SCENE 58 * RENA * With Rian
レナは自分でも驚くほどに集中していた。それでもシャワーを浴びてメイクをして、着替えて荷物を用意して──などということをしていると、急いだつもりだったのにすでに四十数分が経過していて、慌てて家を飛び出した。
そのあいだに携帯電話にはライアンから、図書館のどこの席にいるかというメールが送られてきていた。図書館は、表立って携帯電話を使っていると怒られるのだが──つまりこちらが着いても外には出てこないつもりで、一度館内に入ってこいということらしい。やはりなにか変だとレナは思った。
バスを降りたレナは図書館内に入り、二階へとあがった。大きく円形になった本館の中心は、赤い絨毯を敷いた螺旋階段になっている。二階にあがると絨毯の色はベージュに変わり、螺旋階段の周りにダークブラウンのオフィスソファが等間隔で置かれているのがわかる。そして外側に向かって円を描くようにたくさんの本棚が並び、窓際のひとつにカウンター、そして四人掛けのボックス席が並ぶ。一階には二人用から大人数用まで、幅広く席が用意されているので、二階よりも一階のほうが少々賑やかになる。
ジェニーにつきあって図書館に来ることはあるものの、彼女がいなければ、レナはほとんど用がない。図書館が嫌いというわけではない、むしろ好きだ。ただそれは本を読むのがというのではなくて、本棚に並んだたくさんの本を眺めるのが好きだ。窓の外から、正面玄関近くの噴水のあたりで遊ぶ子供たちの姿を眺めるのも。
だが自分は外見的に、図書館が似合うタイプではない。もちろんそれは自分でしていることだし、気にする必要はないのだが──中学の時、ジェニーと一緒にこの図書館に来た時、偶然会った同じクラスの男子に、“お前に図書館は似合わねえ”などと、少々ムカつくことを言われたりもしたが、そんなことはちっとも気にしていない。
レナは、メールに書いてあったとおりの場所でライアンを見つけ、本棚越しに彼を観察した。彼は四人掛けの窓際のボックス席のひとつで本を読んでいる。外はよく晴れていて、太陽の光で奴の髪が金色に見えた。こう見ると、知的に見えないこともない。眼鏡をかけさせたい。そうすればもう少し、頭がよさそうに見えるかもしれないのに。
今すごく失礼なことを考えた気がする。決して、そのままだとバカっぽいという意味ではない。
次の瞬間、おかしな考えが彼女の頭の中をよぎった。今まで考えたこともなかった考えだ。
ウィリアムは、ジャックとライアンを足して二で割ったような人。
ウィリアムに失礼すぎる。ジェニーにも失礼すぎる。
ジャックの雰囲気がウィリアムに似てるなというのは考えたことがある。なのでジェニーがジャックを好きだったと知った時、驚いたものの、納得もできた。けれどウィリアムはジャック以上に人なつっこいというか、気さくな部分がある。そういう要素は、ジャックよりもライアンのほうが多い。
──なんて、なにを考えているのだろう。やめよう。
それよりもライアン、大きくて分厚い本を読んでいるようだが、本当に読んでいるのか? 本気?
レナは彼のいる席へと向かった。バッグを置き、彼の向かいの席に腰かける。
「お待たせ」
彼は本の片側を腕で支え、ななめにしている。タイトルがよくわからないのだが、閉じれば三センチは厚みがありそうな本だ。見た目どおり古いらしく、色褪せた臙脂色をしている。その本がなんなのかも気になったが、よく見れば彼がスウェット姿だということにレナは気づいた。そしてその残念な感じはなんだと思った。
ライアンは視線を上げた。「早いな。で、なんで隣に座らねえの?」
レナはぽかんとした。どうしたのだろう。やはりおかしくなったのか。ジェニーになにか言われたのか。
どう答えればいいのかわからず、彼女は荷物をそのままに、彼の隣に移動した。彼が読んでいる褪せた臙脂色の本を覗きこむ。
「なに読んでんの?」
それは、童話だった。開かれた臙脂色表紙の大きな本の上に、カエルの挿絵が入った童話が重ねられている。臙脂色の本は外国語だった。だがそんなもの、読めるはずがない。言葉がどうこう以前に、童話の本が重ねられているから。
彼は彼女に向かってにやりとした。「知的に見えた?」
臙脂色の本は、フェイクだ。
そう理解した瞬間、レナは笑った。ここが図書館だということはわかっているので、必死に声を抑えた。バカだ。バカだ。バカだ。
ライアンは呆れながら本を置いた。
「アホ。笑いすぎ。お前待つあいだに三冊は童話読んだぞ。懐かしくて」
彼女は笑いがとまらず、彼の肩に額をあずけた。なにをしているのだろう。どれだけ見栄っ張りなのだろう。
「わかったって。落ち着け」
そう言って、彼は彼女の腰に右手をまわした。彼女の身体を引き寄せる。そのせいで、意識せずともレナの笑いは止まった。
顔を上げた彼女に彼が微笑む。「よし、止まった」
本当に、どうしたのだろう。「なんか、今日、変」でも、キスがしたい。
「気にするな。たぶん今日だけだから」
また微笑んでそう言うと、彼女の腰に手をまわしたまま、ライアンはレナにキスをした。フレンチだった。一回、約五秒。
レナは少々困惑している。彼が変だということはわかっている。なぜなのかはわからない。だが、ドキドキする。
腰にまわした手はやはりそのままに、彼は彼女と額を合わせ、目を閉じた。
「とりあえず飯、食いに行く?」
どうしたのだろう。なにがあったのだろう。やはりジェニーになにか言われたのか? いや、その言いかたはおかしいかもしれない。ジェニーがなにかを言ったのか?
