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第二十八話


皮膚にぴりぴりとした刺激があるほどの妙に張り詰めた空気の刺激を受け、アストリッドはゆっくりと意識を取り戻した。

ぼんやりと見上げた天井は見慣れたクリーム色のものではなく、実家であるオーケシュトレーム侯爵のタウンハウスと同じ模様で、アストリッドは自分がなぜ実家にいるのか、どうして寝ていたのかわからなかったが、目の前でしわがれた手がひらひらと振られたことで、視線を横にずらした。


あら、どうしてみんなしんぱいそうにわたくしをみているのかしら…………?

それにステーンハンマルせんせいまでいらっしゃるなんて。


ぐるりと部屋を見渡せば、そこは自分が結婚するまで使っていた部屋で、すでに主を失ったものの母親がいつやってきてもすぐ使えるようにと掃除の指示を怠らずしていたことを知っている。


わたくしのすきなはなも、かざってくださっているわ。


鏡の前に置かれた花瓶には、紫色の大輪の花が躍動を感じさせる葉の中で鮮やかに主張しながら咲き誇っていた。


「お気づきになられましたか」


柔らかい物言いはアストリッドが幼い頃から親しんできたもので、発熱に苦しむなか何度この声に安堵を覚えたことかと懐かしく思った。

声をかけられた今も、なぜ先生から声がかかるのかという疑問と、ああもう大丈夫なのだという安心感とがアストリッドを悩ませて、ぱちりと瞬きをした。


「さてさて、アストリッド様。少し診させていただいてもよろしいですかな」


白い口髭が印象的な医師は呆としているアストリッドから同意を得るとむき出しになった腕を取り、脈を計り始めた。

しばらくそのしわがれた手を見ていたアストリッドだったが、あやふやだった意識がはっきりとしだすと周りを気にする余裕がでてきた。


「あの。わたくしはいったいどうしたと?」

「食事をされている最中に急に席を立たれたかと思うとそのまま倒れられて意識を失われたのですよ。覚えておられませんか?」


なるほど、そう言われてみればその通りだったと虚ろながらに思い出したアストリッドだったが、なぜ食事時に席を立つ無作法をしたのだろうかと眉をひそめていると、医師の横でアストリッドまるで怒っているかのように顔を顰めながら食い入るように見つめている弟が目に飛び込んできた。

それが今朝がた夢に見た”物語”での弟のグリーンガーネットの煌きと似て、アストリッドは倒れる直前の出来事を鮮明に思い出し、悲鳴を上げそうになった。

そうならなかったのは青ざめた顔で両手を握りしめている母親とその母親の後ろから見守りながらもアストリッドから視線をはずそうとしない父親、それに全てを知っているかのようにアストリッドの震える手を優しく握りこんだ医師がいるからだ。


大丈夫、私はまだ愛されている。


それでもゆらゆらと視線をさまよわせるのは心が追い付いていないせいかもしれない。

倒れる前に受けた衝撃的な話は、アストリッドがこの後しばらくすると家族から見放され死に追いやられる事実をまざまざと思い出させてくれた。

慈愛に満ちたまなざしを向ける両親や姉に対しての敬愛の念が強すぎるきらいのある弟が、”物語”の中でどれほどの仕打ちをアストリッドにし、痛めつけるのか。

今目の前にる彼らには全く関係のないことと言えるこの胸の執拗なまでの痛みを、誰が理解してくれるというのだろう。

”物語”で知らされ続ける苦しみも怒りも痛みも、彼らから与えられた物ではない。

だからこそアストリッドは家族を愛そうと努力したし、実際とても愛していた。

その彼らが心配そうに自分を見守っているのだ、悲鳴を上げるなど彼女にはできなかった。


すぅと息を吸い込んでゆっくりと口から吐き出すこと数回。

アストリッドが動揺を悟られまいと自力で落ち着きを取り戻したのを見計らったステーンハンマルは、少し失礼を致しますと声をかけながら瞼を広げたり脈を測ったりとアストリッドの体調をチェックした後、アストリッドに二、三の質問をした。

問われるままに答えると、医師は何度か頷いたのち動きを止めた。


「妊娠の兆候が見受けられますね」


診察を見守っていたはらはらとした空気は一瞬、まったくの沈黙が支配した。

だが次の瞬間、部屋を揺るがすほどの歓声が上がり、口々に言祝ぎが紡がれる。


「まあまあまあ!アストリッド!なんて喜ばしいことでしょう!」

「そうか。よくやったぞ」

「姉上、おめでとうございます。これは早速義兄上にお知らせせねば」


老齢の主治医を押しのける勢いでアストリッドの側までやってきた家族たちはそれぞれがおめでとうと何度も口にして、アストリッドを驚かせた。

もちろん当人であるアストリッドも驚いている、というよりは当惑していた。


まさか。私が、妊娠…………?


