1.平穏な日々
「お嬢さまー! エミリアさまー!」
己を探すジェシカの声を聞きながら、エミリアは深呼吸し森の空気を味わった。木と土の匂いが漂う静謐な森林は、神秘的でさえある。
エミリアはこの風景を愛していた。
その森の静寂が破られる事を少し残念に思いながら、エミリアは返事をした。
「なーに、ジェシカ。ここよ」
しばらくして、ジェシカがやってきてふうと一息ついた。丸々とした温和そうな顔に汗をうっすらかいている。エミリアが生まれる前からずっと家に居る、世話焼きの女中は額の汗をぬぐいながら口を開いた。
「お嬢さま、此方でしたか。こんなに森の奥まで来ると、蛇に噛まれますよ」
「大丈夫よ、この辺りはまだ明るいもの」
森の奥は、昼間でもうっそうと生い茂る樹木に光を遮られ暗く陰っている。陰ってじっとりとした場所には毒を持つ蛇が生息しているのが常だ。
過去、森の中で毒蛇に噛まれた人を何人か見たことがある。その中の一人を、エミリアとジェシカが助けたこともあった。
それを同時に思い出した二人は、顔を見合わせてふふっと微笑みあった。
「あの時は慌ててしまったけれど、助かって良かったわね、あの子」
「お嬢さまは落ち着いて見えましたよ。でも『あの子』なんて言ってはいけません。どこぞの上位貴族のご令息なのは確かなんですから」
「それもそうね」
あれは八年ほども前になるだろうか。エミリアが森で助けた子供は、見るからに身分が高そうな風体をした男の子だった。そんな子がどうして森の中に入り込んでいたのかはよく分からなかった。ともかく蛇に噛まれ毒に倒れていた、少年とも言えないような年齢の、ルーファスと名乗る子供を二人は助けたのだ。
最初にルーファスを見つけたのはエミリアだった。蛇に噛まれたと知って少し慌てたが、つい数日前に使用人が同じく蛇に噛まれ、治療の一部始終を目の前で見ていたのが幸運だった。
助けを求めて倒れ伏したルーファスにエミリアが処置し、そして後から来たジェシカが毒を中和する分解液を家に取りに走って事なきを得たのだった。
「あの子、今では元気になっているのかしら」
高熱で意識が朦朧としながらも、エミリアの手を縋るように握る、細く小さな指を思い出す。
その翌日には熱が引いたが、心細いのかエミリアと手を繋いだままでぽつぽつと話をしたように覚えている。結局、その日のうちにルーファスを探していたという彼の家の者たちが迎えに来て、会うのはそれきりになってしまった。
そんな事を回想していると、ジェシカが大きく頷いた。
「元気ですよ」
「どうして分かるの?」
「今年もまた、たくさんの贈り物が届いたんですよ。手紙もあって、お使者の方がお嬢さまの返事をお待ちなんです」
「えっ、今?」
「はい、それでお嬢さまを呼びに来たんでした」
「それなら早く行かないと」
エミリアが駈け出そうとしたが、ジェシカはしたり顔で引き留めた。
「女は男を待たせる物なんです。そんなに走って向かうと侮られますからね、ゆっくり行きましょう」
「まあ、ジェシカったら」
こうしてエミリアは、自称『若い頃はモテて男たちを手玉に取った』というジェシカと共に、屋敷に戻っていった。
エミリアの家は荘園を営んでいた。
何代か前の先祖は未墾の地だったこのフロウという土地を、自力で開墾し豊かな私有地とすることに成功した。人を多く使い多いに発展させ、大規模な土地所有に成功すると、エルトワ王国から荘園管理を拝命する形となった。中央の貴族ではないが、一応は身分を与えられている領主になる。
身分は高くないとはいえ、豊かな荘園の中で暮らしているのだ。王都では困窮した貴族が多いと聞くが、そんな彼らよりよっぽど物質的にも精神的にも余裕がある生活だ。そのせいか、エミリアの家では皆がのんびりとしていたし、使用人たちもゆったりと楽しみながら働くのがごく当然という雰囲気だ。
最近出入りしている、ただ一人を除いては。
「慌てたって、何も良いことは無いんですから。誰かさんの言うことなんて聞いていると、忙しないったらありゃしない」
「………………」
ジェシカの愚痴ともつかない話を、エミリアは諌めることが出来なかった。
それはこの家の誰もが思っているがどうしようもない事だと諦めている、今一番の悩みの種だった。




