そこに道はなかった
往々にしてよくある事だが、その道路も開通するまでには、随分と長い年月を要した。
計画が持ち上がってから何年経ったのか、正確なところは知らない。開通するすると言いながら、ずっと田んぼのまま。いざ工事が始まると、一気に山が削られ、田んぼが埋められ、工事用の重機が行き交うようになって、あっという間だった。
片側二車線、上下合わせて四車線。中央分離帯には、まだ頼りない若木が等間隔に植えられていた。
真新しいアスファルトは黒く、白線は妙に鮮やかだった。周囲に広がる田園風景の中で、そこだけが別の土地から持ってこられたように見えた。
もっとも、便利になったと喜んでばかりもいられない。
新しい道路は、それまで町と町を結んでいた幾つかの主要な生活道路を、容赦なく分断していた。長年そこを行き来していた人間にとっては、昨日まで歩けた道が、今日から突然なくなったようなものだったのだろう。
開通当初は、横断歩道もない場所を平然と渡っていく人を、何度も見かけた。
車の途切れる隙を狙って二車線を横切り、中央分離帯で立ち止まる。そして、反対側の車の流れを見計らって、残りの二車線を渡っていく。
若い人もいれば、年配の人もいた。買い物袋を提げた女性も、自転車を押した男性もいた。
「いや、そこを渡るのは無理だろう」
車内で思わず呟いた事も、一度や二度ではない。
制限速度は時速60キロだと思う。しかし、実際には80キロ近く出している車もある。見通しのよい道路だからこそ、速度を落とさずに走る車が多かった。
そんな場所を、歩いて横断する。無理としか言えない。
もしくは自殺志願者かとさえ思う。
ただ、昔からそこに暮らしていた人達にしてみれば、道路の方が後からやって来たのだ。人間の習慣というものは、地図の上に一本線を引いたくらいでは、簡単に変わらないらしい。
それでも、月日が経つにつれて、無理な横断をする人の姿は少なくなった。
新しい道路が、ようやく土地の風景に馴染み始めた頃だった。
その日も、僕は車で会社から帰る途中だった。
夕方の帰宅ラッシュ。
西の空には、沈んだ太陽の名残が薄く広がっていた。山の稜線は既に黒く、家々や街灯には明かりが灯り始めている。昼と夜の境目にある、あの曖昧な時間だった。
車のヘッドライトが目立ち始め、対向車のフロントガラスは、夕空の色を映して鈍く光っていた。
ラジオからは何かのニュースが流れていたが、内容はほとんど耳に入っていなかった。
夕飯は何にしよう。
冷蔵庫に何が残っていただろうか。
そんな事を考えながら、いつもの道を走っていた。
中央分離帯に人影を見つけたのは、その時だった。
「あれ?」
若木のそばに、誰かが立っていた。右を見て、左を見る。もう一度右を見る。
車の流れを確かめているようだった。
道路を渡りたいのだろう。
僕はそう判断した。
「いやいや、今は無理だって」
思わず声が出た。
帰宅ラッシュの最中である。二車線とも車がひっきりなしに走っていた。ましてや、辺りは薄暗くなり始めている。
横断歩道もない場所で、この交通量の中を渡るなど、無謀としか言いようがない。
人影は、車が通り過ぎるたびに顔を動かしているように見えた。
こちら側へ渡ろうとしているのか、それとも反対側へ戻りたいのか。
そこまではわからなかった。ただ、渡れずに困っているのだろうと思った。
それだけだった。
僕の車は、その人影の横を通り過ぎた。
ほんの数秒。
その後、バックミラーを確認する事もなかった。車の流れに乗り、いつものように家へ向かった。
その時は、何一つ不思議だと思わなかったのである。
帰宅して夕飯を済ませる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
どのグラスで呑もうかと吟味。
「ど、れ、に、し、よ、う、かな・・・」
指さした先にあった、ギャグ枠として並べた某黄色ネズミキャラのグラスに自分で笑いながら、ペッシェヴィーノを注ぐ。余談だが、僕はこれをペッシュビューノと言う。多分最初に耳で聞いたのが、こう聞こえたのだろう。そのまま覚えて直せず、今でも時々笑われる。
ツマミはポテトチップスのりしお味とチョコ。プラス唐揚げ。
ロゼが口に合うが、今日は白だ。一口含むと、表現は出来ないが美味い。また買ってこようと思うくらいには。
「ああ、うまい」
仕事を終えた後の酒は、どうしてこうも美味しいのだろう。
テレビでは、出演者達が賑やかに笑っていた。
僕も何となく画面を眺めながら、グラスを傾けていた。
その時だった。
