【電子書籍2巻発売記念】クロワッサンと乙女心
電子書籍2巻発売記念に、番外編をお送りいたします。
第ニ章の最終話「洗礼式」後の番外編になります。
このお話は2巻の書き下ろし『あなたの喜ぶ顔が見たくて』というお話と少しリンクしているので、そちらを読んで頂けるとさらに楽しめます。ぜひご予約をお願い致します!
アメリアの朝は早い。そして、サリューンの朝も早い。
「サリューン、起きて。朝よ」
隣で優しい声がする。けれど眠気に負けて、というより、起きたくなくて「んー」と生返事をする。
「サリューンったら! 仕事に遅れるわ! 起きて!」
ゆさゆさと身体を揺さぶられて、嫌々薄目を開けると、困った顔のアメリアが見下ろしてくる。その可愛い顔ににやけると、呆れたような溜め息が降ってきた。
「にやにやしてないで、起きてったら!」
「おはよう、メル」
やっと起きる気になってしっかり目を開けて挨拶をしたサリューンに、アメリアはにこりと笑った。
「おはよ、サリューン」
アメリアはそう言うと、額にチュッとキスをしてくれる。嬉しくて抱き締めようとしたが、さっさとベッドから出たアメリアは、着替えるために隣の部屋に姿を消した。
サリューンは残念に思いながら溜め息を吐くと、のろのろと起き上がる。そのままアメリアの消えた部屋に入ってみると、もう神官服を着たアメリアが椅子に座って髪を纏めていた。
身の回りの事は精霊が世話してくれるのだが、アメリアは神域に来てからも、基本的には自分のことは自分でしている。
「今日はリオンの仕事は?」
「えーと、シモン様の用事で、街の方に行くことになってたかな」
手持ち無沙汰にアメリアの後ろに立って答えると、鏡越しに目が合った。
「街に行くの? いいなぁ。私も行きたいわ」
アメリアは羨ましいという視線を送りながら立ち上がる。二人で隣の部屋に戻ると、テーブルの上にはすでに朝食の準備がされていた。
「サリューンはいいわよね。自由に街にも遊びに行けるんだもの」
「遊びに行く訳じゃないぞ。仕事だからな、仕事」
短い祈りを捧げた後、食事を始めたアメリアは溜め息と共に言ってくる。
「でも、大通りを歩いたりするんでしょ?」
「大通りを歩いたからって何があるんだよ」
「あら。大通りは色々なお店があるじゃない。私、昔行っていたガラスのお店に行ってみたいのよね」
「買い物がしたいなら、店主を呼べばいいだろ?」
「もう。そういうことじゃないのよ。歩いて見て回るから楽しいんじゃないの」
アメリアの言いたいことが分からず、サリューンは眉根を寄せて首を傾げる。
確かに大通りはいつも女性たちが店を覗いていて、楽しそうにしているのを見掛ける。
何が楽しいのかサリューンにはさっぱり分からなかったが、アメリアもやはり同じようにそう思っているのが意外だった。
「メルもそういうのが楽しいのか……」
「女の子は、大抵好きだと思うわよ」
「でも、今メルが大通りになんて行ったら、大混乱になると思うぞ」
「やっぱりそうかしら……」
「たぶんな。せめて、ゲルトルーデみたいに、魔法で姿を変えるくらいできるようにならないと」
「それはまた遠い未来になりそうだわ……」
残念そうに溜め息を吐いたアメリアは、食事を終わらせると教皇に朝の挨拶に行くために神域を出て行った。
◇◇◇
サリューンはリオンの姿になると、朝の仕事をするために神域を出た。
朝はいつも教会の玄関を掃除することから始まる。室内は下級の神官がやるのだが、外は小間使いの仕事だ。
ほうきを持って玄関まで行くと、レンガを掃き始める。よく晴れているが空気は痛いほど冷え切っている。建物の脇には、数日前に降った雪が山にされて積まれている。また雪が降れば、ここの雪かきはリオンの仕事だ。
「しばらく雪は勘弁してほしいなぁ……」
青空を見上げてぼやいていると、若い神官が大きな両開きの扉を開け放った。
「おはよう、リオン。良い朝だな」
「おはよ」
「今日は月に1回の市民開放日だから、早めに終わらせてくれよ」
「あ、そっか。分かったよ」
神殿は常に開放されている訳ではない。街には市民たちのために小さい教会があり、常にはそちらに行くのだが、月に一度だけ市民のための開放日が設けられている。
