(5)
制服を脱いで普段着になった僕は、愛用の筆を持って店へと向かった。一瞬だけ、扉を開けるのを躊躇ったが、逃げることもできなかった。
僕にできることをするしかない。
深呼吸を一つ。
扉を開けた。
朝からの雨のせいで、店内の空気もじっとりと重さを増していた。
けれどその原因は雨だけではないようだ。
異様な空気に満ちている。
言葉にするのは難しい。
何の理由もなしにふっと嫌な気分されて、不安に追い詰められていく息苦しさを感じる。
その根源は……
テーブルの上にあるアレだろう。
百科事典のような大きくて分厚い紺色の表紙の本と、単行本サイズの古い本が置いてある。その辺りだけうっすらと灰色のもやに覆われているのは目の錯覚ではない。
おじいちゃんはスーツ姿にコートを羽織り、でかける用意をしていた。
「この本、どうしたの?」
「左の大きい方はさっき知り合いの古書店の主から預かった。小さい方は、午前中に直接持ち込まれたものだ」
注意深く見てみれば、単行本サイズの方からもやもやとした灰色の気が立ち上っている。そのせいで、本のタイトルが霞んで読めない。紙袋に入れて、何重にも梱包されて持ち込まれたという。
それだけで、どれだけ持ち主が嫌だったのかわかる。
「早く処理した方がいいが、今は出かけなければならん。店番しながら見ててくれ。おまえなら問題はないと思うが、置いておくだけで人に悪影響を与える代物だから気をつけろ。周はこっちの大きい方を頼む。悪くはないんだが、問題がある」
確かに、大きな本からは嫌な気配はまるでしない。
それでも魂を持った本は、一見、普通に見えるから油断は大敵だ。
「どんな問題?」
「開かないんだ」
なるほど。
それは問題だ。
「五代目はそっちを?」
単行本の方へちらりと視線を送る。とても古そうな本だ。
「消滅させることができれば楽なんだが、希少価値があってな。本は残さなければならない。覚醒した意識だけを封じるしかない。厄介だ。帰ったら奥の書庫で処理する。周は店を使え。五時になったら店を閉めていい」
小さな頃から、沢山の本がこの店に持ち込まれるのを見てきたが、今回のは大物の類に入るだろう。
五代目を取り巻く空気がピリピリしている。書架の本たちはその気に圧されているのか、いつも以上に静かだ。
正直なところ、もし五代目が不在の間に何かあったら、僕に対処できるかわからなかった。
筆業師としては駆け出しで、僕一人で浄化したことはない。いつもは五代目の助手的な作業をするだけだ。
けれど僕はただ「了解」と答えるしかなかった。
五代目の目がいつにもなく真剣だったから、これはすごくヤバイ事態なんだと全身が感じとっていた。
五代目は瘴気を吐き出す本に触れぬよう、筆業で「泡」という字を使った一時的な封印を施してから外出した。
五代目がいなくなると、書架にある本たちが一斉におしゃべりを開始した。
『さっきの すごかったね〜』
『あれは そうとう恨みを持っているね』
『恨みじゃなくて 旨味なんだ』
『旨味という名の 歩みだよ』
『歩みの他には 凹みなのです』
彼らの会話がおかしいのはいつものことだ。雨の日は湿気を含んだ紙のせいで、とくに日本語が壊れるらしい。
そんな彼らは無視して、僕は自分に託された本と向き合うことにした。




