前者-稽古とメガネ-
──十月三日土曜日、早朝。朝を告げるのは数羽の鶏。揺り起こすのは朝日。
入れ替わりから早二日の朝を迎えるが依然戻る気配はない。この身体は睡眠時間を要すようで夜の九時ごろになるとまぶたが重くなる。その代わり目覚めはとても快調だ。
「いい朝だな──いえ、いい朝ですね」
未だ桔梗の演技を忘れることがあるが、それでも良くなった方だ。今日から僕は桔梗の父を見返すため、結婚に有り付くため礼儀を身に着ける特訓が始まる。一人っ子で甘やかされて育った僕には欠けているものだが、桔梗が手取り足取り指導することによって覚えは早いと思う。
ということで、僕は今お風呂で身を清めていた。秋葉さんには、朝ごはんは要らないと告げてある。まだ僕の拙い礼儀作法では、入れ替わりが見抜かれる恐れがあるからだ。僕と桔梗が入れ替わっていることを知っているのは、学校内では桔梗の友達のモモだけ。後は得体のしれないミコトというウサギの仮面を付けた男のみ。
ミコトといえばあれ以来会っていない。一日しか空いていないが、話したいことが山ほどある。この入れ替わりの真相や解決方法に一番近いと思われる人物だし、個人的にも気がかりだ。
三十分ほどの入浴でこの二日間を振り返るが時間はやはり足らなかった。
このことはひとまず頭の隅に置き、身体を拭き、私服を着、出かける準備をしていると、秋葉さんが小包を持って現れた。
「桔梗さん、メガネ壊したのですか。いってくれればお母さんがお金出したのに」
「いえ、自分のものは自分のお金で買いたいですから……あれ自分のお金か?」
「どうしたのですか」
「な、なんでもないです。なんでも──」
よくよく考えると自分のお金ではなかったな。でも目が悪くなったのは桔梗のせいだし自業自得だ。と、自分を正当化するように愚痴っていると秋葉さんは微笑を浮かべながら懐かしむようにこちらを見てきた。
「中学校頃に目が悪くなった桔梗さん、あれだけメガネを嫌ったのに自分で買うようにまでなったのね」
「そうでしたっけ」
「そうですよ。コンタクトにする、って息巻いて眼科にいったのはいいのですけど、結局ドライアイに加えて目にものを入れることを怖がってメガネにしたんですよ」
「そ……そういえばそうでしたね。あの頃は、まだ子どもでしたから」
「今もこれからも、桔梗さんはずっと私にとって子どもですけどね」
くすっと、相好を崩す秋葉さんはとても愉快そうだ。その楽しげな雰囲気をまとったまま秋葉さんは僕を自室に招いた。断る理由もなく時間もあった僕は秋葉さんの部屋へとお邪魔した。
「髪、そのままでは彼氏君に恥ずかしいですよ」
「友達ですもん。からかわないでください」
僕としては「許婚ですよ」といいたかったが、それは桔梗らしくないし自重に至る。
秋葉さんの用件は髪型のことであった。僕も気になっていたことだが、桔梗は全体的にクセのないショートのストレートなのに、左側の脇に乱れが見える。
「桔梗さんは昔からそこの髪をいじるクセがありましたから、そのせいでクセ毛になるのです」
なるほどそういう原理だったのか。そこで取り出したるは上質の和紙と水引。秋葉さんも同じものを付けていた。脇の髪を巻きつけ束ねるように上質の和紙で包み、水引で体裁を整える。うまいものだ。
「久しぶりね。桔梗さんの髪を触ったのは」
「そうでしたっけ……そうでしたね」
僕は無駄に自分の意思を出さず、言われるがままに応対した方が利口だと軌道修正する。
「桔梗さんは反抗期のなかった素直な子だから、髪も素直なのよね。……もしかして無理してたのかしら?」
「そんな、僕はいつでも素直ですよ」
「そうよね。でも士道さんのあんな顔、久しぶりに見たわよ。桔梗がお父さんを嫌いになったって、仏頂面のまま泣きそうだったんだから」
