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新渡戸の夜 稲造の朝  作者: 紫水ゆうじ
第5章 夜の訪れ ☯ 夜に逃げる
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後者-最悪の出会い-

 休みの連絡のつもりが長居してしまいました。茶道を通して何か、清水君に得られるものがあればと思ったのですが、礼儀取得の道は険しいようです。ちゃんと通じたのでしょうか、私が敷居や畳の縁を跨いで歩いていたことを、行く時は右足で、戻る時は左足で跨いでいたことを、お辞儀の角度やその他もろもろの細かい所作……あの小さい空間で、あの短い時の間で、どれほどの礼儀が繰り広げられていたということを。すべてとはいいません。一つでもわかっていただけたでしょうか。


 傍らで私の二倍の歩数で、同様の歩幅を補う清水君の顔を見てみますが、何かを考えているようでうかがいしれません。


「清水君、どうしたのですか。何かあったのですか」


「どうしたんだろうな。何かあったんだろうな。はあー」


「ため息は幸せが逃げますよ。何かあったのなら、私に相談してください。よほどのことではない限り、私は驚きませんから」


 この言葉に清水君は、いいづらそうに口を開きました。


「……モモに、入れ替わりのことがばれた」


「へっ、えええええ!? ほんとですかっ!」


 よほどのことでした。


「ああ、あのペテン師の口車にまんまと乗せられて、な」


「ペ、天使? ……モモちゃんのことですか? 確かに、天使のような方ですが──しかし、大問題ですよ。ミコトさんも他言無用といっておりましたし」


 人を責めるのは好きではありませんが、事態が事態だけに黙ってはいられません。


「いっても秋葉の責任も少しはあるんだからな。今秋葉がしている、その手を交差させる奴、叉手といったかな。それをスイセン様がやっているのはおかしい、とね」


「あの方は口が堅いので大丈夫でしょう。なんせ、私の親友ですよ」


 私は叉手を解き清水君を励まします。けして、都合が悪くなったとかは関係ありませんよ。


「まあ、黙ってもらえることになったから大丈夫だけど。まさか、モモと……いや、なんでもない。月下神社に急ごう」


 何か、まだいっていないことがあるように見受けられましたが、無理強いはよくありませんし、自ら口を開くことを待つことにします。それにしても見過ごせないことがあります。


 一歩先に踏み出した清水君に、私は背中からそのことを告げます。


「清水君、お一つよろしいですか? 清水君は、女性の方を名前で呼びますよね。星さん然りモモちゃんも……実は私、自分の名前、結構気に入っているのですよ」


 このさり気なさ、我ながらうまい作戦です。二人とも名前で呼ばれているのに、私が名前で呼ばれていないと、なにか心の底から醜い女性の嫉妬というものが生まれいずるのです。なので、この作戦にてその嫉妬にはご退場願います。成功すればの話ですが。


「つまり、秋葉も名前で呼んで欲しいということかな?」


 ──鋭い、さすが清水君、嫌なくらい鋭利です。振り向きざまキレのある直球にて、私の健気な乙女心を、巧妙な作戦を崩壊に追い込みました。


「……そうともいいます。もちろん、無理にとはいいません」


 思惑が露見すると、こうも恥ずかしいものなのですね。いっそのこと、名前で呼んで、といった方が少ない羞恥で収まったというものです。


 気恥ずかしく顔も上げられない私に、清水君は次のような言葉をかけてくださりました。


「じゃあ、桔梗。神社まで競争しようか」


「──は、はいっ!」


 この瞬間、私は清水君に恋していたのだと、強く実感せしめられました。


 ──同時にそれが、間違った選択でないことも……。


 頭が真っ白になった私をおいて、清水君は何かを振り払うよう緩やかな石段を登り始めました。しかし、鳥居の前に差し掛かると、揖をするなど礼儀は忘れていません。清水君を追おうと走り出し私ですが、距離は思うより早く縮まりました。清水君の足はながいですからね。


 それに比べて私の足は…………競争の行方は、結局清水君へと軍配が上がりました。敗因を挙げるとすれば、競走の途中だというのに専売特許の自己嫌悪をしたことでしょう。


「やっぱり、僕の勝ちだな」


 勝敗など端から興味はありませんでしたが、こんな小さいことでも喜べる清水君は、子どものようでかわいらしいものですね。


「次は負けませんよ」


 と、いっては見たもの石段を走るのは危ないので、今度はそれとなく注意を喚起しようと思います。清水君は私が上り終わる前に境内を進んで行きました。私は軽快な足取りで後を追うのですが、私が石段を上り終え視界が開けると、そこには想像しうる限り最悪の事態が待ち受けていました。


