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第25話 劉洪

 「今日の揚がりだ。受け取りな」


脂と埃でけぶった室内に、一際光る銀器、金細工。机に置かれたそれを見て、歯の抜けた老人が笑った。


「お前さんが誤魔化さずに納めてくるたぁなぁ。どういう風の吹き回しだよ」


面布で顔の下半分を覆った青年が返す。


「育ての親にたまには孝行してやろうってんだよ。疑うのか」


「はっはっは、いたち劉洪りゅうこうが親孝行だなんて、天地がひっくり返ってもありえねぇ」


劉洪と呼ばれた青年はズイと金品を老人に押し付けると荒屋を出て薄暗い路地をさらに奥に進んだ。

“占”と白く描かれた灰色の壁の木戸を開き、劉洪は卓の後ろに座っている少女に声をかけた。


「おう、帰ったぞ、玉玲ぎょくれい。今日は客の入りはどうだ。まあ、閑古鳥でも問題はなくなるんだがな。もうすぐ」


「兄さん、どうしたの?ずいぶん楽しそうじゃない」


玉玲と呼ばれた少女の顔には、生まれつきの赤い痣があった。遊女として客を取るには不都合のある顔だったが、幼い頃から神がかりの占いの才があったから、なんとか劉洪の盗みの稼ぎと合わせてやってこれた。


