第1話 竜のエリンと黒猫のフッサ
切り立った崖の上を竜が飛んでいた。
崖下には細い岩の道が一本通っていて、脇から波が打ちつける音が絶え間なく響く。海面よりも十メートルは離れている筈だが、海風に乗った波飛沫が時折り頬を濡らした。
剥き出しの岩肌の道を、真っ黒な山猫がすいすいと進んでいた。猫と言っても、そこいらの熊よりもずっと大きい。背中には幅広の鞍が取り付けられ、ふわふわした毛並みに埋もれた赤い首輪とつながっている。そしてその手綱を握る、一人の騎手の姿があった。
騎手は手綱を引っ張ったりはせず、文字通り綱を握っているだけだ。
騎手はゆったりとした苔色のオーバーコートを着ていたが、胴中心に結ばれたベルトがその体躯の細さをあらわにしていた。竜皮をなめして作られたベルトは深い紺色に艶めいて使い込まれてるのが一目でわかる。ベルトには牛皮の水筒とポーチ、そしてまだ革がかたく張っている新しいダガーホルダーがついていた。
一際強い風が吹いて、騎手の被っているキャスケット帽がめくれる。顎下で結ばれた紐が解けて、帽子が舞い上がる。
「あっ……」
陽の下にさらされた緑色の瞳が帽子を追う。身を乗り出して伸ばした手はかろうじて紐を掴んだが、バランスを崩した身体はよろけて崖の外へと放り出された。
「エリン!!」
低く鋭い声で大猫が騎手を呼ぶ。
エリンと呼ばれた騎手は、身体を捻り空中でくるりと一回転して体勢を立て直した。
バリっ、と布の破ける音がする。それは一瞬のことだった。
背中の皮膚を弾け飛ばして、コートを突き破り、赤黒い一対の竜の翼がエリンの背中から生えている。瞳孔は収縮して、気怠げに細められた緑の瞳は揺らめく炎のような怪しい光を放っていた。
「ごめんなさい、フッサ。またコートを駄目にしてしまった」
フッサと呼ばれた大猫は金色の瞳を細め、呆れたように鼻を鳴らす。
「帽子とコートの値段の違いもわかんねえようじゃ、お前もまだまだお子様だな」
「破れたなら縫えばいいだけ。それに……」
翼をはためかせてフッサの背中に戻ったエリンは、キャスケットを深く被ると紐をキツく締め直した。
「顔を隠すものは必要。変身してるとは言え、勘付く人間もいるかもしれない」
「慎重だな。その姿勢は悪くねぇが」
メキメキ、と音を鳴らして塊になった翼が背中に飲み込まれていく。
激痛が伴う筈の筋肉や骨を変形させる変身をエリンは顔色一つ変えずに終わらせてしまった。
「これで苦情を言われたら困る。あなたが私に教えたことだもの」
「ああ……そんなこともあったか」
フッサは尻尾をピンと立てて答えた。
声のトーンは変わらなくても、彼の機嫌が上向きになったことは尻尾が雄弁に語っていた。
それを指摘すれば今度は尻尾がブンブンと左右に揺れて背中に乗るどころじゃなくなるだろう。
チャッチャと軽い足取りで崖の上を進んでいくフッサの背に揺られながら、エリンはまた空を見上げた。
港町に飛び交うカモメみたいに、何匹もの翼竜が鳴き声をあげながら旋回している。ワイバーンとも呼ばれる翼竜は魔界ではあり触れた生き物だが、ここ人間界においては十数年前まで存在しなかった生物だ。
空を我が物顔で飛んでいる翼竜を見て、フッサはフンと鼻を鳴らした。
「アイツらは魔界じゃ雑魚だが、人間界じゃ生態系の頂点だ。戦争でどれだけ人間界に持ち込まれんだか知らねえが、コイツらは運が良かったな」
「でも、ここまで増えるなんて。魔界とは空気も餌も全然違うはずなのに」
「生き物ってのはそういうもんだ。だが、コイツらの成功の秘訣は人間を上手く利用したことだろうよ」
フッサの指摘通り、翼竜の背には鞍がつけられ、騎手が荷を背負って空を駆けている。空を征く彼らにとっては山も海もただの通り道に過ぎない。それはエリン自身がよくわかっていた。
「竜の国クウェンカ……本当にあったのね」
岩肌が無機質に伸びるばかりだった道の先に、ぼんやりと建物の姿が浮かんでくる。断崖絶壁にへばりつくように、岩造りの家が蟻塚のように積み重なっていた。
「無けりゃ困る。ここまで来たのが無駄足になっちまうだろ」
「わかってる。少し驚いただけ」
唇をむっと引き結んで答えるエリン。
街並みの輪郭はさらにくっきりと浮かび上がっていた。巨大な立ち木みたいに何本も杭が空へ伸びていて、そこに結ばれた大きな布が屋根の上に広がっている。
海周りに棲む翼竜の糞特有の、生臭い臭いが鼻につく。エリンは反射的にコートの胸元へ手を押し当て、胸ポケットに入れた手帳の感触を確かめた。
「きっと役目を果たしてみせる。私はもう、壊すしかできない化け物じゃないもの」
風に吹かれそうな小さな声でエリンが呟く。フッサは耳をピルピルと震わせたが、何も言わずに石畳を踏み締めた。
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