この日は教皇から直接、ありがたい説法が聞けるというので、信心深い市民たちが詰めかけるのだ。
リオンはそれからさっさと掃除を終わらせると、シモン教皇の部屋に顔を出した。
「おはようございます、シモン様」
「ああ、お入り」
室内から返答があってドアを開けると、中にはもう勉強を始めているアメリアがいた。
教皇は立ち上がると、テーブルの上に置いてあった紙包みを差し出す。
「おはよう、リオン。すまないが、これを第三に届けてほしい」
「第三ですね、分かりました」
紙包みを受け取ると、アメリアがこちらに目を向けているのに気付いた。
「なんだ? メル」
「第三って西の外れにある教会よね?」
「うん、そうだよ。それが?」
「ううん。なんでもないわ」
アメリアは何か言いたそうな顔をしたが、首を横に振ると、また開いた本に視線を落とした。
「リオン、すぐに行ってきてくれ。待っていると思うから」
「あ、はい。分かりました」
教皇に急かされたリオンは、頷くと慌てて部屋を出た。
神殿から走り出ると、そのままの勢いで街の通りを進む。大通りは朝の準備を始めた商店の店員が、店先の掃除を始めたりしている。
その前を通る度に「おはよう、リオン」と声を掛けられる。リオンは足を止めることなく返事をして前を走り抜ける。
長いこと神殿で働いていたこともあって、街の人にもかなり顔見知りが増えた。
第三教会に着くと、もう表の扉は開いていて神官の姿があった。
「おはようございます」
「あ、リオン。おはよう」
「教皇様から荷物を預かってきましたよ」
「ああ、待っていたぞ」
持っていた紙包みを差し出すと、神官は中身を確認する。
「確かに受け取った。教皇様に宜しく言っておいてくれ」
「はい、分かりました」
リオンは軽く返事をすると、踵を返して歩きだす。
大通りに出て街の様子を見ながらのんびりと歩いていると、朝にアメリアと話した内容を思い出した。
(そういえば、メルが大通りを歩きたいって言ってたな……)
店の方に目を移すと、顔見知りの商店の主人が手を振る。それに気軽に手を振り返しながら、今の状況が何が楽しいんだろうと考えた。
朝のこの時間ではまだ買い物をして歩く人たちの姿はない。けれどあと1時間もしない内に、この大通りは楽しそうに歩く客でいっぱいになるだろう。
(買い物なんて目的の物を買ったら、後は帰るだけなのになぁ……)
並んでいる店には洋服や帽子、アクセサリーなど、女性たちが目を輝かせるものが並んでいる。
「メルもこういうのが好きなのかなぁ……」
思わず足を止めて、窓ガラスの向こうにある赤い靴を見つめる。
どんなものがアメリアに似合うかなぁと思いながら見ていると、明るい声で名前を呼ばれた。
「おはよう、リオン!」
振り返ると、通りの向かい側にあるパン屋の奥さんが笑顔で近付いてくる。
「おはよ、アンナさん」
「なんだい朝から、そんなとこで足を止めて。あ! もしかして、ついにあんたも恋人ができたのかい!?」
「え!? ち、違うよ! ただちょっと気になっただけ!」
サリューンとしてはアメリアはすでに妻だが、リオンは未婚なので慌てて否定する。アンナはそんな反応に笑ってから、リオンが見ていた赤い靴を見た。
「あら可愛い靴。こんなの履いて貴族のお嬢さんたちは踊ったりするのかねぇ」
「アンナさんもこういうの履きたいのか?」
リオンの質問に、アンナはキョトンとした顔をしてから声を上げて笑った。リオンは自分がそんなに変な質問をしただろうかと首を傾げる。
「あたしはもうそんな年齢じゃないさ。こういうのは十代のお嬢さんたちがお似合いだよ。それに舞踏会なんて庶民のあたしらには関係ない話さ」
「そういうもんか……」
「なんだい。誰かにプレゼントでもしたいのかい?」
「そういうんじゃないけど。えっと、友達の女の子が大通りで買い物したいって言っててさ」
「あら。デートしたいって?」
「デート?」
ピンと来ないリオンに、アンナは苦笑して肩を叩いた。
「あんたと、ここを歩きたいってことだよ。好きな人と買い物して歩きたいなんて可愛いじゃないか」
「俺と?」
(メルは俺とここを歩きたいのか?)