彼女は十分妊娠に気を付けているはずだった。

”物語”通りであるならば若くして死を迎えなければならない運命となるし、"物語"の中のアストリッドには子はいない。

だが少しずつ”物語”との相違がある今、子が授かる可能性がなくはない。

愛するアンブロウシスとの子は”物語”を知るアストリッドにしてみれば夢でしかないし、切望してやまないからこそ意図して考えないようにもしていることだ。

もし本当に子が生まれでもしたら、もし本当に”物語”通りの最後を迎えるならば、残された子はいったいどうなるというのか。

アストリッドを貶めた弟や暴行と死を与えた父親が残された子供を大切にしてくれるとは思えない。

離縁状にサインしたアンブロウシスならばなおのこと。


望んではいけない。


アンブロウシスには結婚当初、しばらくは二人きりでいたいと無理を言った。

その後は学院で生活をしなければならないからと言い訳をして子をなさなかった。

アストリッドの思いはただ一つ、運命がアストリッドに無情にも死を与えるのならば、死の運命が明確に崩れ去るまで身軽でいなければいけなかった。

だが学院を去り、理由がなくなった今、アンブロウシスは二人の子を望んでいる。

わかっている。

それが貴族女性の務めであることが。

国境から戻ってきたとされるアストリッドが社交の場になかなか出ないことでよく思わない者が多いというのに、さらに義務であるはずの子をなさないのであらば社交界でのアストリッドの立場がさらに悪くなる。

そのことを危惧しているのだ。

彼は優しい。

その彼を裏切るようで申し訳ない気持ちと、”物語”で苦しめられる未来がせめぎ合い、体調を崩しがちになっていた。


なのに、妊娠…………?


アストリッドは当惑ぎみに平らな腹に手を当てた。



そんなアストリッドの様子に歓喜に沸く家族は誰もが気がつかない。

怒涛のようなの言祝ぎが終われば今度はアストリッドが子供連れで訪れても安心していられるようにと子供部屋を設えようだの、乳母の手配も必要ですわだの、いやその前にこれから大きくなるお腹に合わせた妊婦服が必要ですわねだのと気の早い話が繰り広げられたが、こほんとわざとらしい咳払いの音が近くから響き、皆がはっとして口を閉ざした。

見れば恐ろしいほどの笑みを湛えたステーンハンマルが口を閉ざした一人一人に視線を向けながら、赤子でもわかるようにゆっくりとした口調で話し始めた。

ただし内容はそれとは限らなかったが。


「皆様。喜ばしい出来事で心が沸き立たれているなか大変申し上げにくいことなのですが、寝台に横たわっていらっしゃるアストリッド様は気を失われて今し方意識を取り戻したばかりでまったく本調子ではございません。顔色と瞼から貧血も酷いようですから頭痛も相当のことでしょう。あなた方の歓喜の声は今のアストリッド様には随分と辛く苦しいものとなりますので、もう少し声を落としていただかなければこの部屋からご退出を願わなければなりません。さあ、皆様方、一歩後ろに下がって気の毒な患者の容体をわたくしめに確認させてはいただけないでしょうか。もちろん思いやりがあり聡明な皆様方のことですから、私の助言など本来必要などないと存じ上げてはおりますが」


これには誰もが顔を見合わせ、苦笑しながら一歩下がるしかなかった。

だがステーンハンマルはそれだけでは許さず「内診を致しますのでご退出願いましょうか」とにこやかに微笑んだ。

結局部屋から出て行かねばならないのだなと苦笑しながら父親がドアへ向かえば、それに追随するように母親が、そして後ろ髪を引かれるように弟が扉に手をかけつつアストリッドを見ていたが、主治医のにこやかな笑みと外へと示された手に諦めのため息をついて扉を閉めた。

ステーンハンマル医師とアストリッドはしばらく無言で扉を見つめていたが、靴音が確実に遠ざかったことを確認するとステーンハンマルはアストリッドに向き直り、しわの奥に隠された円らな瞳をさらに和ませた。


「全く困ったものですな。確かに手放しで喜びを露わにする姿は見ていて気持ちの良い物ですが、アストリッド様のご両親にしても弟君にしてもちぃとばかり度が過ぎる。いやでもこれは、皆様方がアストリッド様のことを愛されている証拠でもありますが」


長い付き合いの中、これほどまでにお茶目な医師を見たことはなく、アストリッドは瞳を大きく見開いた。

さらにウィンクされてしまったのだから、たまったものではない。

先ほどまでの重苦しい胸の痛みはどこへやら、思わずくすりと笑ってしまった。


「そうやって笑っていられる方がよろしい」


驚くアストリッドににこやかに微笑んだステーンハンマルは足下に置いてある鞄のなかから数個の器具を取り出し、気を失った時に緩まされていた服をはだけさせた。

ひんやりとした器具がアストリッドの肌に当たり、思わず鳥肌が立ったが、されるがままにじっとしていた。


「よろしいですよ。もう服を着られても」


言われるままに服を着付け、アストリッドは枕に頭を預けた。

ステーンハンマルが器具を片付けている間、カチャカチャと擦れる金属音だけが部屋に響いた。

全てを片付け終わり、ぱちんと鞄の鍵をしめると、ステーンハンマルはアストリッドの瞳をじっと見て問うた。




「さて、アストリッド様。

貴方が何を恐れているのか、教えていただけないですかな?」





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