士道さんとは話の流れとして桔梗の父だろうか。あんな堅物そうな人でも泣くんだな。と、話をしているうちに左側が終わり右側も同じように作業へ移る。
「右側もですか」
「片方だけじゃバランスが悪いでしょ」
「それもそうですね」
見る見るうちに髪型は一定の秩序を取り戻し、秋葉さんが「上出来です」と手鏡を渡す頃には二日前の桔梗がそこにいた。
「ありがとうございます。明日から自分でやりますよ」
「そう残念ね。……ところで、本当にお祭り出ないの。毎年あんなに楽しみにしていたのに」
僕は時間を惜しむように立ち上がると、引き戸に手をかけ秋葉さんの問いに答えた。
「出ますよ……出て見せます。そして、過去最高のお祭りにして見せます」
朝日を背にそう息巻く。
「過去最高ですか。それは難しいことですよ」
「目標は大きく持つのがモットーです。もし、できなかったら笑ってください」
「ふふっ、そうね。お弁当は居間のところよ。そうそう、お母さん今日も出かけますので大丈夫だと思いますけど、もし雨が降ったときは取り込んでもらえますか?」
「わかりました。では行ってきます」
お弁当を右手に、メガネの小包を左手に僕は家を出た。
「おはようございます」
玄関の前には、まだ朝も早いというのに美少年が立っていた。朝日もさることながらこの青年の美貌も眩しい。眼福だがあまりの眩しさに目を悪くしそうだ。
「おはよう。じゃあ、月見公園に行こうか」
礼儀習得のため朝ごはんは桔梗に作ってもらい、近所の月見公園にて指導を兼ねながらいただく手はずとなっている。公園へと向う道すがら、僕は桔梗にお披露目したいものがあった。
「じゃーん。メガネ届いたんだ」
「すぐ届くのがあそこの売りですが、こんなに早くとは良かったですね」
桔梗も喜んでくれているようだ。僕としてもメガネをかけたことがないため、期待に胸を躍らせていた。故にさっそく歩きながら新品のメガネをかけてみた。
「どうかな?」
赤の四角いフレームが織り成すスレンダーな魅力。割とかけている人が多い作りのタイプだ。
「お似合いですよ。自分でいうのも何ですが。度の方は合っていますか?」
「ああ、あそこの看板もばっちりだ。──金村家だろ」
僕は前方一〇メートル先の看板を指差しこう告げた。
「金村……金村のお爺ちゃん亡くなったんですか。もう九十で足腰弱くなっていましたからね」
看板を見るなり桔梗の顔は曇ってしまった。僕の見つけた看板は葬式の案内だったのだ。しかも、よりにもよって桔梗の知り合いだったらしい。空気が悪くなる発見をしてしまった僕は雰囲気につられ、ついついこんな問答を始めてしまった。
「……なあ桔梗。好きな人とはやっぱり、ずっと一緒に居たいものかな?」
「それはそうですよ。それが一番の幸せです。だから金村さんのお爺ちゃんは幸せだったと思いますよ。お婆さんと九十まで寄り添い歩けたのですから。清水君は違うのですか?」
「僕もそう思っていた時期があったけど、贅沢はいうもんじゃないしな。それにほら、幸せは生ものだから、長くなると当たり前になるというか、腐っちゃうと思うんだ」
これは僕の持論というか、僻みのようなものだ。努力とかで何ともならないことに対しての。
「一瞬の幸せが本当の幸せということですか?」
「いや永続的な幸せなんて存在しないということ。哲学的にじゃなくて現実的に」
「確かに幸せは当たり前に変わっていきますからね。それでもその当たり前は失った時にまた幸せの形に戻るものですよ」
「それでは遅いだろ」
「遅くはないですよ。思い出に変わりますし」
「僕なら後悔に変わるけどな……なんで気づかなかったんだろうって」
「いいじゃないですか。後悔という形でその人のことを忘れていないなら、私はそれでも嬉しいですよ──思い出として想ってもらえればもっと嬉しいですけどね」