そういうことを言っていたのかと驚いてしまう。あの会話でそれを読み取るのは至難の業じゃないだろうか。
「ま、あんたの安月給じゃ、こんな高価な靴は買ってやれないだろうから、今日はこれを持っていってやりなよ」
アンナはそう言うと、持っていた紙袋を差し出した。
紙袋を開いてみると、中にはできたてのクロワッサンが入っている。
「わ、美味そう」
「できたてだよ」
「でも、お金」
「いい、いい。持っていきな。彼女とでも食べなさいな」
アンナの人の良い笑顔に、リオンは笑って頷くと頭を下げた。
「ありがと。じゃあ、ありがたく貰っておくよ」
「今度、彼女を連れてきなよ。一等美味しいパンを作ってあげるから」
「分かった」
リオンは返事をすると、アンナと別れ神殿に戻った。
神殿では丁度、教皇の説法が終わったところのようだった。続々と人が出て行くのを見ながら神殿の中に入り教皇の部屋に向かうと、途中の廊下でシモンとアメリアに会った。
「あ、シモン様」
「お帰り、リオン」
「荷物届けてきましたよ」
「ご苦労だったね。おや、その紙袋は?」
「これは街のパン屋から貰ったんだ。皆で食べろって」
リオンの言葉にアメリアが興味を示すので、中を開いて見せる。
「まぁ、クロワッサン。美味しそうね」
「できたてだってさ」
アメリアの笑顔を見て、シモンはふっと笑うとその肩をポンと叩いた。
「アメリア、折角のいただきものだ。リオンと食べてきなさい」
「え、でも、勉強が」
「私は説法で少し疲れた。少しの間、休憩させてもらうよ」
シモンはそう言うと、一人部屋に戻って行った。
その背中を二人で見送ると、顔を見合わせた。
「教皇様もああ言って下さったし、食べましょうか」
「メル、腹減ってるか? まだ10時過ぎたばかりだぞ」
「うーん、お腹は減ってないけど、クロワッサンは食べられるわ」
アメリアの言葉にリオンは首を捻る。
(たまにメルはこういうこと言うよな……)
夕食の時もお腹いっぱいと言いながらも、デザートが出てくるとぺろりと食べてしまうのだ。
「ね、せっかく食べるなら、私の好きな場所で食べない?」
「好きな場所?」
アメリアはそう言うと、「こっち」と言って歩きだす。そうして3階の小さなバルコニーまで行くと足を止めた。
「ここがメルの好きな場所?」
「うん。ほら見て。ここから少しだけだけど、大通りが見えるのよ」
アメリアが指差す先には建物の隙間に大通りが見える。
リオンはそれを眺めると、アメリアに笑顔を向けた。
「俺もここ、好きな場所だ」
「え? ホント?」
「うん。ここからよく大通りを見てたよ」
「なんだ、そうだったのね」
アメリアは嬉しそうに笑うと、また景色を眺める。3階だけあってとても見晴らしがいい。ただ冷たい風が容赦なく吹いて、リオンは肩を竦めた。
「寒くないか?」
「平気」
アメリアの返事に頷いたリオンは、紙袋を開けてクロワッサンを取り出す。
「はい」
「ありがと。あ、まだほんのりあったかいね」
アメリアはそう言うと、パクリとクロワッサンを食べた。
リオンも一口食べると、甘いバターの味が口に広がる。子供の頃からよく食べさせてもらっているクロワッサンは、食べ慣れているからかどこかホッとする味だ。
「わぁ、美味しい!」
隣でアメリアが嬉しそうに声を上げた。目を輝させてもう一口食べると、もぐもぐと咀嚼する。
その様子がなんだか小動物のように見えて、リオンはクスッと笑った。
「リオン、今私の顔見て笑った?」
「笑ってないよ」
「笑ったわ! 絶対食いしん坊だって思ったでしょ?」
「思ってないって」
頬を膨らませて怒る様が、ますます可愛く見えて笑ってしまう。
