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憎しみのかなたに  作者: 此道一歩
第4章 冷たい春
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償いができない罪びと

 その3日後、麗奈の母親が信じた易によると、二人にとって、これ以上、良い日はないというほどの晴天の日に入籍した彼らは、麗奈の父親のもとへ報告に行き、父親の勧めで、智也の両親と祖父母が眠る自然石を置いただけのお墓にお参りに出向いた。

 生前は人の理不尽に苦しめられ、亡くなった後も誰の土地なのかもわからないような一角で待ち続けなければならなかった故人の無念を思うと、麗奈は

「一番にお墓を何とかしなさい」と言ってくれた父の思いが今更ながらに胸に突き刺さってきた。

 宗派が同じで、檀那寺(だんなじ)も同じであったことを知っていた麗奈は、お寺のお世話によって、墓地も含め、一式、500万円でお墓を整備し、開眼供養の1週間後にお参りにやってきた高木夫妻に対峙していた。


「もう関わりたくないんだ」と言う智也には何も知らせず、高木夫妻をお墓に案内した麗奈は

「智也さんをよろしくお願いします。今の私はあの人の幸せだけを祈っています」

 そう言って涙ながらに何度も頭を下げる高木信子をみて、彼女自身も決して幸せだったわけではないのかもしれないと痛感していた。


 ただ、お花を生けた後、何度火をつけようとしても風に吹き消されてろうそくに火が付かず麗奈は慌てたが

「仕方ないです。いつか火がついて、線香を立ててお参りさせてもらえるようになるまで、何度でも頭を下げに来ます」悲しそうに微笑んだ高木信子を見て、

(これが人の覚悟なのか…… )そう思った麗奈の瞼に涙が浮かんだ。


 入籍した二人は麗奈のマンションで暮らし始めたが、智也は料理、洗濯、掃除など、家事のすべてを完璧にこなす麗奈に驚いた。


 そして春、麗奈が智也と再会してから間もなく一年になろうとしていた。

 麗奈のお腹には新しい命が宿っていた。彼女は妊娠3ヶ月という大事な時期であったため、あまり無理をしないで静かに日々を過ごしていた。


 久しぶりに会社に顔を出した麗奈に

「麗奈ちゃん、松岡が倒れたわよ」桐谷が顔をのぞかせた。

「えっ、あの衆議院議員の?」

「そう、面白くなりそうよ」珍しく桐谷のうきうきしている様子が伝わってくる。

「え、何かあるんですか?」麗奈が不思議そうに尋ねると

「娘の美智子が跡を継ぐって言い出したのよ」

「ええっー、松岡の次は第一秘書の中本さんって……」麗奈がそこまで言うと

「そうよ、だから中本が怒ってしまって、秘書を辞めたのよ。そしたら、後援会の主だった人も【松岡の影に中本あり】って言うのをよく知っているし、後援会長なんて『あのバカ娘にできるわけがない』って…… 」

「へえー、それでどうなるんですか?」

「後援会長を初め、主だった後援会の人は中本を押しているんだけど、第2秘書だった佐々木が、その切り崩しに金をばらまいているらしくて、もう泥沼状態らしいよ。統一選挙は秋だしね、時間もないから、激しいらしいよ」桐谷が楽しそうに話すと

「奈々さん、楽しそうですね」麗奈が微笑む。

「何言ってんの、あなただって、松岡美智子のことをあんなに憎んでいたじゃないの」

 桐谷の語気がほんの少しだけ強くなった。


 しばらく沈黙があったが

「でもねー、なんか、不思議なんですよ……」麗奈が遠くを見つめるように囁くと

「いったい、どうしたの?」

「なーんか、松岡なんて、もうどうでもよくって…… この子のおかげかな?」麗奈がお腹をさすりながら微笑むと

「ごめんなさい、胎教に良くないね……」桐谷の声がフェードアウトする。

「いえ、そういうことじゃなくて…… 松岡なんて関係ない、あんな奴はそのうちになるようになるよ、私がどうのこうのと言っても始まらないって思うんです。この子がそう思わせてくれているのかなって……」