ふいに、夕方の人影が頭に浮かんだ。
「あの人、渡れたのかな」
何の気なしに呟いた。
あの時間帯では、車が途切れるまで相当待たされたはずだ。少し離れた場所まで歩けば、安全に横断できるところもあっただろうに。
そう考えたところで、妙な違和感を覚えた。
グラスを持つ手が止まった。
「・・・あれ?」
あの場所。
確か、あの辺りには・・・。
僕は記憶の中で、夕方通った道路を辿った。
中央分離帯の若木。
左右に延びる四車線。
片側には田んぼが広がり、もう片側には道路を造るために切り開かれた山の斜面が続いている。
近くに店はない。
住宅もない。
あの場所から、最寄りの店も住宅地も、大人の足でも二十分程はかかるだろう。そんな場所だから、昔の生活道路が分断された場所ではない。住宅街を迂回するようにできた部分だからだ。
以前から人が行き来していた道筋が、残っているわけではないのだ。
「・・・何で、あんなところにいたんだ?」
口にしてみると、疑問は思いのほか大きかった。
農作業の帰りだったのかもしれない。散歩の途中だったのかもしれない。僕の知らない細い農道が、どこかに続いている可能性だってある。
そう考えれば、別に不思議な事ではない。
ただ、どの理由も、どこかしっくりこなかった。
あの人は、どちらから来たのだろう。
そして、どちらへ行こうとしていたのだろう。
仮に田んぼの方から来たとして、道路を渡った先には切り開かれた山があるだけだ。
山側から来たのなら、どこを歩いてきたのか。
新しい道路が通る前から、あの辺りを車で走る事はあった。少なくとも、僕の知る限り、あそこには人が歩いて行き来するような道はなかった。
「知らないだけかもしれないけどな」
そう呟いて、ペッシェヴィーノを呑んだ。ポテトチップスも箸で摘まんで1枚、口に。
土地勘があるからといって、その土地の全てを知っているわけではない。僕の知らない道など、幾らでもあるだろう。
それで納得すればよかった。
ところが、一つ疑問を覚えると、それまで気にも留めなかった事まで気になり始める。僕の悪い癖だ。
あの人は、どんな人だっただろう。
男性だったか。
女性だったか。
若かったか、年配だったか。
服装は。
髪形は。
僕は記憶を辿った。
だが、どうにも思い出せなかった。
人が立っていた事は覚えている。
右を見て、左を見ていた事も。
それなのに、肝心の人物の姿が曖昧なのだ。
まるで、風景の中に人の形をした空白だけが残っているようだった。
「・・・まあ、運転中だったしな」
数秒しか見ていないのだから、当然といえば当然だ。
薄暗くもなっていた。
それ以上の理由など、必要ないはずだった。
僕はグラスを傾けた。
その時、昔聞いた言葉を思い出した。
誰が言っていたのかは覚えていない。友人だったか、親戚だったか。あるいは、テレビか何かで耳にした話だったのかもしれない。
ただ、その言葉だけが、妙に記憶の底から浮かんだ。
・・・子供の頃に視るのは、珍しい事じゃない。
子供は7歳まで神様に近いところにいるから、大人には視えないものが見える事がある。誰でもそうなるわけではないが、波長の合ってしまう子供はいるのだという。
そして、その話には続きがあった。
・・・でも、大人になってから視えたなら、本物だぞ。
「・・・何だ、それ」
思わず苦笑した。随分と都合のいい事である。
子供が神様に近いというのも、波長が合うというのも、科学的な根拠があるわけではないだろう。
そもそも、本物とは何を指すのか。
幽霊か。
それとも、もっと別の何かなのか。
あるいは、視える人って事か・・・。
「いや、待てよ」
僕はグラスをテーブルに置いた。
「別に、幽霊を見たわけじゃないだろう」
決まったわけでもない。自分に言い聞かせるように呟いた。
見たのは人だ。中央分離帯に立っていた、ただの人間。
どこから来たのか分からないというだけで、幽霊扱いするのは失礼な話ではないか。人間には、それぞれ事情というものがある。僕の知らない事情で、あの場所にいたのかもしれない。それを、勝手に不可思議な存在にしてしまうのは、いくら何でも想像力が豊かすぎる。
そう考えると、少しおかしくなった。
酒が回っているのだろう。それとも、ただ疲れているのか。
どちらにしても、考えすぎだ。
僕はもう一口呑んだ。
ところが、あの人影は、どういうわけか頭から離れなかった。
右を見て、左を見る。
車が流れていく。
その中で、ただ一人、中央分離帯に立っている。
記憶の中の光景は、奇妙なほど静かだった。
