信条
「……っ!」
上梨の上半身が割れる。
眼前に並ぶのは、肉の紐。
そして、それらを覆う花弁の様な怪物の顎だ。
上梨が、怪物化した。
抜かった……質問に答える方へ意識が向いていたせいで、気づけなかった。
彼女の前で他の女の話だなんて、地雷の定番ではないか。
くそっ、叔父さんが神を見つけてくるまで耐えさえすれば、上梨は人になれるというのに……!
俺は、まだ怪物化したばかりでボンヤリとしている上梨を前に、脱兎の如く逃げ出した。
山道を走りながら、最悪の場合を想定して毒酒をウニョウニョに振りかける。
毒酒はシュワシュワと音を立て、ウニョウニョに呑まれていった。
……これで、最悪の場合でも俺が食われれば上梨は人になれる筈だ。
ぐぱり、と背後から顎の開く音がする。
遂に、上梨が動き出したのだろう。
上梨との距離を確認しようと後ろを振り向いた瞬間、俺は木の根に足をとられて盛大に転んだ。
まあ、運動音痴が慣れない山道を全力疾走したんだ、当然の結果だろう。
……尤も、妥当性がある事と、納得できる事は、全くもって別問題だが。
ともかく、俺が転んだ隙を付いて、上梨は俺に覆いかぶさっていた。
花弁の様な顎から、生暖かい息が漏れ出す。
頬を撫でる上梨の呼気は、腐った果実のような香りがした。
ぐぱり、と顎が大きく開く。
上梨の口内には臓器を思わせる肉紐が無数に生え、テラテラと流れる唾液がグロテスクに喉を艶めかせている。
叔父さんが、上梨を人にする方法を見つけたのだ。
こんな所で喰われてなるものか……!
俺は、上梨を強く抱きしめる。
少しでも、独占欲を満たせるように。
優しく、上梨の背を撫でた。
「あ……」
上梨の姿が、少し人に近づく。
まだ肉紐は生えているが、少なくとも顔は見えた。
「上梨! 正気に戻れ!」
俺の声に、空ろだった上梨の瞳は再び光を取り戻す。
「え、あ……夢じゃない、の?」
寝起きの様な朦朧とした様子で、上梨はゆっくりと周囲を見渡す。
「そうだ、起きろ。そして俺の上から降りろ」
「……そう。ふふ、夢じゃないんだ」
上梨は妖しく微笑み、蠱惑的に小さな口をひらく。
そして、俺の首筋に噛みついた。
「……いっ!」
上梨は容赦なく、ギリギリと俺の首筋を噛み締める。
痛い痛い痛い痛い!
目に涙が滲む。
まだ正気に戻っていないのか?
「か、上梨……痛い、痛いから、止めてくれ」
上梨が、俺の首筋から口を離す。
「食べようとしているんだから、痛いのは仕方が無いじゃない」
上梨は、いつもの調子でそう言った。
完全に正気じゃない。
その癖、喋り方はいつも通りなもんだから、それが酷く恐怖を掻き立てる。
上梨が、もう戻れない所まで行ってしまった気がして……。
「待て待て待て待て! 正気に戻れ!」
「正気って、どういう意味よ。私にだって彼氏を独占したい時くらいあるの……ねえ、良いでしょう?」
上梨は甘えたような声でねだる。
「なあ、本気で俺を食べるつもりなのか? 比喩表現とかでも無く?」
「……っ、そ、そんな比喩しないわよ。そのまま、貴方の全てを口にして消化したいと言っているの」
上梨は照れ臭そうに耳を赤らめる。
いつも通り、いつも通りの仕草だ。
だというのに、言葉だけが酷く歪で……。
「自分で言ってて、おかしいと思わないか?」
「それは、少し恥ずかしいけど……でも、本心よ?」
その反応を見て、俺は核心を口にする覚悟を決めた。
「お前、今……俺を喰おうと……殺そうとしているんだぞ」
ゆっくりと、時間が流れる。
上梨は俺の言葉を飲み込むように、じっくりと俺の目を見つめた。
無言で、見つめ合う。
上梨の眼が、大きく見開かれた。
「え、あ、えっ? な、なにを言って……なんで……だって、あ」
何かがカチリとハマったかのように、上梨の瞳孔が広がる。
「う、嘘……私、貴方を食べようと…………あ、ああ」
上梨は俺に跨ったまま、ゆっくりと目を落とす。