桔梗の回答はとても明朗だった。すでに考えていたかのようにすらすらと、僕の考えとは違うものが湧き出てくる。とても意義のある問答に僕は不謹慎だが笑みがこぼれた。
「──辛気臭い話は終わり。メガネの話に戻ろう。じゃあ、次。これはどうかな」
辛気臭いに長居は無用。未来でも過去でもなく現在の話をしよう。次のメガネは赤の直線と曲線が織り成す楕円を描いたハーフリムがやわらかさとシャープさを演出。
「これも素敵ですね。……二つお買いになったのですか?」
桔梗の質問には答えず、次のメガネをかける。今度は変り種、赤のツーポイント。俗にいう縁無しメガネだ。素材そのものを妨げず生かす作りの近年流行タイプのメガネだ。
「み、三つ目……素顔に近くてよろしいのではないでしょうか。メガネが目立ちませんし」
「だろだろ、世界が変わるなー。桔梗はどれがいいと思う?」
初めてのメガネに浮かれ気分の僕と対照的に何かいいたげな桔梗。しかし、桔梗が口を開く前に月見公園へとついてしまった。楓の木々が立ち並ぶ並木道を僕が楽しげに見渡しながら歩く。その並木道から一本道を逸れると落ち着いた東屋が見えた。
「ここで食べよう。雰囲気もいいしさ」
そうですね、と桔梗の了承も得、僕たちはここで食事を取ることとなった。
桔梗はバックから重箱と食器類を取り出し、その中身を披露した。
「重箱って──何だこれ、何時間かけたんだ」
「大したことないですよ。お口に合えば良いのですか」
桔梗は何食わぬ顔でこの手間をかけたご馳走を披露する。だが、僕の驚いた顔を見るなり口元は嬉しそうだ。
「できるだけ種類を増やしてみました。それぞれに食べる作法や順番がありますので──ふわあっ……と、説明中にあくびなど失礼しました」
そういって目頭を押さえる桔梗。見ると目元の血行が宜しくないようだ。
「……僕のためにありがとな」
「大丈夫ですよ。縒りは掛けましたが、手間は掛かってないですから」
「嘘ばっかついてると、ペテン師になるぞ」
「当人が手間と感じないんですから、それは手間ではないのです」
桔梗の対応は少し拗ねたように見えてどこか楽しそうだ。そのさなか、僕がおかずに箸を使わずに手を出すと、すばやい動きでそれを阻む手が現れた。
「お行儀悪いです。すでに修練は始まっているのですよ」
ぺしっと、無作法な手の甲をしなやかな手を擁した桔梗が叩く。……そこからは地獄だった。食べる順番が違う、器の持ち方が違う、音を立てるな、姿勢を崩すな、食べながらしゃべるな、無言で食事をしない──あれ、どうすればいいんだ。手皿で受けるな、肘をつくな……と、貴族の教育係ほどに口うるさい指導に僕は耐え続けた。
ちなみにこの地獄のような行儀講座は後一週間も続く。ため息も漏れるというものだ。
「──ご苦労様でした。お茶です」
食事の作法を厳しく仕込まれたが、それも永遠ではなくやっと今日の分は終わり。桔梗も水筒からお茶を注ぎ僕に振る舞う頃には、いつもどおりの穏やかな口調に戻っていた。
「桔梗は礼儀のこととなると、性格変わるよな」
「父が一週間家を空けるその合間に礼儀作法を仕込むのですから、それなりの厳しさは必要ですよ。そういう清水君も入れ替わってから性格が変わったように思えますよ」
十月最終日に控えた月下神社の例祭のため、親交のある神社の宮司さんへ挨拶回りをしなければいけない。それらを前半のうちに終わらせたいらしく、この一週間のスケジュールはいつも埋まっているらしい。
「そうか……あっち!」
食後のお茶は入れたてと思えるほどに熱かった。
「ふーふーしないと熱いですよ。……清水君はいろんな意味で自由になったと思います。昔はもっとクールでしたのに」
「まあ、役作りもあったかな。僕の秀麗な風貌にはクールな性格が映えるし。……そう思えば、桔梗の身体になってからは、ほとんど自重してないもんな」
「してくださいよ。人の身体だからって……」
「もう僕の身体だもん。それとも戻りたいのか?」
