第1話 桜舞う朝と、近すぎる香水 1
家の中の匂いは、ほとんど名前をつけなくていい。洗ったシャツの布。昨夜使った石鹸。冷蔵庫を開けた時だけ漏れる冷気。机の上の紙とインク。窓の隙間から入ってくる春の空気。
全部、知っている。知っている匂いは楽だ。嗅ぎ分ける必要がないわけじゃない。ただ、そこに意味がないと分かっているから、頭の外へ追い出せる。
制服の袖を通し、鞄の中身を確認する。
財布、スマホ、筆箱、ミントタブレット。
残りは三粒。今日一日ならおそらく足りる。
呼び鈴は鳴らなかった。代わりに、玄関の方で鍵が回った。
「おはよう、慧くん」
澄が顔を出す。俺は鞄のファスナーを閉じながら返した。
「おはよう」
それだけで会話が終わっても困らない相手だ。澄は制服姿のまま部屋へ入り、俺の顔を一度見て、それから机の上へ視線を落とした。
「ミント、少ないね」
「帰りに買う」
「忘れそう」
「否定できない」
「じゃあ、帰りに言うね」
「今日は平気そう?」
「今は」
「そっか」
澄はそれ以上聞かなかった。体調をすべて申告する必要もない。外へ出ればどうなるかも、わざわざ説明しなくていい。俺が忘れそうなものまで覚えているのも、昔からだ。
そういう意味で、澄は楽だった。
「行こっか」
「ああ」
玄関を開ける。そこで、朝が一気に複雑になる。
廊下に残った誰かの整髪料。階下から上がってくる朝食の匂い。外へ出れば、車道の排気、湿った土や植え込み、洗いたての服、制汗剤、コーヒー、煙草。
歩道を行く人間が増えるたび、情報も増える。駅へ近づけばさらにひどい。同じ制服でも、使っている洗剤も整髪料も朝食も違う。汗の増えたやつもいる。
汗が増えたことは分かる。でも、理由までは分からない。駅まで走っただけかもしれないし、体調が悪いのかもしれない。匂いが勝手に寄越してくるのは、せいぜいそこまでだ。
分かる。
分かるから、邪魔だ。
俺が知りたいのは、前を歩く男子が朝にパンを食ったかどうかじゃない。人の流れから外れ、風上を選ぶ。
地下鉄では人との間隔が空いた位置へ立ち、誰かが近づけば邪魔にならない範囲で半歩ずれる。隣にいる澄との距離だけは、いちいち気にしない。その程度の調整で済むうちはまだいい。
「今日、ちょっと人多いね」
隣で澄が言った。
「新学期だからな」
「もう数日経ったけどね」
「だから余計に慣れてきたんだろ」
「そっか」
澄が小さく笑う。澄にも匂いはある。当たり前だ。
ただ、それはもう、拾った瞬間に警戒する種類の情報じゃない。隣にいても、新しい何かが増えた感じがしない。その差は大きい。
地上へ出ると、春の風が桜の花びらを転がしていた。歩道の端に寄った薄い桃色が、靴の先でまた舞い上がる。
綺麗だとは思う。ただ、花と土と車と人の匂いまで同時に分かってしまう。
我ながら情緒がない。
学校に着く頃には、家を出た時より呼吸が浅くなっていた。
二年三組の扉を開ける。教室は、外より狭いぶん密度が高い。
柔軟剤、制汗剤、シャンプー、整髪料。紙とインク、人の体温、朝の移動で増えた汗。三十人前後の生活が一つの部屋に押し込まれている。
そこへ、混じりきらない香料が一つ重なっていた。
教室の真ん中あたりで、何人かと笑っている女子。
柚木玲奈。
新学期が始まって数日。クラスの顔と名前くらいは、だいたい一致するようになった。その中でも、覚える気がなくても覚えたやつだ。
明るい髪と、よく動く表情。誰かの話に笑って、自分から何かを返して、また別のやつが口を挟む。話しかければすぐ返事が返ってきそうな、目立つタイプだった。
それ以上のことは知らない。
香水が強い。
教室にはいくつも香料が混じっているのに、柚木のものだけは埋もれない。何人かが同時に動いても、どの辺りにいるかは目を向けなくても大体分かる。
便利かと聞かれれば、まったく便利じゃない。離れていれば耐えられる。近づかなければいい。
「じゃ、またあとでね」
澄は自分の席の方へ向かった。
「ん」
短く返して、窓際の後ろから二番目の席へ向かう。
香水を使うこと自体に、俺が口を出す理由もない。席に座ってしまえば、柚木のことも意識から外せるはずだった。
ホームルーム前のざわつきの中で、その柚木が友人と話しながらこちらへ歩いてくる。
俺に用があるわけじゃない。通り道に俺の席があるだけだ。
一メートル。
まだ平気。
もう少し近づく。香料が濃くなる。
さらに半歩。
反射的に息を浅くした。椅子を引くほどじゃない。上体を窓側へ逃がし、柚木との間に半歩ぶんの距離を作る。
「それでさ――」
柚木の声が止まった。
ほんの一瞬で会話はすぐ続いた。けれど、視線だけがこちらへ来る。
目が合った。
どちらも何も言わない。誰かが前の扉から入ってきて、教室の空気がホームルームの始まりへ切り替わった。
柚木は友人の方へ戻り、俺も前を向く。説明する必要はない。俺が離れれば済む話だ。
そう思ったのに、数日前から知っていた柚木玲奈という名前が、さっきまでより頭に残った。
強い香水を使う同級生で、俺が半歩避けたことに気づいたやつ。向こうから見れば、理由もなく避けた感じの悪い男かもしれない。
面倒なことにならなければいい。
そう思って黒板へ視線を向けても、一度拾ってしまった柚木の視線だけは、もう教室の背景には戻らなかった。