そして、半分怪物化した自らの体を見つめた。
彼女の瞳に、ゆっくりと涙が滲む。
「……上梨」
俺は彼女の背に腕をまわし、抱きしめた。
「…………離して」
俺が離さないのを見て、上梨は泣きそうな声で言葉を続ける。
「私、人間になんてなって無かった。今だって、貴方を食べて良いのか悪いのかさえ分からなくなりそう。人間じゃない、怪物なんだよ」
今までずっと、自分が人間になったと思っていたのだ。
上梨は酷く悲し気に表情を歪める。
「怪物なんて、抱きしめないでよ……」
上梨は、そっと俺の体を押す。
俺の腕は、驚くほどあっさりと上梨から離れた。
「……さよなら」
上梨は一歩、二歩、と俺から離れる。
そして三歩目に差し掛かろうとした時、全ての肉紐が俺に殺到した。
うねり、伸び、棘を逆立たせながら殺到する肉紐。
それらは一瞬で俺の眼前にまで迫る。
「死ぬ気ですか、お前は」
バチンッという大きな音と共に肉紐が弾かれた。
「カサネ! どうして!」
「お前を死なせる訳には行きませんから」
カサネはチラリとこちらを見た後、上梨の方に向き直る。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
今も尚カサネに弾かれ続ける肉紐を、上梨は必死で掴んで抑えようとしていた。
だが、肉紐は強靭だ。
上梨の非力な腕では、まるで抑えられていない。
「っぅ! 止まってよ! 私の体でしょ! 私、食べたくなんてない! 殺したくない! 何で止まってくれないの!」
上梨は癇癪を起した子供のように声を荒げ、肉紐を抱えるようにして蹲る。
「嫌い嫌い嫌い嫌い! 鏡島貴志なんて好きじゃない! 独占欲なんて感じない!」
上梨は泣きながら、嫌い、嫌い、と呪文のように唱え続ける。
しかし、肉紐は俺に殺到し続けた。
「……上梨」
「やだ、近づかないで……」
俺はその言葉を無視して、更に一歩近づいた。
「俺は寝起きが悪いぞ」
「え……?」
「俺は金を絶対人に貸したくないし、奢りたくも無い。でも、人から奢られる事にはまるで抵抗が無い。基本的に人を見下しているし、おしゃれしてる女子小学生にも本気でビビってる———」
思いつく限り、自らを卑下した。
それでも止まらず、更に自分の欠点を並べる。
自分でもそこまで言うかと思う程、自らの悪い点をあげつらった。
上梨が、俺を嫌いになれるように。
こういう時、口が回る方で良かったと思う。
「———最近は、街中で笑っている人間を見るだけで不快に思うようになってきた。 あと、明日香とゲームする時に適当言って俺にめちゃめちゃ有利な条件でやってるし、ネットで脆弱な意見を見つけて脳内で論破する事を趣味にしている……」
矢継ぎ早に、並べ立てた。
正直、自分を嫌いになりそうだ。
……しかし、そこまでしても上梨の肉紐はまるで勢いが衰えなかった。
「全部、知ってる」
上梨が小さく呟く。
「じゃあ、なんで……」
俺の事なんか、好きなんだよ
上梨は、俺の問いに答えない。
薄暗い山の中で、嫌い、嫌い、という上梨の呟きと、肉紐が弾かれ続ける音だけが単調に響き続けた。
そんな中、カサネが苛立たしげに上梨を見下ろす。
「そこで意味も無く蹲って、嫌いだなんて口にしながら、全くお父さんを逃がすつもりが無い。貴女は何がしたいのですか?」
「……いつもの鏡島貴志は、自分を卑下するような事を絶対に言わないの。それなのに、私の為にあれだけ言葉を並べた」
上梨は、膝に顔を埋める。
「……嫌いになんて、なれない」
そんな上梨を、カサネは真っ直ぐに睨む。
「そんなに嫌いになりたいのなら、私が嫌いにさせてあげますよ」
風も無いのに、ザワリと木々が揺れる。
弱々しく顔を上げた上梨と、無表情に整えられたカサネの表情は、酷く対照的だった。
カサネは佇まいを正し、小さく息を吸い込む。
「私はお父さんと……鏡島貴志と、キスをしました」




