熱いものが広がっていくのがわかった。サリは腕で首を庇いながら、かろうじてその部位に毒を撃ち込まれるのだけは免れたのである。もし、その手でマウアの顔を殴りに行けば蛇のような素早い動きで腕をすり抜け、やはり首筋に食らっていただろう。空中で絡み合った二人はそのまま地面の方へ落ちていきながら、片やマウアは空中で体勢を立て直して地面に立ち、サリの方はそのまま地面へと叩きつけられた。
「……ぅう……」
(…意識はある……リンバの力で守られているのね……でも、この毒……いつまで持つかしら……)
「いらっしゃい」
マウアが草むらに向かって声をかけると、そこからもう一匹のパフアダーが出てきた。マウアに絡みつくようにして顔のすぐそばに寄り添って舌を出し入れしているその目は赤い光を帯びている。こちらが本物のバヤンガンであった。
「一人で怖かったでしょう?……でも、あなたが仲間を操ってくれたおかげで助かったわ。仲間の方はまた死んじゃったけどね」
『また』というのは、前回ジャヒに倒されたパフアダーのこと言っているのだろう。毒と飛び掛かるスピード以外は決して強いとは言えず、下手をすれば普通の人間にも捉えられてしまうようなパフアダーだが、本体と傀儡をうまく使い分けるのがマウアの戦術なのだ。パフアダーに話しかけていると、遠くから足音と声が近づいてくるのがわかった。騒ぎを聞きつけたモリト族の仲間たちだった。
「サリ!!何があった!?」
マウアはその声を聞くと、パフアダーを体に巻き付けたまますっと後退した。そして去り際に、振り返りながら言った。
「さようなら、サリ。また会いましょう。…もっとも、あなたが生きていたらの話だけど……うふふ」
まるで天真爛漫な笑顔とでもいうような、朗らかな笑顔だった。マウアは一瞬間を置いて、独り言のように続けた。
「……アディリはやれなかったけど、アディリの孫娘をやったのなら、お姉さまも褒めてくれるかしら?」
その声は、まるで何も罪を知らぬ少女のように軽やかで無邪気だった。それがかえって、ぞっとするような恐ろしさを醸し出している。マウアの姿は、あっという間に森の外へと消えていった。
その時――。
突然、シオンが、気絶したように悠の肩から滑り落ちた。クレアと一緒にルジナの元を訪れて、バラカやジャヒたちと共に談笑していた時だった。
「シオ……ン!?」
それは、一瞬の映像だった。悠の頭の中に、モリト族の村らしき映像が鮮明に映し出されたのである。
画面奥には、どこかフィティナに似た印象の少女がおり、手前ではサリが倒れている様子だった。
(サリ!!……この映像は………まさか……!?)
黒い肌をした少女の身体には蛇が巻き付いていた。映像は消えたが、シオンの目はまだ開かないし、動き出す様子もない。悠の心臓は激しく動悸を打って居た。
「何かあったの?ユウ」
すぐに悠の様子から異変を感じたクレアが尋ねた。
「……サリが倒れている映像が見えた…」
(見間違いだろうか…これだけ距離が離れているのに……)
湧き上がってくる不安の中、悠が心の中で呟いた時、ようやくシオンが目を開けた。ピクピクと体を震わせながら、まだ体が上手く動かない様子ながらも、必死に何かを訴えるような目で悠を見ている。
「……何かあったみたいね」
クレアの声が緊張を帯びている。悠は真剣な表情をしながらルジナの方に向き直った。先ほどまでルジナの解毒の話を聞いていた悠の口から出てきた言葉はただ一つだった。
「ルジナ……僕と一緒にモリト族の村へ行ってくれないか?サリが、危ないんだ!!」
ルジナは即座に頷いた。
「ええ。悠がそう言うのなら間違いないわ。急ぎましょう」
それは、悠に対する絶対的な信頼の証であった。
「バラカ、後を頼みます」
ルジナは必要最低限の言葉だけで、テキパキと治療ための薬の準備と、留守の間の指示をする。すぐに出発の準備は整った。
「ロボ、ルジナを乗せてくれ。行こう、クレア、レイラ!」
悠は、走り出した。シオンの『精神の翼』は一瞬とはいえ、それまで検証してきた距離を越えて、悠の元へ視覚共有の映像を届けた。もちろん、まだ確証したわけではない。だが、悠の中でシオンの能力への疑いはなく、むしろ、何かがぼんやりと掴めてきた感覚があった。
(心の翼……)
悠は、心の中でそう呟いていた。




