第六十三話 改変の余波
井伊直弼は、大老職を辞した。
事件から三週間後のことだった。「重傷を理由に」という名目だったが、実質は政治的な終わりだった。雪の中で大老が浪士に襲われたという事実が、幕府の権威を大きく傷つけた。
そして、安政の大獄が終わった。
拘束されていた人物が、少しずつ解放されていった。
「……これで終わったのか」
川路が俺に言った。
「終わりではなく、始まりです」
「始まり」川路が繰り返した。「何の始まりだ」
「幕府が変われるかどうかの、本当の問いが始まります。威圧で止められていた動きが、これから一気に出てきます。薩摩も、長州も、幕府の弱さを試してくる。それに対して——幕府がどう答えるか」
「お前は先が読めるか」
「読めません」俺は正直に言った。「今日以降の世界は——俺が知っていた歴史とは違います。俺の知識は、もうこの先の細かいことは教えてくれない」
「……それは、困らないか」
「むしろ——」俺は少し止まった。「むしろ、良かったと思っています」
川路が俺を見た。
「変だな」川路が言った。「地図がない方が良かったとは」
「地図がある状態での改変は、地図を持ちながら別の道を歩くようなものでした。地図が正しいか間違いかが常に不安だった。しかし今は——地図がない。自分の目で見たものだけを信じて歩ける」
川路が少し沈黙した。
「神田」川路が言った。
「はい」
「私はかつて——何かが終わった時に、どう生きるかという問いを自分に持っていた」
「……覚えています」
「今、その答えが少し分かった気がする」
俺は川路を見た。
「生きながら動くことだ」川路が続けた。「退いても、逃げても、死んでも——意味がない。この場所で、この幕府の中で、できることを続けることが——私の答えだ」
(川路聖謨。史実では孤独に死んだ人物が、今は違う顔をしている)
「……それを聞けて、良かった」俺は言った。
「お前が言わせたんだ」川路が言った。「お前が『死ぬな』と言ったから、考えた」
「俺は——」
「礼を言う必要はない。しかし覚えておけ。神田、お前のせいで俺はもう少し生きることになった」
俺は笑えなかった。しかし胸の中で何かが温かかった。
「岩瀬が地方から帰れるかもしれません」俺は言った。「安政の大獄が終われば——」
「そうだな」川路が頷いた。「それは早急に動かそう」
始まりが、静かに来ていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




