第4話:秘密を知っている男 その1:雨の新宿
木曜日の夜、東京には細い雨が降っていた。
残業を終えた私は、駅へ向かう途中で足を止めた。
いつものバーの看板が、濡れた路面にぼんやり映っていた。
今日は帰ろう。
そう思った。
けれど、部屋に戻って一人で食事をする光景を想像した瞬間、足が勝手に店の方向へ向かった。
カウンターの端に座り、ジントニックを注文する。
グラスの水滴を指でなぞっていると、隣に人の気配がした。
「また会いましたね」
顔を上げた。
三十代半ばの男だった。
以前、ここで隣に座ったことがある。仕立てのいいスーツ。整った髪。仕事の愚痴を話し、私が相槌を打つと、少し安心したように笑う男。
私は名前を知らない。
彼も、私の名前を知らないはずだった。
「そうですね」
「覚えていてくれたんですか」
「まあ、なんとなく」
男は笑った。
「よかった。僕だけが覚えていたら、少し恥ずかしいところでした」
こういう会話を、私は何度も経験してきた。
相手は距離を縮める言葉を使う。私は警戒しているように見せながら、実際には、その距離が縮まることを拒まない。
「今日は一人ですか」
「見ればわかるでしょう」
「手厳しいな」
「仕事で疲れているんです」
「それは僕も同じです」
男はウイスキーを注文した。
私たちは仕事の話をした。彼は広告関係の仕事をしているらしい。私は事務職だとだけ答えた。
詳しい会社名は言わない。
住んでいる場所も、最寄り駅も言わない。
私たちは、互いの生活の輪郭を曖昧にしたまま、会話を続けた。
その曖昧さが、夜の間だけは心地よかった。