実際には、車の走行音が絶え間なく響いていたはずなのに。
思い返すと、そこだけ音がない。
勿論、記憶とはそういうものなのだろう。
僕は車の中にいたのだから、あの人の周囲でどんな音がしていたのかなど、知るはずもない。
それでも、あの人の立っていた場所だけが、夕暮れの風景から切り離されているように感じられた。
テレビの番組がニュースに変わっていた。時計を見ると、思っていたよりも時間が経っていた。
僕は立ち上がり、グラスを流しへ運んだ。
窓の外には、静かな住宅街が広がっている。
遠くで救急車のサイレン音がした。
あの道路も、今頃は交通量が減っているだろう。
昼間はひっきりなしに車が行き交う道も、夜が更ければ静かになる。
中央分離帯の若木は、時折通り過ぎるヘッドライトに照らされ、そのたびに細い影を落としているはずだ。
あの人が立っていた場所も、今は空っぽなのだろう。
「・・・明日、ちょっと見てみるか」
ひとり言が漏れた。何を確かめたいのか、自分でもわからなかった。
あの場所に人が立っていた事を示すものなど、何も残っているはずもない。
ただ、昼間の明るい景色を見れば、何かわかるかもしれない。僕の知らなかった農道が見つかるかもしれないし、山の斜面に人の通れる小道があるのかもしれない。
そうなれば、すべて納得できる。
何でもない出来事だったと笑って終われる。
それでいい。
そう思いながら、流しの明かりを消した。
その時、もう一つの考えが浮かんだ。
あの人は、本当に道路を渡ろうとしていたのだろうか。
右を見て、左を見ていた。
僕はその仕草を見て、道路を渡る機会をうかがっているのだと判断した。
けれど、実際に渡ろうとするところを見たわけではない。
ただ、車の流れを眺めていただけなのかもしれない。誰かを待っていたのかもしれない。
あるいは、何かを探していたのかもしれない。
「・・・あんな場所で?」
自分の考えに、自分で首を傾げた。
あそこには何もない。
植えられたばかりの木と、アスファルトと、車の流れ。
しかし、何もないというのは、今の話である。
新しい道路が出来る前、あの場所には何があったのだろう。
田んぼだったのか。
山の斜面だったのか。
それとも、僕の知らない古い道があったのか。
工事によって風景は変わる。山は削られ、田んぼは埋められ、長年そこにあったものが姿を消していく。昨日までの景色が、明日もそのまま続いていくとは限らない。
けれど、そこを歩いていた人の記憶まで、道路工事で消してしまえるわけではない。
何十年も同じ道を歩いていれば、目を閉じていても曲がり角がわかるという人だっているだろう。
新しい道が出来たからといって、古い道の記憶がすぐに消えるわけではないのだ。
僕は、もう一度あの人影を思い浮かべた。
夕暮れの中央分離帯。
ぽつぽつと植えられた若木。
右を見て、左を見る人影。
もしかすると、あの人は僕の知らない昔の道を、今も覚えていたのかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
「・・・まさかね」
小さく笑った。
幾ら何でも、話が飛躍しすぎている。
僕はただ、道路の真ん中に立っていた人を見ただけなのだ。
それ以上のことは何も知らない。
どこから来たのかも。
どこへ行こうとしていたのかも。
そもそも、あの人が何をしていたのかさえ、わかっていない。
わからない事を、わからないままにしておく。
それも悪くないのかもしれない。
世の中の出来事すべてに、納得のいく説明が用意されているとは限らないのだから。
僕は寝室へ向かった。
明日も仕事がある。
いつもの時間に起きて、いつものように車を走らせる。
そして、あの道路を通る。
きっと、中央分離帯に目を向けるだろう。
あの人が立っていた辺りを。
そこに誰もいなければ、それでいい。
もし、また誰かが立っていたとしても、僕はやはり通り過ぎるのだと思う。
ただ、今度は少しだけ、その人がどちらを向いているのか気にするかもしれない。
新しい道路を見ているのか。
それとも、その向こうにある何かを見ているのか。
考えてみれば、僕があの場所で見たのは、道路を渡ろうとしている人ではなかったのかもしれない。
ただ、そこに立っている人だった。
僕が勝手に、渡ろうとしているのだと思っただけで。
あの人は、何を見ていたのだろう。
そして。
あの人の目には、あの場所がどんな風景として映っていたのだろう。
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