エピローグ
男は始発駅の特権で、乗客がまばらの急行に乗り込んだ。背に太陽が当る、七人掛けの真ん中の席に座り落ち着くと、バッグからイヤーホンを出し耳に着ける。たちまち、ギターの電気音が鳴り始め、それにドラムとベースが加わり、男の声とは思えない、甲高い声で歌詞が入った。
目を閉じ、足でリズムを取り始める。電車はそのリズムとは違う、スローテンポで動き始めた。
流れていたはずの曲が終わり、脳が静けさを覚えると、男は目を覚ました。車窓から外を眺める。見覚えの有る住宅街の中を進む風景で、目的の駅まであと十五分ほどと自分に言う。そして改めて車内を見回す。混み合っているとは言えないまでも、つり革や手すりに、空きが少ない程に、寝ている間に車内は混んでいた。
男は自分の前に立っている、女性のバッグに目が留まった。見慣れたマークのストラップに気付くと、「すみません。寝ていて気付きませんでした。」
そう言いながら慌てて立ち上がり、女性に席を譲った。
女性は、「ありごとうございます。」と礼を言い、席に腰を下ろした。女性の隣にいた男も、「すみません。ありがとうございます」と礼を告げる。
女性の夫だと気付き、「普段は寝たりしないのですが、昨晩は、仮眠が取れなかったもので」と頭を下げた。
「警察の方ですか?」少し、神妙な面持ちで訊いてきた。
「いいえ、自分は消防です」
「それは、お疲れのところ、本当に申し訳ありません」
「何ヶ月ですか?」と遠慮がちに訊く。
「六ヶ月です」と女性が答えた。
「自分のところは、七ヶ月に入ったところです。」
「それで、ストラップに?」
「はい。」と答えて、また頭を下げた。
「今日は検診日なのです。」
「それで、ご夫婦揃って?」
「そうなんです」
今度は夫が照れて頭を掻いた。
車内放送で男の降りる駅名がアナウンスされると、「それでは」と言い、「お互い、丈夫で、元気な子供を授かりましょう」と続け、降りていった。
男が電子カードを当てて改札を出ると、「八坂!」と後ろから声が掛かった。振り向くと、見覚えのある顔が微笑んでいる。
「常盤か?」問い返す。
「久し振りだな。元気だった?」
問いに答えず八坂に近付いてきた。
「同窓会以来だから、三年振りかな」
「そうだ。二次会で酔い潰れて送ってもらったよな。その節は、ありがとう」
「おうよ。あれに懲りて、深酒はしていないだろうな?」
バスターミナルへ促し、改札から外へ二人は歩きだした。
「それが、そうはいかなくてさ」
「健康を第一に考えろよ」
「わかってるよ。ところで今日は?」
「夜勤明けだよ。帰って寝るとこ。お前は?」
「リストラ明けで、ハローワークへ行くところ。」
「え?だってお前は一流企業じゃ――」
「ニュース観ただろ、経営不振で外資系に吸収されて、早期退職リストに乗る前に、管理職はクビだとさ……」
「エリートは大変だな。」
「なぁに。次の当ては有るから、有給消化みたいなもんだ」
「それなら良いけど」
「次が決まる前に、一杯行こうぜ。」
「次が決まったら、転職祝いにな」
「オーケー。じゃ、決まったら連絡するわ」
「おう、待ってるよ。」
「お疲れさん。ゆっくり寝て。日本国民の為に、励んでくれ!」
「了解。」
八坂は常盤を見送ると、バス乗り場の横に併設されている、一般車両用のロータリーへ向かった。八坂の妻が、自家用車の古いファミリーカーで迎えに来ていた。
「今の常盤めぐる?」
『お帰り』の前に、いきなり問われ「恵だよ」と答える。
「そうそう、常盤恵よ。すっかり老け込んだわね。」
「あいつの会社、外資系に吸収されたみたいだ。顔は笑っていたけど、気苦労は耐えなかったろうな。」
そう答えながら、助手席に座ると、「そうだったの――。お帰りなさい」とやっと迎えられた。
車のイグニションキーを回し、ちょっとバラつくアイドリングが始まった。
「ゆっくりで良いからね。」
妻に声を掛けた。
「消防士の人?」
降りてゆく、八坂を目で追いながら女性が訊いた。
「そのようだね。夕べは、仮眠も取れないほどに、忙しかったみたいだな」
「大変ね。」
「あぁ。僕達、一般市民を守ってくれるのは、警察だけじゃないってことだね。」
「ええ。」
電車が次の駅に停まると、女性の隣が空いた。夫は網棚から荷物を取ると、空いた席に座り本を取り出した。
「どんな名前にするの?」
「初めての子供だから、本当、悩んじゃうよね。」
夫は命名の本をパラパラ捲って言う。
「パパに素敵なお名前を付けてもらいましょうね。」
妻はお腹をさすりながら、自分の子に言った。夫は、プレッシャーに押し潰されないよう、本を胸に抱き、天を仰ぐ素振りをした。
「次の駅よ。」妻が、背に陽を浴びてうとうとと、夢の入口にいた夫を現実の世界に呼び戻す。夫は驚きを隠せず、手にしていた本を床に落とした。
「ダメなパパですねぇ」とまた、お腹の中の子に言いながら、微笑む妻に夫は照れた。
電車が停まり、二人はホームへ降りると、階段へ向かった。ゆっくりと一段一段、慎重に降りるよう勧める夫を余所に、妻はすたすたと軽快に階段を降りて行く。二つのバッグを持った夫は、妻の横を、妻の歩調に合わせ着いて行く。降り切ったところで、夫は急ぎ足で改札を出て、タクシー乗り場へ向かい拾う。妻が追いつくと、先に乗り込み病院名を告げた。