「それってすごいね……」

「あの高木夫妻の話があった時に、智也は関わりたくないって言っていたでしょ」

「うん……」

「なんか、あの時の智也の気持ちがわかるような気がするの、昔には憎しみや恨みみたいなものがあったんじゃないかって思うんだけど、でも、それを乗り越えて生きてきて、そんな相手のことなんてどうでもいい、まして復讐なんてとんでもない。どんなに貧しくてもそんなことはしたくないっていう智也の最後の砦みたいなものが、なんとなくわかるような気がする……」

「麗奈ちゃん、すごいね」桐谷は麗奈の魂に驚くばかりだった。


 その後、松岡美智子が教諭を辞職し、積極的に選挙活動を始めると

『あんなのが国会議員なんてありえない、担任してもらったことがあるけど、貧乏人はカスみたいに扱われてた』

 誰かがSNSでつぶやくと、何人かの者が反応したが、炎上するようなことにはならなかった。

 麗奈は日々その反応が気になって見つめていたが、なかなか盛り上がりを見せない。1ヶ月ほどして、松岡の優勢が噂になり始めると、我慢できなくなった麗奈がついに呟いた。


『同じクラスに両親が騙されて亡くなってしまい、とても貧しい少年がいました。でもクラスの中に、『汚い』とか、『そばを通らないで』とか言って、その子をいじめる子が一人いました。私は担任だった松岡に『あんな言い方はひどい、彼がかわいそうです』って直訴したら、彼女から『貧しいっていうことは悲しいことね、でも誰も貧しさを助けてあげることはできないの、自分のせいなのよ』って言われ、私は職員室を出たとたんに、涙がボロボロこぼれたことをよく覚えています。

松岡も常に勉強のできないその子を蔑み、お祖母さんに『貧しいのは努力が足りないからだ。年老いたら努力にも限界があるんだから、生活保護を受けるべきだ』と迫ったらしい。その少年は、できるうちは他人のお世話にならないで頑張りたいと思っていたお祖母さんの涙ぐんだ顔を今でも覚えているらしい。これは、その少年本人から聞いた話です。私も彼の同級生として、その実態を常に見てきました。

 私はそんな人には国民の代表にはなって欲しくありません』


 さすがにこれは炎上してしまった。


 最初に

『私は、その時に職員室にいました。松岡先生に呼ばれ、クラスに配る学級だよりを取りに行っていました。だから、この話は真実です。私は職員室を出ると彼女を呼び止めようと手を伸ばしましたが、『さわらないでっ!』と言われ睨まれてしまいました。私は軽蔑されている。何も言えない私は軽蔑されている。そう思うと胸が痛くなりました。日頃から彼女は毅然として松岡や、その少年をいじめるクラスメートに立ち向かっていました。私はいつも何もできない自分が恥ずかしくて、勇気のない自分が恥ずかしくていつも俯いていました。ごめんなさい。

でも、今は思います。彼女の言うとおりだと思います。こんな人が国会議員になんてなるべきじゃない』と誰かが囁くと


 当時の同級生たちは、「吉岡だ、吉岡が立ち上がった」、皆がそう確信した。彼らは同じような思いを持っていたのだが、SNSで、こんなことを暴露してもいいのだろうか、選挙のこともあるし、何か問題があるかもしれない…… そんな不安を持っていたのだが、あの吉岡麗奈が立ち上がった、ということが彼らに大きな安心感と勇気を与えた。

 当時の実態を知っていた同級生や教育委員会の職員と思われる者までが呟き始めた。

 当時の同級生たちの中には、自らが心を痛めていたのに、その少年を嫌っている担任教師に何も言えなかった自分が恥ずかしいとか、親が教育委員会や校長に掛け合ったのに何も変わらなかったとか、親が松岡に電話したため、その翌日から無視されるようになったとか…… 次々と信じられないような話が飛び出してきた。