ジェニーは、こちらが困るようなことは言わない。具体的な言葉で、自分たちのあいだに割り込むことになるような言葉も言わない。ということは、ジェニーがなにか言っていたとしても、行動してるのはライアンの意志だ。
「聞いてんのか」
彼の言葉で彼女ははっとした。図書館でキスをするなんて、不謹慎すぎる。
「行く」
いつもなら怒って意地悪なことを言ったりするのだが、彼はまたも微笑んだ。「金もらったから奢ってやる」
そう言うと、今度は左手で彼女の頬に触れ、レナにキスをした。
やはりフレンチキスで、やはり一回きりなのだが、今度はさきほどよりも少し長めのだった。
レナは、心臓の音が彼にまで聞こえてしまうのではないかと思った。
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図書館を出るとバスに乗り、レナはライアンと一緒にウェルス・パディへと向かった。大通りにあるパスタ屋でランチをとったあと、ライアンの家に行った。
懐かしいと思いながらも、レナはライアンに続いて二階にあがった。そこまではよかった。彼の部屋の戸口に立った瞬間、レナは唖然とした。
「──なにこれ」
まさに“足の踏み場もない”状態だ。大量のコミック本や雑誌、CDやゲームソフトが散らばり、部屋の左側からも開いたままのクローゼットからもいくつかの引き出しが出され、おそらくその中身だろう物たちがやたらと床に散乱していて、朝起きたままの状態らしいベッドだけが、唯一被害を受けていないといった感じだ。
ライアンはどうにか部屋を進み、ベッドに腰かけた。
「片づけるから手伝え」
当然、レナはぽかんとする。「は?」そして思った。
ちょっと待ってよ。さっきまでのあれはなんだったの? こちらが言いだすまえに手もつないでくれて、いつもどおりだけどプラスアルファのやさしさ、みたいなものがあって、とても幸せ気分を味わった。なのにこれ? もしかすると、ジェニーは関係ないんじゃ? ぜんぶこのためなんじゃ?
「お前にとってもいいことだぞ。たぶん」と、彼。
彼女はひとまず部屋のドアを閉めた。だが意味がわからない。
「なんで? なにが? どこが?」
ライアンは右脚に肘をつき、手にあごを乗せて部屋を見やった。
「たぶんだけど、どっかに昔つきあってた奴らからもらったモンとかがあるんだわ。手紙とか、もしかしたら写真もあるかも。未練とかじゃなくて、オレ、いちいち捨てないから」
またもぽかんとした。昔つきあった女からのプレゼント。手紙。写真。一気に地獄に突き落とされた気がする。
「それを私にどうしろと? まじまじと眺めろっていうの?」
一緒に写っている程度なら、見てもどうってことはないかもしれない。キスをしている写真が出てくればさすがに、ちょっと、アレだだけれど。
彼は肩をすくませた。
「そうじゃねえ。捨てるっつってんの。心配しなくてもキスしたりってのを撮った覚えはねえよ。そんな趣味ないし、撮るとしたら学校とかダチが絡んだ時だけだし」
思わず納得してしまったが、これは納得してもいいところなのか。
「イヤならいい」彼は視線をそらした。「お前はメグの部屋かリビングかで待ってろ。そのあいだにシャワー浴びるから。そんでセンター街でもいい。月曜にでもジャックに手伝わせるし」
そんなことを、言われても。
ライアンは続けた。「嫌がらせのつもりはない。ただよけいな物を捨てたかっただけ。最初はそれだけ探して捨てようと思ってたんだけど、あれこれいらないと思ったやつを床に出してたら、いつのまにかこんな状態。しかも昨日は親父と話したりお前と電話したりでぜんぜん進まなかった。オレ、片づけ苦手だし」
レナは、理解した。ライアンの不器用な部分だ。捨てようとしたのは、自分のためだ。嫌がらせでないことはわかる。嫌がらのようになっているけれど、それは結果でしかない。
深呼吸をするように、彼女は大きく溜め息をついた。
「Tシャツとジャージ貸して。あと何枚かダストクロス持ってきて。二枚は乾拭き用。あとは掃除用に濡らして絞って。トラッシュバッグも、とりあえず五枚くらい。雑誌を捨てるつもりなら、それをまとめる紐も」
その言葉で、彼はにやりとした。「やんのか」
手に持ったままだったバッグを壁際に置き、レナは腰に両手をあてた。
「やるしかないでしょ」捨てていいのなら、いくらでも捨ててやる。「こういう状態、本気で気に入らない」なにげに捨てるのは好きだ。「潔癖症とまではいかないけど、私は整頓されてるのが好きなのよ」図書館の本棚のように。
「だろうな。だからお前なら手伝ってくれると思ったんだし」
彼は立ち上がった。彼女のところまで戻り、腰に手をまわして微笑む。
「あとでたっぷり礼してやる」
そう言ってまた、レナにキスをする。けれど今度は深いキスだった。
やはりなにか変だ、と彼女は思った。なのにドキドキしてしまう。
唇を離し、ライアンはまた微笑む。
「着替え、手伝ってやろうか?」
これを変だとは思わない。「黙れ変態。時間がない。できるだけのことはする」
「はいはい」
またキスをした。ライアンはどうやら、どんなキスをどのくらいすればレナが止まらなくなるかというのを、知っているらしい。“嬉しい”とだけ思えるところで止める。“もっと”などと思わなくてすむところでだ。これはこれで、ちょうどいい。
それにしてもうまく乗せられた気がする。けれど、まあいいかと思った。