病院に着くと受付を済ませ、産婦人科の待合室へ入り順番を待つ。
夫は落ち着かず、先程の本を何度も捲った。
「恥ずかしいから、少しは落ち着いて。」と妻から叱責を受けるが、『次回はご夫婦で来てください』との医者の言葉に、心配が胸一杯に広がっていた。
「尾部さん。尾部都さん。診察室へどうぞ」
一層、夫の心臓は高鳴り、喉は渇き緊張も最高潮に達した。
八坂が無事に自宅へ着くと、早速風呂に入り、妻の深幸が作った料理で朝食を摂った。
「夕べ、三本も緊電があって、仮眠なしだったんだ。」
「へぇ。大変ね。怪我はしなかった?」
「あぁ大丈夫、かすり傷ぐらいだから。」
「でも一晩で三件なんて、放火?」
「いいや、どこも古い家でさ、屋根裏から出荷だったから、ねずみかな?」
「三軒とも?」
「変だよな。と、俺も思うけど、確かに、電線の引き込み辺りからだからね。放火では無いと思うんだ。」
「大きかったの?」
「幸い、ボヤ程度で済んだけど、年寄りの一人暮らしだから、逃げる際に骨折したとか、転んで頭を切ったみたいだ。」
「そうよね。不景気な上、年金の需給も六十五歳からなんかになって、定年から需給までの間に、蓄えとパートで凌ぐでしょ。それで、施設に入れない年寄りが増えて、年寄りの一人暮らしが多くなったって、この前、何かで聞いたわ。」
「そういった家ってさ、子供はどうしているのかね?」
「子供だって、今の世の中、昔の政府が押し広めた、非正規雇用が主でしょ。とても、親まで面倒は見切れないんじゃない?だから、結婚も減るし、当然子供も減るのよ。」
「深雪は政治家になった方が良いんじゃないか?木を見て、森を見ずって言うけど、少子高齢化とか、温暖化とか。今じゃ選挙の時にしか、聞けない言葉だけど、死語にしてはいけないと思うよ。」
「公務員の奥さんが政治家では、耕作さんが大変よ。」
「そうかな?」
「そうよ、選挙運動できないんだから、私の手伝いはできなきのよ」
「そっちか。」
「何か?」
「いいや、別に。――そうだ、今日の帰りの電車でさ、僕達と似た夫婦にあった。」
「私達に?」
「六ヶ月だって。今日診断日で、旦那さん緊張していたな」
「貴方も、ガチガチだったものね。」
「そうそう。思い出すね。昇進試験の何倍も緊張して、喉がカラカラでさ、病室を出ても、先生の話しどころか、顔すら覚えてなくてね」
「今頃、同じ事味わっているわね。可哀想。」
「ちょっと、喜んでない?」
「そんな事は無いですよね。」と膨らんだお腹を摩った。
「順調ですね。母体も問題ありませんよ。」
「ありがとうございます。」
担当医は夫へ話しているのに、当の夫はガチガチに緊張して、話しができる状態ではなかった。
「尾部さん?尾部友康さん?」
緊張を解こうと、担当医が名前を呼ぶ。同時に、都が夫をひと指し指で突っついた。
「えっ。あぁ。はい。ありがとうございます」
「何を言われたか、判っているの?」
「健康――だと。」
「こんな夫ですが、普段から、私を労わってくれています。ですから私は安心してこの子を産む事ができます。」
「そのようですね。安心しましたよ。では、尾部さん?」
「はい。」
「出産と育児、ご協力くださいね。」
「わかりました。任せてください。」
緊張から開放されて自信一杯に答えた。
その日の夜、政府が緊急放送として、NHKと民放各社同時に、予定の放送を変更して総理大臣が演説を始めた。
「最早、地球の温暖化は、数年先で数パーセントの排出ガスを下げるなどといっている余裕は無くなりました。我々のこの星を救うためには、国境を排除し、先進国と後進国と言う、線引き捨て去り、地球人と言うひとつのカテゴリーとして、全世界の人々がひとつになり、取り組まなければ、近々に、地球は寿命を迎えると、有識者会議にて、本日――。先程ですが、はっきりいたしました。
人類の危機を救ってくれる、救世主など存在はしないのです。ヒーローが現れ、あっという間に、基の元気な地球に戻してくれる事などは皆無なのです。神に祈り、救いを求めるその後で、二酸化炭素を撒き散らし、地球の再生の邪魔をする、そういった人類は、今や地球の敵であることを、自ら知らなければなりません。神もまた、その様な異端者の祈りなど、聞いてはくださらないでしょう。数年前から、世界各地で異変が起きているにも関らず、瀕死な地球の声を聞こうともせずに、楽な暮らしを求め、地球の寿命を縮めてきた我々人類は、今から、たった今からどうすべきなのか、答えは既に導き出されています。要らぬ文化を捨て。巨大な街頭のモニターが。過大に生産される物資が。無用に飛び回る飛行機や距離を走る貨物車両。俗欲を満たす為の旅行もが、今や悪なのです。そのような不要な文化を捨て、一人一人が、地球を救う医者となる時期なのです。」
演説はまだ続きそうである。白けた空気が世界中に蔓延する。ここ地球上にいる誰一人として、この緊急放送と同様に、地球が乞う救いの声に気付きもせず、地球を労わることを忘れ、自分の生活に追われて、地球の寿命を糧に人類は生存する。
完