「ほら! 笑ったわ!」
「笑ってないって」
笑いながら否定すると、アメリアは「もう!」と怒りながらも、それ以上何も言わずクロワッサンを口にした。
「はぁ、とっても美味しかったわ。ありがとう、リオン」
「気に入ってくれて良かった」
「これをくれたパン屋さんとは仲が良いの?」
「子供の頃から気にかけてくれてて、よくパンをくれるんだ」
「へぇ……」
アメリアは頷くと、少し寒かったのか身を寄せてきた。こちらの肩に頭を寄せて景色を見つめる。
「小さい頃……、ううん、大きくなってからも街の子供たちみたいに、自由に外を歩けたらって思ってた」
「そんなに自由がなかったのか?」
「貴族の居住区内なら少しは自由に歩けたけど、街に一人で行くなんて絶対ダメだったわ。常にメイドが一緒だったし、買い物なんて1年に1回行けるかどうかよ」
「窮屈だな」
「うん。いつも不満に思ってた」
アメリアの話を聞いて、リオンは今の状況もあまり変わらないことに眉を寄せた。
「じゃあ、今もやっぱり不満に思ってるのか?」
心配になって訊ねるが、アメリアは表情を変えずすぐに答えを返した。
「思ってないわ」
「でも、今だって神殿からは許可がないと出られないし、どこでも護衛が付くだろ? 昔と変わらないじゃないか」
「そうね。でも、なんでかしら。全然違う気がするの」
アメリアはそう言うと、腕を絡めてきた。リオンの姿でいる時は、アメリアから触れてくることは滅多にないので、少し驚く。
「……サリューンがそばにいてくれるから、私はもう自由なんだわ」
「俺がいるから自由?」
意味が分からず首を捻ると、アメリアは柔らかく微笑む。
「そう。何かができないことにいちいち心が囚われないの。今できなくても、きっといつかできると思えるし、それよりもっと素敵なことが起こるって信じてるから」
「心が……自由ってことか?」
「そういうことね」
アメリアの言葉にリオンはなんだか感動してしまって、少しだけ目頭が熱くなった。
神代として窮屈な生活をしていると思っていた。けれど自分がいるから自由なんだと、そう思ってくれているならこんなに嬉しいことはない。
「……メル、俺さ、ここでよく大通りを見てたんだ。いつかメルが見つかるかもしれないと思って」
「え、そうだったの……」
「だからここにメルといると、なんだか不思議な気分なんだ。ずっと探してた人が隣にいて」
アメリアは腕を離すと、リオンに身体を向けじっと目を見つめる。
「ずっと探してくれていたのね」
「うん……」
リオンは小さく頷くと、アメリアを抱き寄せる。すっぽりと腕の中に収まるアメリアをギュッと抱き締める。
「ありがとう、メル……」
もっとたくさん言いたいことはあったけれど、上手く言葉にできずそれだけを言うと、アメリアは小さく頷いた。
こめかみにキスをすると、くすぐったそうに首を竦める。
「誰かに見られたら大変よ」
「誰もいない」
そう言ってみるが、アメリアは苦笑して身体を離した。
「もう戻らなくちゃ」
「またクロワッサン、ここで食べよう」
「今度は一緒に買いに行きたいわ」
歩きだしながら言ったアメリアの言葉に、リオンは目を瞬かせた。
「やっぱり行きたいんじゃないか!」
「行きたくない、なんて言ってないわ」
肩を竦めたアメリアは、クスクスと笑いながら歩いて行ってしまう。
(さっきはすごく感動したのに……。やっぱり女の子の気持ちはよく分からないな……)
一つ分かっても、また一つ分からなくなる。
アメリアの気持ちを全部理解するには、まだまだ時間が掛かりそうだと、リオンは大きな溜め息を吐くと、慌ててその背中を追い掛けた。