「一発逆転の計画が思いついたんだ。もう、こんなところとはおさらばよ」


「大臣の婿の話……?」


劉洪は面布から笑声を漏らした。


「お前も奴を見たか!神様は俺を見捨てていなかった。事が成ったらお前も呼び寄せてやる、だからそんな顔するなよ」


玉玲は悲痛な面持ちで、欠けた茶碗の中に鼠の骨を入れた。茶碗を伏せて布の上で滑らせる。しばらくして茶碗を上げると、鼠の頭蓋骨だけが他の骨と離れた位置にあった。


「ここのところ、兄さんのことを占うといつもこうよ」


「だからどうしたって言うんだ!」


劉洪は机に拳を振り下ろした。鼠の骨が砕け、粉となってあたりに散らばった。


「世の中には確かにそういう人がいると言う。だけど、その人と会うのは不吉なこと。馬鹿なことを考えるのはやめて。あたしたち、今まで二人で生きてこれたじゃない」


「死んでいないだけだ。かろうじて、息を吸っているだけ。そんなもんは生きているとは言わない!」


劉洪は手を払って出ていこうとした。


「兄さん!」


追い縋って腰に捕まる妹を、劉洪は引き剥がそうとする。


「離せ、成功したらお前も呼び寄せると言ってるだろうが」


「やめて、今なら引き返せるわ!」


「聞き分けのないやつめ!」


妹を強引に振り解くと、その顔を劉洪は殴りつけた。

後ろに転がっていった玉玲は机にぶつかると、ようやく止まった。


「こんなことはしたくなかった。お前が悪いんだ、お前が……??玉玲?玉玲ッ!!」


劉洪は机を背にしてぐったりとしている妹に駆け寄った。頭に手をやると血と髪の毛がべったりと絡み付いた。


「そんな、そんな」


蒼い顔をして俯いていた玉玲は、唐突に顎をあげて目を見開いた。その目は青白く濁っていた。玉玲がとりわけ不吉な占いを告げる時の、神がかりの時の顔だった。


「紅く染まった映し身は、お前自身の姿だ。お前もまた映し身によって紅く、紅く、染め上げられる」


老婆のような声で言い放つと、玉玲は事切れた。


 夕焼けが紅く河水を染める。

新婚の蜜月が終わった陳光蕊ちんこうずい温嬌おんきょうの夫婦は、江州へ向かう船の中にいた。

数週間前、陳光蕊は、太宗皇帝の命により江州長官の任を仰せつかったのである。


「江州ってどんなところなのでしょうね。私、長官婦人としてやっていけるのかしら。貴族のご婦人方にいじめられたりとか……」


「大臣の娘をいじめるような慮外者はいないさ。それに…」


「それに?」


陳光蕊は温嬌を抱き寄せると耳元で囁いた。


「どんな時も僕がついている。安心して」


温嬌は耳を紅くする。


「あのね、江州についてから言おうと思っていたんだけど」


その時、ぐらりと船が揺れ二人は悲鳴を上げて引き離された。

船は暗く葦の生い茂った岸に船首を突っ込んでいた。


「船頭さん!まさか、こんなところで降ろすつもりじゃないだろうね」


しゃがんで妻を抱き起こしながら、陳光蕊は若干の怒気を孕んだ声で船頭を呼んだ。

無精髭の船頭は、にやにやと笑いながら言った。


「それが、そのまさかでさぁ」


「なんだって?」


陳光蕊の視界が急に暗くなった。背後に誰かが立っている。


「お前にはここで降りてもらう。お前だけ、な」


振り向くと面布で鼻から下を覆った男が牛刀を手にして立っていた。


「この俺が、今日から陳光蕊だ」


「何を言って……」


牛刀を手にした男は、片手で面布を引きちぎって外した。

そこには、陳光蕊と瓜二つの男が立っていた。

唖然とする陳光蕊の耳に風を斬るような音が響いた。ついで熱い感触が左肩から右腰にかけて走った。

陳光蕊は胸を押さえるとその掌は夕焼けと同じ色に染まっていた。


「温嬌……」


陳光蕊は妻に手を伸ばそうとしてそのまま船底に崩れ落ちた。

陳光蕊と瓜二つの男、劉洪は、その屍の襟首を掴むと河に放った。

そこまでいたってはじめて温嬌は悲鳴をあげた。

否、あげようとした。

温嬌の口を押さえて劉洪は言う。


「お前は今まで通り陳光蕊の妻として振る舞え。真実を言えば命はない」


温嬌の手はひとりでに自分の腹を抑えた。


劉洪は船室にあった陳光蕊の辞令を盗み、温嬌とともに江州に乗り込んだ。

劉洪は有能な男であった。江州の長官として何事も素早く採決し、科挙を目指すような秀才には珍しく、果断な人物だとして評判になったほどだった。

温嬌は亡くなった本当の夫を想い毎日泣き暮らしていたが、そんな温嬌を意外にも劉洪は丁重に扱った。そうされると温嬌も劉洪の事を憎み切れなくなり、ついには男女の関係を結んでしまった。


「私は生きている。浅ましくも、夫の仇に抱かれてまで」


庭の池に浮かぶ蓮の花を眺めていると、しだいに気分が悪くなってきた。

つわりだ。

死ねなかった理由なんかわかっている。

この子を守るためだ。

しかし、劉洪は、産まれてくるこの腹の中の赤子が陳光蕊の種だと勘づいているらしかった。

それでいて臨月までどうせよとも言わなかった。


温嬌が床につき、夢の中に落ちていった。

温嬌が闇の中を歩いていると光が一条差し込んだ。

光の方角から声が響く。


「我は南極星君である。観音菩薩の使いで参った。そなたの子は仏の意思を受け、世に名を成すものである。しかし、そのためにあらゆる悪を敵に回すこととなる。最初の危難を避けるため、その子が生まれたならば川に流せ。川に流すのだ」


温嬌が目を覚ますと傍には玉のような子が寝かされていた。

夢現の内に我が子は産まれていた。

寝ている間に産まれるなどという事があり得るのか。これも御仏の力なのか。


「この子を川に流すだなんて……ああ、しかしそうしなければ今の夫に殺されてしまうかも知れない」


温嬌は自分の指先を噛み切ると血で我が子の肌着に父と母の名前を書き記した。

そうしてから、何を思ったか、我が子の足の小指の先を噛みちぎった。

火がついたように泣き出す赤子をたらいに乗せ、近くの川に浮かべる。


「もし、天が憐んでくださるなら、再び顔を合わせることもありましょう。さようなら、可愛い子。どうか……わたしを恨まないでおくれ」


川は運命の流れのように、ゆっくりと赤子を運んでいくのであった。

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