 それを目にした麗奈は

( 皆、頑張っていたんだ、皆、同じようなこと、思ってたんだ…… )と思い、涙があふれるのをどうすることもできなかった。


 しかし、特に興味深かったのは、もと教育委員会の職員だったと思われる者のつぶやきだった。

『あの松岡は、自分の力で教員採用試験に受かったって言っているけど、馬鹿なのか! あの年の1次試験の合格者の最低ラインは800点中535点、松岡は400点もなかったけど、1次合格者一覧には松岡は560点となっていた。こんな忖度があるか、課長に言い寄ったら、翌年、田舎の出張所に飛ばされた。証拠だって持ってるよ』


 もう、どうにもならなくなってしまった。炎上を始めると、これまで松岡議員に世話になっていた者さえ、その代償の大きさを訴え始めた。


 大炎上したSNSを前に

「あーあ、やっちゃった。ママはあなたのパパみたいにはできないよ。ごめんね」

 麗奈は大きくなったお腹をさすりながら、以前桐谷にかっこよく話した自分を思いだしていた。


 その夜、桐谷とのやり取りから、SNSが炎上するまでの一連を話した麗奈が

「私は智也みたいにはいかないよ」と残念そうに話すと

「なんか、とんでもない話になってるけどね、俺、そんなにかっこよくないから……」

 驚いた智也が俯いてしまった。


「えっ、どういうこと…… 」

「だってさー、憎くないわけがないでしょ、あいつらのせいで親父やおふくろは死んだんだよ。婆ちゃんはあいつらのことは何も言わなかったけど、思い出したんだ。俺は子供の頃からあの二人のことは憎かったし、いつもあいつらが悪いんだって思ってたよ」

「ええっー、じゃあどうして高木夫妻を許したのよ」

「ええっー、許してなんていないよ」

「はあっー、だって…… 」麗奈は何が何だか分からなくなってしまった。

( ええっー、じゃあ、智也の思いって…… )


 しばらく沈黙があったが

「ねえ、あの時、高木夫妻が来るって言っていた時、関わりたくないって言っていたけど、それってどういう意味だったのよ……?」

「正直に言うとね、確かにあいつらを見るまでは自分でもよくわからなかったんだ、本当にどうでもいいって思ってたんだ。だけどあの日、二人で会社の窓越しにあいつらが桐谷さんの事務所へ歩いているのを見てたでしょ」

「うん……」

「あいつらを一目見た瞬間に、忘れていた憎しみっていうのか、腹立たしさみたいなのがこみあげてきて戻しそうになったんだ…… 」

「ごめん、気づかなかった……」麗奈は唖然としていた。

「とんでもないよ。 その時、あいつらと同じ部屋で、同じ空気を吸いたくないって思った。ましてあいつらが稼いだお金なんて触りたくもなかったし、顔だって出したくなかったけど、桐谷さんは怖い顔して、けじめをつけろって言っていたし、麗奈さんも『今日で終わりにして、明日からは二人で一歩ずつ…… 楽しい家庭を作ろうよ』って言ってくれたから、 まっ、仕方ないかって思って」

「かあっー、なんてことなの…… 智也もただの人間なんだ」麗奈が眉をひそめた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。どう思ってたの?」逆に驚いたのは智也の方だった。

「もう…… あんたの魂ってすごいんだ。こんな奴らでも許せるんだ。高木夫妻のすべてを取り上げてしまったら、自分も同じ罪を犯すことになるからそんなことはしたくないんだ、って……」

「自分のせいで誰かが自分と同じような目に合うのが嫌だって言うのは当たっているけど…… とにかくあんな奴らとは関わりたくない、顔も見たくない、あの時にはそう思ってた」

「かあっー、何なのよ。あんたの魂の高さに魅かれてしまったのに! 私の人生返してよっ」

 麗奈がいつになく弱々しい。


「そ、そんなこと言われても…… だ、だけど、一つだけはっきりとわかっていることがあるんだ」

「何なのよ……?」

「こういう風に思ったのは、麗奈さんと知り合って自分が幸せだったからだと思うんだ。もし、昔の腰が痛くて、貧しくて、もう死にたいって思っていた時に、あの夫婦に巡り合っていたら、殴りかかっていたかもしれないし、すべてを取り上げて、地獄に落ちろって言ってたかもしれない」

