第12話 第三章 ~少年の覚醒と、旅立ちの広い空~(五)
ルジナの洞窟を出ると、そこにはすでに圧倒的な星空が、天の川の奔流と共に広がっていた。
「ユウ。最後に…上に登ってみましょうか?」
「うん、行こう!」
豹と狼の守護獣を宿す二人は、夜の闇を恐れるどころか味方にするように、岩から岩へ、崖を軽やかに跳んで駆け上がっていく。
「わあ。相変わらず、すごい星空だなあ。空から星がこぼれ落ちてきそうだ!」
悠が満天の星々を見上げながら、感嘆の声を漏らした。何度見ても、まるで吸い込まれそうな気持ちになるほど、高く深い空。
「それに、この静けさ…」
耳をすませば、心地よい静寂と、夜の涼風が、皮膚を通って身体中に沁みわたっていく。そして隣に感じる柔らかくて微かな息遣い。
(…この谷を離れるのは寂しいけど、クレアがいて、レイラやロボもいる…)
未知の旅への不安はなかった。それよりも、ついに父親探しが始まるのだと思うと、胸の奥が熱く高鳴ってくる。
(あれから2年か…父さんも心配しているだろうな。今もどこかで元気にしてくれてるだろうか…)
「ユウは…元の世界に帰りたい?」
ふと、夜風に混じるような小さく尋ねる声がした。クレアだ。
「それは、もちろん…。その、母さんだってきっと、毎日心配しているだろうしね」
悠の答えを聞きながら、クレアは乾いた土の上に腰を下ろすと、膝を抱えるようにしながら星空を見上げて静かにこう続けた。
「私は怖い…。きっと元の世界に戻っても、うまく馴染めない気がするし、どこへ行けばいいのかもわからない…」
「…クレア…」
悠にとって、まさかクレアが「怖い」という言葉を口にするとは意外でしかなかった。今日、あの『黒の信徒』と戦っている時でさえ、彼女は一瞬の戸惑いも見せなかった。この満天の星空の下で…隣に座るクレアの心に思いを馳せると、その奥にしまい込んでいた孤独と寂しさにほんの少しだけ触れた気がした。
「私にとって…元の世界に戻ることは、本当に幸せなのかしら?…ごめんなさい。ついそんなことを考えてしまうの」
「…ううん。僕だって…。母さんや友達のことがなければ…わからなくなっていたかもしれないよ」
悠はクレアの言葉に虚を突かれたように、ここでの生活を思い返した。頭の中に色鮮やかな光景が蘇ってくる。
確かに、黒の信徒に襲われるような恐ろしい出来事もあった。けれど、それ以上に悠の心に深く根を張っていたのは、この世界の暮らしに対する深いリスペクトだったのだ。
「……僕は今まで、大自然がこんなにも豊かで、温かいものだなんて知らなかった。村のみんなは、当たり前のように分け合って……。例えば『狩り』だって、以前の僕なら野蛮だと思っていたかもしれない。でも、彼らは命に感謝して、何ひとつ無駄にしない。本当に大切なことを、ここで教わった気がするんだ」
(そうだよ。元の世界に戻れば、まずはお金がなければ生きていけない。どうしてそれが、今はこんなに窮屈に感じるんだろう。……なんだか、大切なものをたくさん失っている気がする)
悠の頭の中を一瞬、奇妙な違和感がよぎった。
(……待てよ。『黒の信徒』……この世界であの人たちが主張していることだけが、まるで僕たちのいた世界の話をしているみたいだ……)
だが、その違和感よりも、今は隣に座っているクレアとの時間の方が何万倍も大事だった。
「もし…『黒の信徒』のことさえなかったら、私はこの世界で最後まで生きて、そして死んでいったとしても、悔いはなかったかもしれない…」
「それが、クレアの正直な気持ちなんだね」
「うん…」