「戻りたい反面、戻りたくないという気持ちもあります。ですが、壊れてしまうぐらいなら戻らなくても構わないと思えてきました」
「よくわかないけど、複雑ってことだね」
「………誰のせいですか」
秋の始まりまで生き残った蚊のような声で呟く桔梗の意図は読み取れない。というより人の複雑な心を理解することを今までサボってきたつけとして僕は彼女の気持ちはわからない、といった方が正しいのだろう。
気まずくなった僕は東屋の外へ足を踏み出す。するとどうであろう、先程までの晴天が嘘のように空がぐずりはじめた。
「……一雨くるかな」
この言葉を待っていたかのように空は泣き出した。その雨量はみるみるうちに豪雨と化し、世界を東屋とその他の世界に分けた。
「これはすごいですね」
隔絶された世界。二人だけの世界。桔梗の小声を拾えないほどに沛然と屋根を叩く雨は、僕らの重苦しいをも洗い流した。そしてあることを思い出させた。
「そうだ洗濯物! 秋葉さんにもし雨が降ったら取り込んでくださいね、って頼まれていたんだ」
朝に誓った小さな約束。まさかこの秋晴れで果たすことになるとは思わなかった。しかし果たそうにもこの雨では前に進むことさえ困難のゆえ、こんな秋晴れの下雨具など当然持ち歩いてはいない。屋根の外に手を出し雨量を確かめるが、目で見るよりもその勢いは強く感じられた。お手上げだった。
立ちつくし無為な時間を過ごす僕の後ろでは、桔梗がせっせと行動に移っていた。荷物をまとめ小さく「よしっ!」というと桔梗はなにかを取り出し僕の頭の上に開いた。
「早く参りましょう。手遅れになりますよ」
見上げる僕にそう告げた桔梗の右手には傘が握られていた。
「こんな晴れの日に雨具を持ち歩いていたのか」
「はい、備えあれば患いなしですよ」
そういって笑う桔梗は実に頼もしかったが、患いがないというのは少しの語弊があるのかもしれない。桔梗が取り出したものは傘であるがあくまで〞備え〟の域からでない折り畳み傘。それも一張であった。小雨程度を凌ぐには十分だが驟雨の盛りを任せるには、二人を雨から守るには心細いものだ。そのことを踏まえ僕は桔梗に提案した。
「桔梗はここで待っていてくれるかな。さすがに折り畳み傘でこの雨は厳しいからさ」
「それもそうですね。わかりました。では私はここで――」
僕の提案に応諾する桔梗の言葉は第三者により遮られた。
「きゃあああー!」
悍馬の如く嘶く雷鳴。強い光が重い空から落ちると続いて桔梗の悲鳴が轟いた。
「大丈夫か桔梗?」
「無理です…………無茶です」
すっかり膝を折り両手で両耳を塞ぎ外界の情報を絶つ桔梗は、僕の問いかけに薄弱な反応しか示さない。その生来の白さを通り越し青ざめる美少年の傍にいてあげたいことも山山だが、僕には今朝誓った破れぬ約束がある。幸い先程落ちた雷も遠いようだし僕がいたところで気の利いた言葉もかけられない。僕は後ろ髪をひかれながら約束を果たしに足を踏み出した。
「悪いな桔梗。すぐ戻るから」
僕は足を踏み出した――はずだったが、思うように前へ進めない。それは美の結晶を置いてけぼりにする僕の気後れといった感情の仕業ではない。物理的な力によるものだった。
「はなしてくれるかな……桔梗」
力の正体は無言で服の裾を掴んではなさない桔梗であった。完全に縮こまる桔梗と僕の一尺あまりの身長差は完全に逆転しており、その不安げな表情は無言といえ多大な情報を僕に送った。
「…………わかった。一緒にいこう」
折れる形になったがそれで桔梗の気が済むなら安いものだ。言葉を奪われたように無言を通す桔梗は、立ち上がると僕の小さな背中を頼りに寄り添い歩いた。
それからしばらくは雨音のみが一方的に言葉を重ね、傘の内側に言葉は生まれない。しかし沈黙は永遠には続かなかった。
次話掲載
4/25 12:00頃




