(6)
使い込まれた木製のテーブルの上で、その大きな本は、怪しさの欠片もなくただそこにあった。しゃべりもせず、悪い気も吐き出さない。一見、普通の本だ。
僕は手順通り、まずは手を触れずに本の観察から始めた。
触れたとたんにページが開いて火山が噴火したり、水が滝のように流れ出したりする本もあるから、いきなり触れるのは御法度なのだ。五代目が僕に任せるくらいだから、触っても大丈夫なんだろうけど、これも身についた習性というやつかもしれない。嬉しくないけど。
群青色の表紙に銀の箔押しで縦書きのタイトルが刻まれている。
『天の本』
宇宙に関する本だろうか。
だとしたらずいぶん直接的で、情緒もへったくれもないタイトルだ。著者名はタイトルの下方に同じく銀の箔押しで『黒羽時雨』とある。出版社の名前はない。
店用のノートパソコンを開いて、古書店が使う本のデータベースにアクセスして調べてみた。
十二年前に自費出版で発売されたもので、五十冊しか印刷されていないことがわかった。発行部数的にはこっちも十分、希少価値がある。ただし本の概要については何も載っていなかった。
千年堂専用のデータベースも検索してみたが、やはり載っていない。
もし過去にこの店で取り扱ったことがある本なら、ある程度、中身がわかると思ったのだ。
本は書いてある内容によって、発揮する能力が違う。『天の本』が宇宙の本ならば、開いた途端に目の前に宇宙空間が広がる可能性だってある。
本を知ることは重要な作業だった。
けれど、外観から分かるのはここまでだ。後は触れたり、開いてみる必要がある。
僕は筆を取り出して、宙に「睡蓮」という字を描いた。
本を一時的に眠らせる筆業だ。
手を打ち合わせ、術を発動する。
「睡蓮」という字が薄い桃色の花へと変化する。表紙から少し浮かんだところに、睡蓮の花が咲いた。大きく開いた花弁はゆっくりと閉じていき、最後は蕾になる。蕾のままであれば、本は眠っている状態だ。術が解けてくると、蕾はまたゆっくりと開く。僕の能力だと三十分くらいが限界だけれど、これで本に触れてもいきなり襲ってきたりしないはずだった。
睡蓮の蕾がしっかり閉じていることを確認してから、僕は本に手を伸ばした。
指先が表紙に触れる直前、バチッと派手な音をたてて青い火花が飛び散った。
睡蓮の蕾が砕け散る。
「っ!」
思わず手をひっこめた。指先がじんじんと痺れている。
「筆業が破られた……なんで?」
こんなことは初めてだった。
『花は散乱した』
『花は散歩した』
『おまえは散髪した』
立ち尽くす僕を本たちがからかっていたが、僕の頭の中は別のことでいっぱいになっていた。
術を間違えた?
それはない。ちゃんと花は咲いた。
じゃあ、なんで?
『いわく付きの本に対する千年家の力は絶対ではない』
五代目の言葉が僕の頭の中で甦る。そのことは何度も五代目から聞いて理解していた。そのつもりだった。
でも僕は本当の意味では分かっていなかったのだ。
だって、五代目はいつだって完璧に浄化していたから。おじいちゃんには不可能なんてなかったから。
指先が震えていた。
僕は本当に震えていたのだ。
術が破られたこと。
筆術が絶対ではないということ。
そして、初めて本を怖いと思ったこと。
そのすべてがショックだった。
目の前にある『天の本』の大きさが急にぐぐっと増したような気がした。
雨が、店のガラス戸を強く打った。
飛び上がるほどにビクっとした。
どきどきと心臓が鼓動を高める。
もしかしたら、泡に包まれた本からの強い念の影響なのかもしれない。
まだ未熟な僕を圧迫し、ついには向き合うべき『天の本』から目を逸らさせた。
僕は『天の本』を見えないところに片付けた。汚いものを扱うような手つきになった。その姿は、物の怪と成り果てた本を持ち込んでくる客と、なんら変わらなかった。
『逃げた』
『見習いが 逃げたぞ』
『追え! 追うのだ!』
『追っても無駄でしょ』
『そうそう 追うだけ丸太ってもんよ』
『でも追わなきゃ歯痛じゃない?』
僕は、筆業師の血を忘れて、逃げた。
本たちの声からも逃げるように、テーブルに突っ伏して目を閉じ、耳を塞いだ。