「ふうっー…… えっ、だけどお金は……? お金を受け取るべきじゃなかったの?」

 突然思い出した麗奈が慌てた。


「うん…… でも、それは麗奈さんがお墓のことを考えてくれているのに、さすがに水はさせないと思ったし、まっ、もともとおやじの金なんだし、俺じゃなくて親父が受け取ったんだって思えばいいって…… 都合よく解釈したっていうか……」

「そ、そうなの…… まっ、いいわよ。こういう流れだったのね」

「え、よくわかんないけど、でも次は男の子が欲しいね」

「ええっ、何言ってんのよ。男の子でも女の子でも、元気に生まれてくれれば、それだけで十分よ。何、ばかなこと、言ってんのよっ」

「ご、ごめん。確かに……」

(なーんか、最近怖いなー、優しかったのはわずかの間だけだったなー )


 三日後その話を聞いた桐谷は大笑いした。

「もう、そんなに笑わないでくださいよ」麗奈が顔をしかめると

「いいじゃない。安心したわよ。中野夫妻が神様みたいだったら、今後、どんな付き合いをすればいいんだろうって悩んでいたのよ。すごく安心した。人間なんだからね、そりゃ、憎しみや悲しみ、恨みはあるわよね、なんかとてもうれしい」桐谷はとてもうれしそうだった。

「奈々さん……」


「あっ、その代わりにいいこと、教えてあげる」

「何ですか」

「松岡美智子だけど、父親の意識が無くなって、さらにSNSの炎上もあって、とても立候補なんてできないって思った秘書の佐々木が、裏金の3億をもって逃げたらしいわよ」

「ええっー」

「慌てた美智子は、残っていた秘書の制止も聞かずに警察に届けたらしい。そしたらその裏金の話が表に出てしまって、過去の収賄、贈賄がどんどん出てきて、税務署も入って大騒ぎ、おそらく、松岡は破産するわね。娘の美智子も、裏金を頼りに銀行から選挙資金を借り入れていたらしいから、おそらく…… 自己破産するしかないと思うけど、でも、あいつは逃げるかもしれないね」

「まっ、やっぱり、落ちるべき者は落ちていくっていうことなのか……」麗奈は亡くなった母の顔を思い浮かべていた。


 その後、松岡美智子の消息を知るものは誰もいない。


 その2年後、二人目の女の子が生まれた直後、齋藤自動車を継いで欲しいと親父さんから話を受けた智也は、レナコーポレーションで齋藤自動車を買い取り、親父さんにはかつて智也が麗奈から託されたマンションの管理人として、結婚まで智也が住んでいた管理人室に移り住んでもらい、好きな時に工場に足を運んでもらうこととした。

 借りれば10万円以上はするだろう3LDKの住まいに、親父さんは何度も頭を下げ

「お前と知り合いで良かったよ、本当にありがとう」と言って涙ぐんだ。


 その後、智也は、責任を押し付けられて高野自動車を辞めざるを得なくなった50歳の男性と、暁定時制高校から依頼された卒業生を雇用し、以前から働いている23歳の青年と4人でレナコーポレーションの自動車部を回し始めた。

 この自動車部はこれまでの車両整備のほか、積極的に中古車の整備販売を行った。

これまで齋藤自動車が積み上げていた廃車、30台のうちから、軽四22台を選び出し、智也が中心となって整備を進め、塗装は簡易に済ませ、免許を取り立ての人、あるいは車に乗りたいが生活の厳しい人をターゲットに、20万円から30万円の間で販売を開始した。整備は行き届いていて、智也のお墨付きということもあって、故障することはほとんどなく、クレイムも一切聞くことはなかった。仮に何かが起きたとしても、社員たちが自らの責任のように頭を下げ、無料で整備してくれるので、その評判はあっという間に広がり、智也は廃車になった軽四を収集するのに走り回っていた。


                               完


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