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第26話 玄奘

 「きゃっ、玄奘げんじょう様がこっちを向いたわ、私を見たのよ!」

「違うわ、私を見たのよ」


寺の庭からは、若い尼たちの黄色い声が響く。

玄奘と呼ばれたる紅顔の美青年が廊下を進んでいく。鼻は高く、目は深く澄んでいる。抜けるように白い肌に、筆で描いたかのような美しい眉、桜色の唇。神仏が自分の似姿としてつくりたもうたかのような、そんな容貌の若者であった。

若い門弟達が堂内に集まっている。この金山寺では、仏典の知識を問う試験が定期的に行われている。その結果が張り出されているのだ。

結果はいつも同じ。玄奘が満点合格で首位、ここ数年はいつもそうだった。

玄奘は結果を確認すると自室に戻るため引き返した。しかし、その背後からついてくる一団があった。兄弟子達だ。


「よう、色男。いつもどんな手を使ってるんだ」


「何も特別なことなど。ただひたすらに仏典を読んでいるだけです。先輩方も身を入れて読みさえすれば、私などの及ぶところではなくなるでしょう」


「本当のことを言えよ。尼をたらしこんで、試験問題を盗んでいるんじゃないのか?それか、和尚に尻でも貸したか」


尼達は試験の準備を担当していたが、もちろん玄奘はそのような卑劣な真似はしていない。まして、法明ほうみょう和尚は清廉で有徳の高僧であるし、玄奘の育ての親でもある。そんな破廉恥な関係にあるはずもなかった。


「さすがに聞き捨てなりませんな。私のことはともかく、和尚様まで中傷するとは」


「へっへっへ、わからねぇよ。なにせ、お前は雌犬の子だからな」


玄奘は怒りのあまり青ざめてしまい、返って声が出せなくなった。


「何も言い返せないか?捨て子だってんだから間違いねぇ。お前はきっと売女の子どもだ。売女の子どもはやっぱり色仕掛けが得意なのさ」


「お前たち、何をしておるッ」


法明和尚の声が聞こえると、兄弟子達は慌ててその場を去った。玄奘は法明がその肩を叩くまで、呆然と立ち尽くしていた。人の悪意が、若者の脚を絡めて止めてしまったのだ。


「和尚さま、なぜ私には父母がいないのでしょう」


「いないというわけではない……出家の身でありながら、家族に恋々としているようでは駄目だぞ、玄奘よ」


玄奘は、和尚の肩を掴むと揺さぶった。


「私は、私は、出家などしていません!出る家など私にはなかった。最初から捨てられて、寺で育ったのだから」


堰を切ったように感情が溢れた。


「私を捨てた実の父母に今更どうしてほしいというわけでもありません。ただ、私は父母がどんな人かも知らない。ひどい話ではありませんか」


法明和尚は玄奘を見据えると言った。


「お前の気持ちを考えず、僧侶の道を歩ませたのは誤りであった。お前の父母について伏せていたことも。お前ももう十八、知った上で判断するという道もあろう。ついてきなさい」


 「陳光蕊ちんこうずい、それが私の父の名……陳光蕊とは江州の長官の名ではありませんか!」


玄奘は法明から渡された肌着を驚きのあまり取り落とした。それは赤子の時に自分をくるんでいたという肌着、父母と思しき人物の名が記された肌着であった。


「ああ、そして温嬌おんきょうとは丞相の娘である」


「どうしてそんな地位にある方が子供を捨てるのでしょう」


法明は首を振る。


「わしにもわからぬよ。それに何かの悪戯かもしれぬしな。役所へ届け出ようとも考えたが、その度に夢枕に観世音菩薩が立ってこう言われるのだ。まだ時ではない、とな」


「まだ時ではない……」


玄奘は肌着を法明和尚から受け取ると、それから数日は何をするにも上の空であった。

ある日、玄奘はおもむろに旅支度を整えて法明の前に現れた。


「しばらく、托鉢の旅に出させていただきとう存じます」


「わかった……しかしな、玄奘よ。真実を知ることが必ずしも幸福につながるとは限らぬ。その事は肝に銘じておきなさい」


やはり見抜かれていた、と玄奘は恥ずかしくなったが、それでも許してくれる法明の優しさが胸にじわりと染み込んでくる思いがした。


 江州の長官の邸宅はすぐに見つかった。威容を誇る巨大な建物が、小さな寺で過ごした玄奘を威圧してくるようだった。

気持ちを落ち着かせるために玄奘は手を合わせ経を唱え始めた。


「もし、お若いお坊さん。あなたはどこのお寺の方?」


振り返ると、伴の女性を引き連れた綺麗な身なりの婦人が背後に立っていた。


「私は、金山寺の法明和尚のところで修行しております、玄奘という者です」


「ああ、川向こうのねぇ」


婦人は玄奘の顔を覗き込むように見る。


「お坊さん、よかったら家に上がってご飯でも召し上がりなさい」


玄奘には確かめねばならぬことがある、お言葉に甘えて、ということで屋敷に上がる。

食事を頂いている間も婦人は時折玄奘の顔を覗き込むように見つめた。


「それで、お坊さんは最近出家なされたの?それともうんと前から?」


「私は……生まれた時から寺育ちで、いつ出家したとも言い難い。誰かに捨てられて、寺で拾われたのです」


玄奘は肌着を懐から取り出して見せた。


「これが本当の親の、唯一の手がかりです」


婦人は持っていたお茶を取り落とした。

給仕をしていた女中が驚いて駆け寄る。


「奥さま?」


「お、お坊さんがお帰りだよ!早く支度なさい」


「奥さま、どうなされたのです」


「聞こえなかったのかい!お坊さんがお帰りになるの!」


すごい剣幕だ。

玄奘は追い出されるようにして、屋敷を去ることになった。

玄奘は婦人の態度を訝しく思いながら、何度も屋敷の方を振り返った。

屋敷の中で実の母が伏して泣いていることを、その時の玄奘は知るよしもなかった。

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