クレアが、これほどまでに素直な想いを話してくれることが、悠には何よりも嬉しかった。
この圧倒的な星空の下で、彼女とゆっくりと静かに語り合えるこの瞬間。一生の中で、こうした瞬間をどれだけ経験できることだろう。
「僕は、元の世界に帰ることしか考えてなかった。…だけどクレアと話をして、僕もこの世界が大好きなんだって気づいたよ。これも僕の正直な気持ちなんだ」
「ユウ…」
「それとね…クレア。今日は、ありがとう。僕を、ムワンパたちのところへ送り出してくれて。…その…ハグしてくれたことも」
悠が勇気を出して伝えると、クレアは一瞬、戸惑ったように瞳を揺らしたが、すぐに小さく微笑んで答えた。
「ユウが…辛そうだったから」
「…う、うん」
悠は、眩しそうに目を細めながらクレアを見つめた。心の距離がこれほどまでに近づいたと感じたのは、初めてのことだった。
「さあ、そろそろ戻りましょうか。明日は早いもの。おやすみなさい、ユウ」
クレアは立ち上がると、しなやかな身のこなしで崖の下へと降りて行った。
悠は、風に乗って届く微かな花のような残り香を感じながら、彼女と過ごした時間を噛みしめるように、しばらく一人で星を眺めた。
(旅が……始まるんだ!)
翌朝。
まばゆい朝の光が谷を照らしていた。悠とクレアが谷を振り返ると、二人で過ごした修行や生活の日々が思い出されて、谷から吹き抜ける爽やかな風が、二人の旅立ちへの祝福と、さよならを告げているようにも思えた。
悠の隣にはロボが、クレアの隣にはレイラが寄り添い、それぞれの足音が、乾いた土を懐かしむように優しく踏みしめている。
谷を抜ける道すがら、悠は何度も視線を巡らせた。朝露に濡れる岩肌、風に揺れる木々……その景色を魂に刻み込むかのように、一歩一歩の感触を噛み締めて歩いていく。
村の境界にさしかかると、家々の影から村人たちが次々と姿を現した。彼らは大声で叫ぶ代わりに、ある者は胸に手を当て、ある者は静かに掌をこちらへ向け、部族の古い礼節をもって二人を見送った。その中心には、ひときわ穏やかで深い慈愛を湛えたルジナの姿があった。
悠は彼らへの尽きぬ感謝を込め、大きく手を振りながら叫んだ。
「――いってきます!!」
その声はどこまでも高く、澄み渡った空へと抜けていった。
悠はもう、後ろを振り返らなかった。クレア、レイラ、そしてロボと共に、力強く前を向いて歩き出した。
―数日後―
サバンナ最大の集落。そこには通称「巨大な水飲み場」と呼ばれる市場があった。
いたるところで物々交換が行われ、人とすれ違うことすら少ないサバンナにおいて、唯一、色んな部族の者同士が行き交う場所でもある。
角や骨が触れ合うカタカタという音と、樹皮を叩いて作った布の擦れる音が渦巻き、干した肉、琥珀色の蜂蜜、丁寧に削り出された木の器が、別の誰かの持ち寄った塩や芋と交換されていく。
ここでは最近、二つの大きな噂が流れていた。
一つは、
「黒の信徒たちが、自分たちの歪んだ教義を主張せんがために、一方的にルジナの村を襲い、ダナ族全体に戦争をしかけた」
と、いう噂と、もう一つは、
「白い肌の証人が、黒の信徒を無残に殺し、白人が再び黒人を支配しようとしている」
という噂であった。
…その日。市場の入り口近くに、二人の死体がアカシアの木に吊るされるようにして晒されていた。
剝き出しの肌には獣が咬んだ跡や、爪痕が多く残されている。
一人は男。一人は女。
本来、魂が抜けた肉体は速やかに大地へ返さねばならない。
それが、命の循環を説くこの世界の慣わしだった。
しかし、彼らの魂はいまだ縛り付けられている。
ムワンパとラヤ。
それが二人の名前だった。




