第七十話 新たな夜明け
初夏の江戸湾は、明るかった。
波が穏やかで、遠くに勝が指揮した小艦隊の影が見えた。白い煙を出しながら、ゆっくりと動いていた。
俺は岸辺に立っていた。一人だった。
(俺はここに来て——7年が経とうとしている)
1853年の夏に目覚めて、今が1860年。
ペリーが来た日のことを覚えている。浦賀沖で黒船を見た時の、あの感触。「どうする。俺に何ができる」という最初の問い。
(あの時の俺は——何も持っていなかった。知識だけを持った、この時代の何者でもない人間だった)
今の俺には、川路がいる。岩瀬がいる。勝がいる。澄がいる。
(現代に帰りたいと思っていた時期があった。最初の一年は、毎日そう思っていた。帰れるなら帰りたいと。しかし——)
いつからか、その思いが薄れた。川路と初めて本当の話をした夜。岩瀬と「意味がある」という言葉を共有した時。勝が江戸湾に艦隊を出した日。澄が「味方です」と言ってくれた夜。
(俺は神田伊織だ。徳永蓮ではない——もうそれが自然になっている)
「何を見ているのか」
川路が横に来た。
「俺がここにいていい理由を、確かめていました」
「ここにいていい理由」川路が繰り返した。「そんなものを確かめる必要があったのか」
「あったんです」俺は言った。「昔は」
「今は」
「今は——見つかりました」
川路が江戸湾を見た。しばらく黙っていた。
「それでいい」川路が言った。
その言葉は短かったが、俺には十分だった。
その夕方、使者が来た。
「薩摩藩より、幕府との協議を望む、という書状でございます」
川路が受け取って、俺に渡した。
俺は書状を読んだ。
(薩摩が動いている。史実の地図がない世界で、薩摩が次の動きを始めた。俺には、この先に何が来るか分からない)
「どう見る」川路が聞いた。
「脅威です。しかし——今の幕府は、5年前とは違います」俺は言った。「対話できる準備がある。それを使います」
「第二の戦いが来る、ということか」
「はい」
「お前は怖くないのか」
俺は少し考えた。
「怖いです」俺は正直に言った。「歴史の地図が使えない。どこに何が待っているか——俺には見えません。しかし」
「しかし」
「仲間がいます」俺は言った。「川路様がいる。岩瀬殿がいる。勝がいる。それで十分です」
川路が静かに頷いた。
「……そうだな」川路が言った。「それで十分だ」
江戸湾の夕日が、海を赤く染めていた。
幕府の小艦隊が、その光の中を進んでいた。
俺は神田伊織として、この時代に立っていた。
次の戦いが来る。史実の地図はない。しかし——。
ここが俺の場所だ。
それだけで、前に進める。
第一部 完
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