梅雨の気配と、耳のじくじく、あるいは閉ざされた扉の奥の湿気
梅雨の気配と、耳のじくじく、あるいは閉ざされた扉の奥の湿気
### 1. 紫陽花の涙と、パタパタと振る頭
六月の上旬。京都の街はしっとりとした梅雨の雨に濡れ、お寺の境内では色鮮やかな紫陽花が大きな花を咲かせていました。
どこへ行くにも傘が手放せない、そんなジメジメとした空気の朝、診察室にやってきたのは、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルの「ラム」ちゃん(3歳・女の子)と、困り果てた表情の飼い主の佐藤さんです。
「先生、ここ数日、ラムがやたらと後ろ足で耳の後ろを激しく掻いたり、頭を『パタパタパタッ!』と激しく振ったりしているんです。気になって耳の穴をそっと覗いてみたら、なんだか中が赤くなっていて、黒っぽいドロっとした耳あかが出ていて……。心なしか、耳の近くからツーンと酸っぱいような独特な匂いもするんです」
ラムちゃんは診察台の上でも、時折かゆそうに頭を傾け、耳を床にこすりつけるような仕草をしています。
長いお耳をそっと持ち上げて耳鏡で奥を覗くと、耳の穴の皮膚が真っ赤に腫れ上がり、佐藤さんの言う通り、ねっとりとした暗褐色の耳あかがべっとりと溜まっていました。
「佐藤さん、これは典型的な『梅雨時の外耳炎』です。このジメジメとした日本の湿気が、ラムちゃんの綺麗で長いお耳の中で、小さな悪戯を始めてしまったんですね」
### 2. 垂れ耳の奥は、梅雨時の「密室温室」
犬の外耳炎は、年間を通して非常に多い病気ですが、特に梅雨から夏にかけてのこの時期は、劇的に患者数が増加します。それには犬の耳ならではの構造が関係しています。
* **構造が「L字型」で湿気がこもりやすい:** 人間の耳の穴は鼓膜に向かってまっすぐ(水平)ですが、ワンちゃんの耳の穴は一度下へ垂直に下がり、そこから直角にカブッと曲がって鼓膜へ向かう「L字型」をしています。そのため、もともと奥の水分が外へ抜けにくい構造になっています。
* **垂れ耳という名の「閉ざされた扉」:** キャバリアやプードル、レトリバーなどの「垂れ耳」の子は、L字型のサウナにさらに上から厚い毛のフタをしている状態です。梅雨の湿気が加わると、耳の中の湿度はあっという間に 90% を超え、体温で温められた最高の「温室」が完成します。
* **カビの仲間の爆発的増殖:** 普段から健康な皮膚に住んでいる「マラセチア」というイースト菌(カビの一種)や細菌は、この高温多湿が大好物です。環境が整うと一気に爆発的に増殖し、強いかゆみと赤み、そして「独特の酸っぱい匂い」を放つ外耳炎を引き起こすのです。
### 3. お家でできる「絶対にこすらない」優しい耳のケア
「よかれと思って、お家で綿棒を使って奥まで一生懸命掃除していたんです……。それが悪かったんでしょうか」とショックを受ける佐藤さんに、僕は耳のお掃除の「最大の誤解」についてお話ししました。
1. **綿棒で奥をこするのは「絶対にNG」:** 実は、人間用の綿棒でワンちゃんの耳の奥をゴシゴシ擦るのは、獣医学的には最もやってはいけないケアの一つです。L字の手前にある耳あかを、綿棒の先でさらに奥の鼓膜の手前へと「押し込んで」固めてしまうだけでなく、繊細な耳の皮膚を傷つけて炎症を悪化させます。
2. **お家ケアの基本は「拭き取るだけ」:** お家での正しいケアは、目に見える範囲だけで十分です。動物用のイヤークリーナー(洗浄液)をコットンやガーゼにたっぷりと染み込ませ、飼い主さんの人差し指に巻きつけて、耳の入り口の汚れを「優しくなでるように」拭き取ってあげてください。これだけで十分綺麗になります。
3. **お散歩後の「耳の換気タイム」:** 雨の日のお散歩のあとや、シャンプーのあとは、耳の中に水分が残りやすくなります。タオルで優しく水分を拭き取ったあと、少しの間だけお耳をパタンと上にめくって、お部屋のサーキュレーターなどの風を遠くから当てて「耳の中を換気」してあげるのも、梅雨時を乗り切る素晴らしい知恵です。
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### 4. すっきりしたお耳と、軽やかな足取り
ラムちゃんの耳の奥を、病院専用の刺激の少ない洗浄液で優しく洗い流し、溜まっていた耳あかを綺麗に除去しました。仕上げに、マラセチア菌を退治する抗真菌薬と消炎剤が含まれた点耳薬を数滴垂らし、お耳の根元を「クチュクチュ」と優しく揉み込みます。
お掃除が終わると、ラムちゃんはブルブルッと力強く頭を振り、まるで「あぁ、すっきりした!」と言うように、パッと明るい表情でお座りをしました。
「佐藤さん、お耳の奥の通り道ができて、これで風が通るようになりましたよ。お薬を数日続けてもらえば、かゆみもすぐに治まりますからね。お家では綿棒はしまっておいて、コットンで優しくお手入れしてあげてください」
「先生、ありがとうございました! ラムの耳の中がこんなに複雑な構造だとは知りませんでした。これからは『ゴシゴシ』じゃなくて『優しく拭き拭き』で、この梅雨を乗り切ります!」
佐藤さんはラムちゃんのすっきりしたお顔を見て、ホッとしたように微笑んでいました。
### 5. 雨が窓を叩く、夜の診察室で
「先生、お疲れ様です。お耳が痒いときって、ワンちゃんたちは本当にイライラして落ち着かなくなっちゃいますよね。すっきりして良かったです」
看護師の河野が、ラムちゃんの耳から採取した耳あかを顕微鏡で確認したあとのプレパラートを片付けながら言った。
「本当にそうだね。お耳のかゆみって、人間が想像する以上に強いストレスなんだ。ワンちゃんたちは自分で耳の穴を換気することができないからこそ、僕たち人間が梅雨の時期だけは『閉ざされた扉』の奥の環境を気にかけてあげる。その小さな目配りが、彼らの毎日をどれほど快適にするか計り知れないよね」
診察室の窓の外では、京都の夜の雨が静かに降り続いており、遠くの街灯の光が水たまりに反射して滲んでいました。
閉ざされたお耳の奥の、ジメジメとした不快な暗闇に。
すっきりとした心地よい風と、かゆみのない穏やかな眠りを。
どんなにジメジメとした季節がやってきても、大好きな人の隣で、いつでもスッキリと笑顔で過ごせるように。
僕たちの動物病院の明かりは、今夜もすべてのワンちゃんの「お耳の健康」を、優しい風と共に守り続けます。
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