「──桔梗、そこに直りなさいっ!」


 過度に角がある声で私の名が呼ばれます。そのあまりの厳格さに、幼少期よりの脊髄反射で身体が硬直してしまいました。そんな身の危険に怯える臆病な私でしたが、愛する人の窮地を黙って目を伏せる選択だけはしたくありません。なけなしの勇気を総動員し、私は声のする方へと、危うき場所へと足を踏み出しました。


「桔梗──っ!」


 自分の名前を呼ぶことに未だ違和感を覚えますが、第三者がいる場所では尻尾を出すわけにはいかず、お互いの演技に徹します。


「ききょ、清水君──」


 清水君も心得ており、危うくも演技へ移ることに成功しました。


「……何用かな。これは家の問題、邪魔をしないでいただきたい」


 境内の参道で対峙する、小柄な少女と厳格な殿方。私の登場に、殿方は涼やかな声で威嚇してきました。対峙する両者の雰囲気はまったくの別物ですが、どことなく似ているような気がします。それもそのはずです。あの二人の関係は、父と娘。つまるところ、あの厳格な殿方は私の父なのです。謹厳(きんげん)で厳格なたった一人の尊敬すべき父なのです。


「物騒な声が聞こえたもので、ついつい出しゃばってしまいました。何があったのでしょうか」


「君は桔梗の友なのかな。それとも……それ以上の関係なのかな」


「と、友達です」


(いずれは、それ以上の関係を望みますが)


「ならば、下がっていただきたい。これは、〞家〟の問題だ」


 落ち着いた口調ですが、凄みが利いていておぼえず圧倒されます。短髪に無愛想な風貌がまた峻厳さを際立たせ、周りの空気を凍りつかせるようです。しかし、


「もう一度問い返します。桔梗がいったい何をした」


 こちらも引くわけにはいかないのです。


「ほお……肝は据わっておるようだな。その気構えに免じて少々話そうではないか。わたしの娘が不心得なものでな。教育的指導を、な」


 父はそういうと利き手を上げ、間合いに娘の姿の清水君を入れました。


「桔梗さんが殴られるようなことをしたというのですか」


「ああ、巫女ともあろうものが大股を広げ歩き、叉手を、慎みを忘れ、石段を駆け上る無作法。そして最たるが、足元を見てみろ。桔梗は参道の中央、神が通る道を歩いているのだ。神社に生まれ、神に仕える者がそのような不心得、許されるはずがないであろう」


 父に言われて清水君の足元に目を向けると、確かに参道の中央に足が置かれています。参道の中央が神々の道ということは小さき頃より言われてきたことで、私は気にし続けてきましたが、清水君にはまだ教えておりませんでした。──これは明らかに私の手落ちです。なので、罰を受けるのは私であるべきです。


「おっしゃりたいことはわかりました。ですが、手を上げるとするならば、私にしていただきたい」


 私は先述の意志の通り、清水君と父の間に入ります。しかし、その意思を阻むよう、私は手で制されました。それは、清水君の意思によるものです。


「いいのです。僕は参道の中央が神様の通り道だと知っていた。知っていた上で、通ったのですから……」


 その言葉に父は過敏にも反応し、そのわけを問います。


「知っていながらもなぜ、中央を通ったのだ」


 静かな怒りを孕んだこの問いに、清水君はあっさりと答えました。


「だって、神様なんかいないじゃないですか」


 ──これよりは、秒よりも単位が一つ下の世界の話。刹那と呼べばよいのでしょうか。


 静寂な境内に響き渡りました。その衝撃で森の茂みすらもかすかに揺れたかのように見えました。


そして、その余韻は赤くはれ上がった少女の肌だけを残し、空気へととけて行きます。


「痴れ者が! ──もう、よい。お前は祭りに出るな」


 厳しい父の目は呆れに変わり、背中を見せます。大きなその背中は、神社の拝殿へと消えました。未だ張り詰めた空気は残留し、しばらくの間は動くことさえもままなりませんでした。


 それからちょうど、ゆっくりと十指を折ったぐらいの期間を経て、清水君は口を開きます。


「……ごめんな」


 かける言葉などあったものじゃありません。あの場では、もっと賢い選択肢があったはずでしたが清水君はそれらを排し、もっとも愚劣で、もっとも火に油を注ぎ、もっとも自分を()げない答えを選んだのですから。責めることも、慰めることも、今の私にはできませんよ。


「ここは空気が重いですから家に来ませんか。あ、清水君のお家のことですよ」


 入れ替わりとは思考回路を乱雑にさせるもので、ずうずうしくも人の家を自分の物のようにいってしまいました。月下神社と清水君の家は一〇分あまりの距離。一〇分間の無言はなかなか胃に来るものがありましたが、清水君の心を考えればそうもいっていられません。


 とても長い体感時間を経て、ようやく清水君の家へと着きました。誰もいない光のない家の鏡の部屋と向かいます。


次話掲載

4/23 20:00頃

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