秋の夜長の遠吠え事件、あるいは夕暮れの迷子
秋の夜長の遠吠え事件、あるいは夕暮れの迷子
### 1. 鳴り止まない「寂しさ」の音
十一月の夜。窓の外で虫の音が途絶え、しんと冷え込む時間帯になると、当院の電話が鳴ることが増える。
「先生……柴犬の『源さん』が、また始まったんです。夜中の二時に、天井を見上げて悲しそうに遠吠えを……。近所迷惑も申し訳ないし、何より源さんが何かを訴えているようで、見ていて辛いんです」
十五歳の源さんの飼い主、佐藤さんの声は疲れ切っていた。昼間は穏やかに寝ている源さんだが、日が落ちるとスイッチが入ったように家中を歩き回り、鼻を鳴らし、やがて大きな遠吠えを始めるのだという。
### 2. 「夕暮れ症候群」の正体
「佐藤さん。それは源さんの性格が変わったわけでも、わがままになったわけでもありません。シニア犬に見られる**認知機能不全症(認知症)**、あるいは『夕暮れ症候群』の兆候かもしれません」
犬も人間と同じように、加齢とともに脳内の神経伝達物質のバランスが崩れる。
* **昼夜逆転:** 昼間に寝すぎてしまい、夜に覚醒する。
* **見当識障害:** 自分がどこにいるのか、今がいつなのかが分からなくなり、不安から声を出す。
* **狭い場所への執着:** 部屋の隅に入り込んで出られなくなり、助けを求めて鳴く。
### 3. 「叱る」ではなく「安心」を
「遠吠えを止めたくて叱ってしまうと、彼らの不安はさらに増大し、逆効果になります。夜のパニックを減らすために、今日から三つの工夫をしてみましょう」
1. **日光浴と昼間の刺激:** 昼間にベランダで日光を浴びせ、脳に『今は昼だ』と認識させます。知育玩具でおやつを探させるなど、五感を刺激するのも有効です。
2. **夜の『巣穴』作り:** 寝床を壁際やケージなど、体がどこかに触れる狭い場所に。体が固定されると、犬は本能的に安心します。
3. **アロマとフェロモン:** ラベンダーなどの鎮静効果のある香りや、母犬の匂いを再現したフェロモン剤が、夜の興奮を和らげることがあります。
### 4. 介護は「独り」で背負わない
「先生……薬で眠らせることはできないんでしょうか? 正直、私も限界で……」
佐藤さんの言葉は、介護に直面するすべての飼い主さんの本音だ。
「もちろんです。サプリメントや、穏やかな鎮静効果のあるお薬を使うことは、決して悪いことではありません。源さんがぐっすり眠れることは、佐藤さんの休息にも繋がります。二人で共倒れにならないための『医療』なんです」
僕は、源さんの脳を活性化させるDHA・EPA配合のサプリメントと、夜の不安を抑えるお薬を処方した。
### 5. 静かな夜を、もう一度
一週間後。佐藤さんの表情には、少しだけ余裕が戻っていた。
「先生、お薬とサプリを始めてから、遠吠えが『鼻を鳴らす程度』に落ち着きました。昨日は久しぶりに、私も朝まで眠れたんです。源さんも、心なしか表情がスッキリしたみたいで」
「先生、お疲れ様です。……介護って、正解がないから難しいですね」
河野が、源さんのカルテに「夜の環境整備、継続」と書き込みながら言った。
「そうだね。でも、遠吠えは彼らが精一杯生きている証でもある。その声を『騒音』ではなく『SOS』として受け止め、手を差し伸べてくれる飼い主さんがいる。それだけで、源さんは幸せなんだよ」
窓の外では、冬を予感させる冷たい月が輝いている。
明日もまた、穏やかな朝が来るように。
僕は、静かになった診察室で、温かいコーヒーを啜った。
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