表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
動物病院日誌   作者: じょんどぅ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

204/242

終戦記念日の老犬、あるいは受け継がれるバトン

終戦記念日の老犬、あるいは受け継がれるバトン


### 1. 蝉時雨せみしぐれの正午

八月十五日。正午の時報が街に響き、京都の街が深い静寂に包まれる頃、一台の古びたセダンが病院の前に止まった。

運び込まれてきたのは、大型のシェパード、名前は「武蔵むさし」。

今年で十六歳。シェパードとしては驚異的な長寿だが、その体はもはや自力で頭を持ち上げることすら難しくなっていた。


「先生……いよいよ、その時が来たようです」

付き添ってきたのは、七十代のご夫婦。武蔵君を子犬の頃から、まるで三番目の息子のように育ててきた二人だ。


### 2. 誇り高き血統の終焉

武蔵君の血統を遡ると、かつて軍用犬として活躍した名門の系統に行き着く。

鋭い耳、賢い瞳、そして何より強靭な忠誠心。彼は番犬として、そして家族の守護神として、十六年間一度もその任を解かれることはなかった。




「この子のひいおじいさんは、戦争に行ったと聞いています。でも、この武蔵は、一度も誰かを噛むことも、戦うこともなく、ただひたすら私たちと笑って過ごしてくれました。それが、この子の最大の功績だと思っているんです」

お父さんが、武蔵君の白くなったマズルを優しく撫でた。


### 3. 命の灯火が消える瞬間

武蔵君の心音は、遠くで鳴る太鼓のように、ゆっくりと、しかし確実に間隔を広げていった。

僕は聴診器を当てながら、彼の最期を見守った。




「武蔵君、お疲れ様。君は、平和な時代を精一杯生き抜いた、最高のシェパードだったよ」

僕がそう呟いた瞬間、彼は最後に一度だけ、お母さんの手のひらをペロリと舐めた。

そして、深い、深い溜息を一つ吐いて、彼は静かにその役目を終えた。


午後一時の陽光が、診察室の床に長い影を落としていた。


### 4. 遺された「平和」の証

「先生、ありがとうございました。武蔵がいなくなった寂しさは計り知れませんが、この子が苦しまずに、私たちの腕の中で旅立てたことが、何よりの救いです」


お母さんは、武蔵君が愛用していた、ボロボロに噛み砕かれたテニスボールを大切そうに鞄にしまった。

「このボールを追いかけるのが、この子の『戦争』でした。そんな日々が、これからもずっと続けばいいですね」




### 5. 八月の風に吹かれて

車が見えなくなるまで見送った後、僕は河野と一緒に、武蔵君が寝ていた台を消毒した。

「先生……シェパードって、あんなに優しい顔で逝くんですね。もっと、こう、勇ましい感じかと思っていました」

河野が、少し鼻声を混ぜながら言った。


「戦う必要のない世界で、ただ愛されるためだけに生きた。それは、彼にとっても、彼の祖先にとっても、一番の幸せだったはずだよ。僕たちの仕事は、その幸せな時間を一秒でも長く守ることなんだ」


病院の裏庭からは、相変わらず激しい蝉時雨が聞こえてくる。

平和な時代の、平和な死。

それは、どれほど贅沢で、尊いことか。

八月の熱い風の中で、僕は改めてその重さを噛み締めていた。


「さて、次は……。夏の終わりの『痒み』との決戦だ。室内飼いなのに蚊に刺されて鼻が真っ赤になった猫ちゃん。網戸の死角に潜む、小さな侵入者の物語だ」


僕は、武蔵君のカルテに「永眠」のスタンプを押し、次の戦いへと意識を切り替えた。


---



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